放棄
「そんなに言うならお前がやれ」
日常生活を送る中で、割とよく聞く言葉である。
例えば、料理や掃除に関する話題のときなどに見聞きすることだろう。
料理で言えば、自分は全く料理をしないのに、出された料理に関して味付けや品数についてあれこれと口を出されたり、もっと単純に不味いと言われ続けたりした場合に上の文言が炸裂する。
掃除についても大体同じだ。自分から動こうともしないのに、やれここが汚れているとかあそこが片づいてないとか言われたときなどに、上の文言が繰り出される。
それも当然だ。どちらにしても、大抵は相手のことを思って為されている行為であるのに、その相手に罵詈雑言と大差ない言葉を投げつけられるのだから、理不尽な物言いにブチ切れて、じゃあお前が自分でやれや! と言ってしまうのも仕方がないことである。
あと、料理や掃除などは手順を守れば誰でもできる、ということも相まって口をついて出る要因の一つとなっているのだろう。罵倒されながら食事を用意したり掃除をして喜ぶ人間など、そうそういないのだから。
そんな下地があるからだろうか。
なろう界でもよく、間違ってその言葉が使われてしまうのは。
私は未だに、あんなことが言えてしまう住人の思考が理解できないでいる。一定数あるまともじゃない感想は別として、作品に対して否定的だったり批判的だったりする感想を投稿をするくらいなら、自分で書けというその考え方が。
まず思うのはこうだ。
なぜ他人に、趣味を、強要/推奨されなければいけないのか。
私に関して言えば、私は物語を読むのが好きだからこのサイトを利用しているのであって、物語を書くために利用しているわけではない。そしてこのサイトでは、感想を自由に投稿できる機能が付いている。加えて、書き手が感想に対して特に制限を設けていないのであれば、それはもうどんな感想でも投稿してもいい! という証左であると私は認識している。
結果はお察しであるが。
そしてこうも思うのだ。
その言葉、きちんと意味を理解して使っているのか。
「文句/不満があるなら自分で書け」
これを言う住人一人ひとりに、メッセージで質問をして回りたい衝動に駆られたりもしたことがあるが、まともな返事が返ってくることはないだろうと思ったので実行はしていない。要点だけ書くなら、あなたは今までに不満に思ったあれやこれを、自分の力で解決してきたのか、ということだ。
「クソゲー乙」
「この映画つまんね」
「欲しい服が見つからない」
「車買ったけど思ったより燃費悪くて最悪」
など挙げたらキリがないが、こういった不満だ。
かの住人たちの理論で言うならば、全てこうなる。
「不満があるなら自分でゲーム/映画/服/車を作れ!」
服なら気合と根性があれば作れそうな気もするが、完成度の高いものを作るには相当な時間がかかるのは目に見えている。
なら他のものは。ゲームは? 映画は? 車は?
総じて、個人でなんとかなるようなものではないだろう。それぞれが専門知識に専門技術に専門専門と、とにかく多数の一般人には全く縁のないモノが膨大に必要となる。
「だから」
だから、「普通は無理」だと「分かって」いるから、それぞれに何かしらの不満があると言っても、じゃあてめえで作れや! などという人間は存在しない。
ではなぜ小説でその言葉を使ってしまうのか。
簡単な理屈だ。
料理や掃除と、同列に見ているからである。誰にでもできるものであると。
付け加えて、書き手であるならこうも思っていることだろう。
「自分が小説を書けるのだから、お前だって書けるはずだ」
得てして、できる人間はできない人間の心理を理解できないと言われているし実際にそうなのだろうが、それが顕著に表れているのがこの問題の根幹であるのだろうと思われる。
つまりだ。
小説というものは、誰にでも書けるものではない、ということだ。
「小説を書いたこともないくせに」
このような文言もわりとよく見かける。そしてこれもまた、意味を理解せずに使われている文言だろう。こんな言い方をするということはつまり。
「人を殺したこともないのに殺人犯の役をやるのはおかしい」
と、役者に言うのと同義だからである。もっと言えば、創作活動を行っているすべての人間を侮辱する発言であるといっても過言ではないだろう。




