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晴天の七回忌

死と理と企図

作者: 穹向 水透

29作目の短編です。今後書くであろう長編の前日譚的作品です。

       1


 春。それは四季のひとつだ。仄かな温度に街は弛んでしまう。人々を縛る透明な鎖が腐食して外れてしまう。眠りから醒めたばかりの蕩々とした顔はリバーシブルで、裏側には狂気の種が所狭しと並んでいるのだ。

 天無弥生(そらなし やよい)は小川の横の遊歩道を歩いていた。彼の誕生日は名前の通り三月にある。今は卯月、つまりは四月。自分の従兄弟の名が「卯月」であることを思い出す。彼の思考は淡い青が引き伸ばされた空と幽かな大地の境目を昼の星のような状態で浮遊している。

 小川からは牧歌的な風景を連想させる柔らかな瀬音が聞こえてくる。失われた遠い昔の情景が浮かんでは弾けていく。

 空気を鼻で吸えば、生命の溢れる匂いがする。初夏とは違う、生まれたての香り。それは同時に死を抱え込んでいるので、命の終わりを告知する香りでもあるのだ。

 彼はぼうっとしていた。彼自身が春の大気に紛れてしまいそうな程に、思考は青の中で浮き沈みを繰り返している。

「もしもし」と声がした。少しイントネーションに違和感があるが、問題はないレベルだ。

「はい」と弥生。彼が声の方を見ると異国情緒の漂う青年が立っていた。アラブ系の顔立ちである。

「道を教えてくれませんか?」

「いいですけど、何処まで?」

「H大学までです」

「あぁ、それなら大丈夫」

 H大学は弥生が通っている大学だ。現在、彼は三年生で、法律を学んでいる支我(しが)ない学生である。

「……へぇ、同じ大学なんですね」

「はい」

 どうやら、この青年もH大学の生徒らしい。留学生だろうか。

「生まれは?」

「生まれ?」

「何処の国で生まれたかって」

「あぁ、サウジアラビア出身です。この国には最近来ました」

「サウジアラビアね……暮らしやすい国かい?」

 弥生がそう訊くと、青年はきょとんとした顔をした。

「何?」

「いや、サウジアラビアって言うと、みんな石油のことしか訊いてこないから……」

「仮に、君が石油を保有していようがいまいが、それは僕には関係のないことだからね」

 青年は微笑んだ。その定型文のような質問を鬱陶しく思っていたのだろう。弥生にはそんな経験はないが、読み取ることはできた。

 遊歩道を進んでいくとH大学の前に着く。実は迷うような道ではない。ただ、橋を間違えると辿り着くのは難しいかもしれない。H大学までに橋は三本あるのだが、その二本目の橋の標識に「H大学前」とあるので紛らわしいのだ。この不親切なシステムのことを青年に教えると、彼は「不思議な国だ」と微笑んだ。

 弥生は心の内側で、その表現を繰り返した。冷静に考えれば、あらゆるものが「不思議」、さらに言えば「不可解」なのだ。

 三本目の橋にはすぐ辿り着いた。

 橋の傍では数人の小学生が棒に糸を巻いただけのもので釣りをしていた。糸の先には小石が括り付けられているようだが、それでも、誰も欠陥について指摘しないようだった。

「あれじゃ無理でしょう」と青年。

「そう思うよ」と弥生。

 遊歩道から外れて桜の並ぶ道を歩く。

「桜は綺麗ですね」

「そう? 僕は特に気にしたことがない」

 桜の下には死体が埋まっていると思い込んでいる。

 桜並木を過ぎると大学の正門に辿り着いた。

「ありがとうございます。えっと、名前は……」

「教えてなかったね。天無弥生だ」

「弥生、三月のことですね。綺麗な名前だ」

「君は?」

「僕はグルーブ。もし時間があったら、東棟の三階の会議室Aまで来てみて下さい」

「そこに何があるの?」

「僕が入っているサークルです」

 青年は去り、弥生は東棟までの道程を青に浮かべた。講義は午後。終われば時間はある。

 彼の思考は巡る。巡り巡って可能性を導く。

 グルーブのサークルに行ってみることにした。


       2


 午後四時になる少し前、弥生は東棟の階段を上っていた。少し黴臭い建物で、人の気配が感じられなかった。グルーブの指定した会議室Aはすぐにわかった。弥生は躊躇いもなくノックをした。

「あーい」

 聞こえてきたのはグルーブの声ではない。ハスキーな女性の声である。十中八九、サークルメンバーだろう。

 弥生がドアを開けると、銀髪の女が彼を凝と見ていた。

「誰?」と当然の質問。 

「グルーブ君っているかな?」

「グルーブ? 今、トイレに行ってると思うよ。まぁ、お客さんなら中に入って待ってなよ」

 ハスキーな声で彼女はそう言った。

 弥生は中に入り、部屋を見渡した。何のサークルか推定しようと考えた。壁はシンプルで色褪せた紙が数枚貼ってある程度で、サークルの中身に繋がるものはなかった。

 テーブルには様々なアイテムがあった。飲み掛けのお茶、チョコレートスナック、トランプ、けん玉、タロットカードもある。眼を引いたのはチェスの駒で、何故か白のクイーンしかなかった。

 チェス部なのか?

 しかし、それにしてはチェス盤も何もない。

 弥生は銀髪の女に訊ねた。

「ここは何のサークル?」

「ここ? 当ててみなよ」

「考えた末にわからないから訊いてる。当てられないよ」

「そう。じゃあ、教えたげよう。ここは『大富豪サークル』だよ」

「大富豪? トランプの?」

「そうそう」

 ドアが開いてグルーブが入ってきた。もうひとりのサークルメンバーと思われる人物も一緒だった。

「あ、弥生じゃないですか」とグルーブ。

「やぁ」

「来てくれたんですね」

「まぁね」

 グルーブともうひとりが席に着いた。

「大富豪やりませんか?」とグルーブ。

「いいけど、比礼野(ひれの)さんがもう少しで来るでしょ」

「あ、それもそうですね」

 グルーブは微笑んだ。

 十分ほどして、会議室Aに白衣の人物が駆け込んできた。見たところ、学生ではないようである。顔立ちからは異国の雰囲気が漂っている。

「あ、比礼野さん」

「いやぁ、すまんね、遅くなった」

 比礼野は息を切らしながら言った。

「おや、新メンバー?」

「いや、お客さんだよ。ほら、大富豪やるから比礼野さんも座って」

 比礼野が促されて席に着くと、グルーブと一緒に入ったきた男子学生がシャッフルを始めた。手際のよいシャッフルだった。

 カードが配られると、スペードの3を持っている人からスタートする。持っていたのは比礼野だった。

 弥生の手持ちは強くも弱くもない。局面次第といったところか。ジョーカーがあるのはアドバンテージではある。

 淡々と事は進み、銀髪の手札が二枚になった時点でグルーブが「革命」を起こした。そこからは手持ちに序列の弱いカードしかなかったと思われるグルーブが無双をし、結果的にグルーブが大富豪となった。弥生は平民の座に落ち着いた。

「大貧民だぁ」と銀髪の沖島(おきしま)が言った。

「ドンマイ」と言ったのはシャッフルの手際がよい相原(あいはら)だ。なお、彼は富豪だった。

 グルーブ、沖島、相原の三人は経済学専攻のようだ。道理で法学専攻の弥生とは面識がなかったわけである。弥生はサークルにも入っていないので人間関係は非常に簡素なのだ。

「もう一回やる?」とグルーブ。

「いや、おれ、バイトの時間だから」

「私も」

 沖島と相原が出て行き、会議室Aには弥生、グルーブ、比礼野が残った。時刻は五時を回り、ガラスの向こうの空は仄かに紫へと変化を始めている。逢魔ヶ刻というのに相応しい。

 比礼野は煙草を取り出した。H大学は敷地内禁煙である。しかし、設備の劣化などでスプリンクラーが機能していないなど、法律面に抵触する欠陥があり煙草を吸う学生や職員も多い。弥生は煙草が合わない質だ。

「弥生くんと言ったね。えっと、君は法学部なんだっけ?」

「はい」

「将来は決めてるのかい?」

「いえ、未定ですね」

「そうか。私が思うに、君は弁護士のような職種は似合わない。君はどうにも異質なように思える」

「比礼野さんはここのOBなんですか?」

「そう。法学部のね。でも、私も法を生業とはしなかった。向いていなかったんだろうな」

「今は、研究職か何かですか?」

「いや、まぁ、大きな声では言えないが、俗に言うモグリの医者なんだよ。他言無用だよ」

「需要がありそうですね」

「勿論。需要はバッチリだ。出稼ぎの不法就労者なんていくらでもいるからね。大富豪を嗜みに来てはいるが暇とは言えないんだ」

 比礼野は煙を吐いた。天井の火災報知器は眠ったままだ。

 グルーブがお盆にお茶を用意してきた。テーブルにあった飲み掛けではない。だが、菓子はテーブルにあった食い掛けのチョコレートスナックである。別に弥生も文句など言わない。

「比礼野さんはどうして医者に?」

「さっきも言ったように、まずは向いてなかった。法を学ぶってことは法に穴を掘ることと同じだと思って専攻したはいいんだけどね、どうにも馴染まなかった。そもそも、私が法の遵守を拒んでいるからかもしれないがね。で、まぁ、私は就職のタイミングを逃し、辿り着いた先は闇医者だよ。真っ当な医師免許も技術もない。いつ捕まってもおかしくはないね」

 比礼野は口の端を上げて答えた。その表情は、現状に後悔しているというわけではないことを示していた。

「弥生くん。折角だし、三人で夕飯でもどうだい? 臨時収入が入ってね、奢らせてもらうよ」

「そうです。弥生、行きましょう」

 弥生は頷いた。断る理由はない。食費が浮くのもプラスである。

 三人は帰り支度をして、欠陥だらけの会議室を後にした。灰皿で煙草が燻っていたが、誰もそれを咎めたりはしない。そもそも、禁煙なので灰皿の存在自体が間違っているともいえる。

 外に出ると、空は竜胆のような色になっている。段々と日照時間は長くなり、弥生は少しだけ憂鬱になる。彼は「秋の夜長」という表現が好きだった。その言葉には魔力のような雰囲気が眠っており、太陽の存在を忘却させてくれる。太陽が嫌いなわけじゃないのだが、彼にとっては目障りなものであったのだ。

「行き先はそうだな、行きつけの居酒屋でいいかな。メニューならたくさんあるしね。あ、そうだ、先に私の職場に寄っていいかな?」

「構いませんよ」

 弥生は答えた。グルーブも頷いていた。奢ってもらう立場では何も言えない。結局、言葉は物質に左右されるしかないのかもしれない。

 比礼野の職場はH大学の最寄り駅からふたつ先にところにあった。彼によると治安があまり良くないらしく、入り口の施錠がされていても安心はできないそうだ。見掛ける顔はどれも大陸由来だと思われるものばかりだった。

「さて、もう見えるよ……ん? ドアの前に誰かいる?」

 比礼野が指差した方を見ると、確かに人影がふたつあった。夕闇のため、詳細はわからなかった。

「患者かな?」

 そう言って近付こうとした比礼野をグルーブが止めた。

「どうした、グルーブくん?」

「あれはポリスです」

「警察? まぁ、思い当たる節しかないが……取り敢えずは逃げるのが賢明か」

「比礼野さん、用事って何だったんです?」

「いや、書類を回収しようと思ってね。正直、それが露見すると身を追われることになりそうだからね。不味いなぁ」

 比礼野は顔を顰めた。

「気を引いてきましょうか?」

「え?」

「道を訊ねるっていう古典的な方法ですけど」

「あぁ、なるほどね。君らを警察が世話している間に書類を持ち出せってことだね。やってみようか。離散した後の集合地点は駅前の『あふれ』って居酒屋にしよう」

 弥生は頷いてから夕闇の中を進み始めた。そして、扉の前で何かを話し合っている警官に声を掛けた。

「すいません、道を訊きたいのですが」

 警官が振り返る。怪訝そうな顔をしている。

「道ぃ? えぇと、お前、行ってきてくれ」

 口髭を蓄えた初老の警官が新人らしき警官に言った。新人は「はい」と素直に返事して弥生の前に立った。

「どちらまで?」

「最寄りのコンビニまでお願いします」

 新人はリズムの狂った口笛を吹きながら弥生の前を歩いている。何の曲かはわからなかった。弥生は夜に口笛を吹くと蛇が出るという話を思い出した。彼は態と夜に口笛を吹いたタイプの人間だった。

 恐らく、そろそろグルーブがもうひとりの警官に道を訊ねる頃だろう。グルーブは市営団地の方に行くと言っていた。コンビニも市営団地もそれなりの距離がある。比礼野が目的を達成するのには充分な時間を確保できる筈だ。

 コンビニには七分程で到着した。人工的な灯りは眩しく、夕闇とは不釣り合いに見えるが、意外にも溶け込んでいるのだと思った。

「ありがとうございました」

 弥生は警官に礼を言った。「治安が良くないからひとりで歩くのは気を付けといた方がいい」と警官は忠告していった。弥生は治安の悪化に協力している自分の存在を自覚し、得てして治安というものは悪くなるのだ、と考えた。今、このコンビニで唐突に誰かが強盗を始めるかもしれない。その誰かは客かもしれないし、警官かもしれないし、弥生自身であるかもしれない。人間は利のためなら手段を惜しまないものである。

 弥生はポケットの中を探り、封筒を取り出した。送り主の名はなく、蠟で封がされていた。

 内容は読んである。

 弥生は彼らを利用しようと考えた。


       3


 弥生が「あふれ」に着くと、既にグルーブと比礼野は待っていた。

「助かったよ」と比礼野が言った。

 店内はそれなりに人がいた。比礼野は店員に指で合図をすると、奥の方の座敷に案内された。店員の顔を見ると理由はわかった。恐らく、比礼野の世話になった経験のある人物なのだろう。

「好きに注文してくれよ」

 比礼野は言った。

「色々なところにパイプがありそうですね」

「え?」

 比礼野はきょとんとした顔をしたが、すぐに理解したようだ。

「まぁ、信頼八割、技術二割だと思っているからね。手は広げておくだけ得なんだよね。でも、あれだな。もう、辞めた方が良さそうだな」

「辞める?」

 グルーブが訊ねた。

「そうさ。警察が私を嗅ぎ回っているらしい。つまりは、信頼関係の崩壊ってことさ」

 比礼野は手を広げた。

 ここでお通しの冷奴が届いた。比礼野は酒を、グルーブと弥生は烏龍茶を頼んだ。ついでにササミの中華風サラダを注文した。

「説明するが、これも『信頼』の要素だ。他言は無用でお願いしたい。私のことが嫌いじゃなければ、だがね」

 比礼野は微笑み、そして語り出した。

「私は二週間ほど前、ちょっとした仕事をした。言ってしまえば、現行の法には抵触してしまうことなんだがね……ある老人の安楽死の手伝いをしてやったんだ」

「安楽死、ですか」

「安楽死?」グルーブは弥生に訊ねた。

「例えば、重い病気でとても苦しいとするだろう? それで死にたいとする。でも、この国では命の引き延ばしが優先される」

「それで、自ら死を選ぶことですか? それは自殺と違うんですか?」

「僕は同じだと思うよ。でも、人間ってのは一定の尊厳があるべきで、安楽死ってのは受け入れるべきことだと思う」

 比礼野は弥生に頷いた。

「私もそう思う。安楽死の認可こそ最優先で採決すべき法だ。苦しくて死にたいのに死ねない、そんな世の中に人間の尊厳なんてありはしない」

「でも、生きていてこそ人間なのでは?」

 グルーブが言った。

「別に生きることを否定しているわけではないよ。私も生きていることは素晴らしいことだとは思うが、やはり、安楽死の否定での尊厳の黙殺は許し難いことなのだ」

 グルーブは烏龍茶を流し込みながら頷いた。

「考え方はそれぞれですね」

「脳の数だけあるからね」

「弥生、生きることは大切ですか?」

「さぁね? 死んだことがないからわからない」

 サラダが到着し、今度はタンドリーチキンを注文した。豚を頼まないのはグルーブへの配慮なのだろう。

「そういえば、比礼野さんはハーフなんですか?」

「そうだよ。私も詳細は知らないんだが、父親がアラブ系らしくてね。私は自分の顔が好きだし、有能だと思っている」

「有能?」

「そう。この顔だと日本人だと思われないのか、患者と打ち解けやすいんだよね」

「なるほど」

 弥生はサラダを皿に盛りながら頷いた。

「グルーブくんとも私の病院で会ったんだよ」

「へぇ。でも、グルーブは留学生なんだから、態々、比礼野さんのところを利用する理由がわかりませんね」

「僕は留学生ではありません」

 グルーブがそう言った。

「僕は国から逃げてきた身です」

「そう、色々な場所を経由して日本まで逃げてきた。大学にいるのは、まぁ、簡単に言えば裏の手引きってやつだね。グルーブの両親は政府の要人らしくてね、それを巡る金がそれなりに動いているんだ」と比礼野。

「密入国なんだね」

「そうです。……通報しますか?」

 グルーブは弥生を凝と見た。その眼には居酒屋の騒々しい光が射し込んでは反射していた。

「しないよ」

 弥生は言った。

「どうして?」

「人が抱えている正義の価値観は万人に共通してるわけじゃない。例えば、嫌いな奴が倒れているとして、ある人は分け隔てなく救急車を呼んだりするだろう。でも、僕ならしない。義務がどうとか言われるだろうけどね、僕はそんなに真面目じゃないんだ」

「弥生くん」と比礼野が煙草に火を点けながら言った。「君、名字なんて言ったっけ?」

「天無です」

「あぁ、なるほどね。運命ってのはあるもんなんだな」

「運命?」

「君の兄貴を知っているよ。天無睦月(むつき)だろう?」

「はい」

「ずっと前に、私が大学生の頃だ。バーだかのカウンターで隣になってね。そこで話をしたんだ。変な奴だと思ったよ」

「僕もそう思います」

「もう、生きてはいないんだろう? それも知ってる。顔に十字の傷のある爺さんから聞いた。彼の話だと、君は国際弁護士を目指していると言っていたようだが」

「価値観は変幻自在です。当時、僕は兄貴もその老人も裁かれるべきだと考えていました。でも、『裁き』という行為はあまりに非生産的だと気付いたんです。大切なのは『償い』です」

 タンドリーチキンが届いた。スパイシーな香りが三人の間に飛び散った。チキンは比礼野が丁寧に切り分けた。

「その老人、ロマノフももういません。残っているのは、彼が大切にしていた『ミール』という少年だけ。その少年を見届けるのが双方の『償い』だと僕は思うのです」

 弥生はポケットから封筒を取り出した。

「それは?」

「ミールからの手紙です。読んで下さい」

 弥生は手紙を手渡し、比礼野とグルーブは読んだ。文は辿々しい英語で、間違いも散見された。

 ふたりは手紙を読み終えると弥生に返却した。

「国?」

 比礼野が訊ねた。

「はい。ミールは小さいながら、自治可能な国を保有しています。ロマノフが残したものらしいのです」

「それで、君はその国に招待されていると?」

「はい。でも、僕はまだ行けません。まだ、まだですね」

「代わりに私たちに行け、と?」

「強制はしません。勧めているだけです。彼の国での財源は外部からのものが大半です。安楽死なんかの実践も行っています」

「何?」

「ちょうど、比礼野さんの立場も危ぶまれているようですので、グルーブと一緒に行くのはどうでしょうか。辺鄙な地にあるし、日本との繋がりもありません」

「なるほどね……」

 比礼野は腕を組んで壁に凭れ掛かった。グルーブは黙って皿を見つめている。ふたりの意思が揺れているのが弥生には何となくわかった。

「別に急ぎではありません。じっくり考えてからで大丈夫です」

 比礼野は頷き、タンドリーチキンを口に運んだ。

 強引になってしまったが、弥生は上手くいくと確信していた。比礼野は安楽死を肯定しているが、それは表向きで、本当は安楽死をさせたいだけだ。そんな比礼野にとって、安楽死を積極的に行い、その医者を探しているミールの国は魅力的にしか映らないだろう。

 睦月とロマノフが死んで終わる筈だった呪われた因果は、弥生とミールが引き継がなければならないようだ。

 弥生は烏龍茶を飲み干した。アルコールを摂っていないのに頭は軽く地震を起こしている。

「そういえば……」とグルーブが話を始めた。彼なりの気遣いだろう。文化の差異に対する驚きを感情豊かに表現してくれた。逃げることは生きる選択で、逃げている彼は生きているのだ。

 料理がやって来ては消えて、またやって来ては消えた。重荷の消えた皿が物静かに並んでいる。

 会計の時、比礼野が店員に頭を下げているのが見えた。

 四月の夜景は生温い。中途半端な温度を携えて停滞する。

「決心が着いたら連絡して下さい。こちらもミールと連絡を取って計画をしなければなりませんから」

 比礼野は手を振って去っていった。

「またね」とグルーブ。

 弥生は手を振った。

 弥生は多少の罪悪感を感じた。

 何故なら、ミールの国は一方通行だからである。


       4


 約二週間後、大学の南棟でメールを読んでいた。

 さっき、銀髪の沖島と話をしたところ、グルーブは帰国、比礼野は長期の旅行でいなくなったため、大富豪ができなくなったと言っていた。

 そう、彼らはミールの国へ行ったのだ。ひとりは安全を、もうひとりは欲望のために、発展途上の一方通行の国へ行ったのだ。

 弥生は今までに、グルーブたちを除いて八人を送り込んで来た。十人送れば『償い』は終わるとミール、今は『ミハイル』と名乗っている人物が言っていた。

 明らかに違和感があった。二年前、ミールに会ったとき、彼は十ばかりの子供だった。そんな子供が国を管理できる筈がない。少なくとも一般的な見方からすればそうだ。だとすると、ロマノフを亡くしたミールの後ろには、悪辣な誰かが潜んでいるようだ。呪われた因果を終わらせまいとする誰かが。

 今回のグルーブと比礼野で『償い』に必要な人数は達成した。これで弥生は入国する権利を得たのだ。

 ミールを操作する傀儡師、いや、恐らくは生身で国を動かしているのだろうが、その人物を放置することはミールと弥生にとってプラスには動かない。安楽死で客寄せするような輩である。直近の手紙では、臓器売買に手を染めようとしているようなことが書いてあった。

 弥生の考える正義で、その入り込んだ毒虫をどうにかしなければならない。『裁き』ではなく『償い』として取り除かなければならない。

 いつか、必ずやらなければならない。

 弥生はグルーブと出会った遊歩道へ向かいながら決めた。意思は熱でひとつの結晶のように固まった。

 遊歩道に入って進むと、また釣りをしている小学生たちがいた。相変わらず、貧相な手製の竿で魚を狙っているようだった。何をするでもないので、小学生たちを眺めていた。

 当然、魚は釣れず、無意味に時間のみが過ぎ去っていく。不意に、ひとりの小学生が加わり、釣竿を垂らした。それは真っ当な形状で、真っ当な機能を備えた釣竿だった。加わった小学生は得意気な顔で竿を垂らしていたが、手製釣竿の小学生に右の頬を殴られた。真っ当な釣竿の小学生は蹌踉めき、川に落ちた。落ちた小学生はすぐに立ち上がり、手製釣竿の子に殴り掛かった。左の頬を差し出すことはできなかったのだ。

 手製釣竿軍団vs.真っ当釣竿少年。

 結果として、数の多い方が勝ち、少年は再び川に落ちた。最早、貧相な釣竿は武器と化していた。元から形状としては槍に近い。

 弥生は何も言わなかった。何も言うべきではないからだ。どちらも間違っているこということに彼ら自身で気付くべきだからだ。

 春の朗らかさと風景のつまらなさから欠伸が出た。桜の花弁というアクセントは意味を為さない。

 メールの着信音がした。開くと高校時代の友人からだった。岩清水(いわしみず)という同級生が死んだという内容だった。そういえば、岩清水はミールの国に送ったような、どうだったか……、弥生はまた欠伸をした。辛うじて一方通行ではないようだ。

 死ぬことで回帰する、季節と同じだ。冬は春に回帰し、春は夏に回帰する。回帰の連続が時間だ。

 小学生たちの不毛な争いはいつの間にか終わったようで、手製釣竿軍団のリーダー格が地面に蹲っていた。つまりは、軍団の仲間は真っ当な釣竿少年に買収されてしまったようだ。

 対岸では中学生くらいの少年ふたりが小学生を嘲り笑っている。

 犬を散歩させている老人が小学生を横目に歩いていく。

 弥生は欠伸をした。

 春の回帰ももうじきだと思った。

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