#2「死、そして出会う」
(……あ)
物思いにふけていたシーラが、ふと我に帰る。仕事に戻らなければ。そう思って、意味もなく軍服のボタンを掛け直し、解けてもいない靴紐を結び直した。
(小雨、降ってきたな……)
空を見上げて思う。灰色の雲。あの日の空模様に似ているのが嫌だった。
あの日の後、再び奴隷の生活に戻り、そして軍に買われて奴隷兵士にされてから、もう二年以上が経つ。だが、あの日以来使えなくなった魔術は今も使えないままだ。まるでシーラの人生の時間が、あの日を境に止まってしまったかのように。
そしてあれ以来、シーラの心も凍りついたように輝きを失い、自分は人殺しだ、いつ死んだっていいゴミのような人間だという固定観念に囚われるようになった。シーラ・エンジェイトという人間は、狂い出してしまったのだ。奴隷兵士になりたての頃から一緒に過ごしていたメルトの尽力のお陰で、奇跡的にコミュニケーション能力などは回復したが。
『魔力回路は形が素晴らしく良いし、才覚はあるはずなんだが……』
軍の人間に、そんなことをよく言われる。だが、魔術師として使われているシーラが魔術を使えないというのは致命的な問題点だというのは、自分でも重々承知していた。もしかすると、近いうちに軍にも捨てられるかも知れない__余計な想像をしてしまったシーラは、仕事をして忘れようと、仕事場へ走り出した。確か、他の小隊の壊れた馬車のテントを直すんだったか。
「おい、98番!ちょっと手を貸せ」
「え……あ、はい」
後ろから呼ばれ、シーラは振り返る。シーラと同じ軍服を着た男が手招きしているのを見て、彼女は急いで駆けつけた。
「今の仕事はいいから、ちょっとついてこい。人手が必要だ」
「はい……」
シーラが連れて行かれた先は、さっきまで馬車を止めていた森からだいぶ離れた断崖のそばだった。崖の上から眺める景色は中々に良いものだったが、足を踏み外したら終わりの死への扉が目の前にあるせいで、シーラは素直に目の前の景色を美しいと言えなかった。なにせ、高度80メートルと言ったところ。それに雨によって足元の土がぬかるみ、滑りやすくなっているから尚更だ。
そしてそこには十人ほど、同じ中隊の兵士たちが待っていた。人手が足りないと言う割にはみんな余裕そうな面持ちで、何故かにやけている者も多い。
その時点でシーラは察した。いつもメルトの目の届かぬところでされている、教育と称した"いじめ"が、また始まろうとしているのだと。今度は何をされるのだろう。殴られるだろうか。それとも、また無理やり"あんなこと"をさせられるのだろうか。
「あの……仕事って、ボクは何をすれば」
一応、シーラは尋ねてみた。
「ん?ああ、仕事する必要はねえよ」
彼らの真ん中に立つ男が言った。シーラが所属する中隊の副隊長だ。この隊の隊長はシーラを愛しこそしないが、虐げることもない、シーラからすれば安全な人間。しかしこの副隊長は正反対だ。なにより、この副隊長こそシーラへのいじめの主犯なのだから。
「おい、連れてけ」
「え……ちょ、ちょっと……!」
副隊長が言うと、彼を取り巻いていた男のうち二人が出てきて、シーラの両腕を掴み、無理やり影の方へと連れて行った。そして、崖から落ちる寸前で立ち止まる。これから起こることを徐々に悟りだしたシーラの心臓が、ばくばくと震えだす。
「あの……副隊長……?」
「うし……ゲームしようぜ、98番」
副隊長はシーラに近づくと、彼女を強く蹴飛ばした。それと同時に、彼女の両腕をつかんでいた二人が手を離す。支えをなくして後ろに倒れ、崖から落ちかけたシーラだったが、しかし寸前のところで出っ張った小さな岩をつかんで耐えた。泥が手について気持ち悪かったが、そんなことはどうでもよくなるぐらいに、シーラは切羽詰まっていた。
心臓の鼓動がさらに早くなる。死という魔物が、徐々にシーラの心を支配していく。自分が死ぬべきくだらない人間だと思っていても、やはり死ぬのは怖いのか__シーラはそう思った。
「ルールは簡単。そこから自力で上がれればお前の勝ち。俺らは今後一切の嫌がらせをやめる。だが、お前が負けたら、つまり落ちたら……どうなるかはお前でもわかるよな?」
「っ……!」
「はーい、よーいスタートっ!」
「っあ……!」
開始宣言とともに、副隊長はシーラの白い手を強く踏みつけた。痛みに思わず手を離しそうになったシーラだったが、ギリギリ踏みとどまる。手は未だ、岩に引っ掛けたままだ。
「メルトに助けを求めたって無駄だ……他の奴に頼んで、遠くに誘導させてるからな。助けになんか来ねえよ。ほらほら、魔術とか使ったっていいんだぜ?才覚があるんだよなあ、お前?」
「つっ……あぁ……」
グリグリと靴を手にねじ込むように、副隊長はさらに足に力を込める。シーラの手にも徐々に限界が近づいていた。
「ああ、悪い悪い!お前魔術使えないんだったな!魔導師のくせになあ……そんな使えねえゴミ兵士、死んだって構わねえよな?」
「……まさか、副隊長!?初めからボクを、こ、殺そうと……っあ……!」
痛みをこらえながら、シーラは声を絞り出す。それを聞いて、副隊長の口角がさらに上がった。
周りの者たちは副隊長を止める気配もなく、それどころかくすくすと笑う者さえいる。完全に全てが狂っている__だが、これがこの部隊の、彼らにとっての日常風景なのだ。彼らにとって奴隷は虐げるもの、道具でしかないのだ。
「へっ、安心しな……事故死ってことにしといてやる。役立たずすぎて上司に懲戒されて死んだなんて恥ずかしい記録、どこにも残らねえぜ?感謝しろよ」
シーラの手がついに限界を超え、少しずつ岩から指が剥がれていく。それを見逃さなかった副隊長は、トドメを刺すように、再び足を上げて白い手を強く踏みつけた。
「うぁ……あぁぁ!?」
ついに空中に放り出されたシーラが、悲痛な悲鳴を上げた。しかし、全てもう手遅れだ。
「じゃあな……人間以下のゴミ」
その姿が崖に隠されるまでずっと、副隊長も周りの取り巻きも、ニヤついた顔のままでいた。
そして、シーラは孤独な落下を迎える。死への一方通行の道。二度と引き返せない、終わりへの入り口。
「……なんで……?」
なんで、こんなことになったの?シーラはつぶやき、涙を流す。死にたがっていたはずなのになぜ涙が出るのか__それは分からなかったが。
(今いくよ……アンジュさん)
目を閉じ、最愛の人をまぶたの裏に浮かべながら、シーラは落ちていく。
そして、墜落の直前、心地よい風がシーラを包んだ気がした__直後、彼女の意識は途絶えた。
目を覚ました瞬間、とてもいい匂いがした。自分が生きていたことへの驚きより、その匂いの方が印象的だったほどに。
(美味しそうな……じゃない、あれ?ボク……生きてる?)
疑念で頭を一杯にしながら、寝転がっていたシーラは起き上がり、仰向けの身体にかけられていた誰かのコートを払い、周りを見渡す。どこかの小さな洞窟の中のようだ。無機質な石の空間の真ん中には焚き火が燃えいて、その上では何かの肉が二つ、鉄の串に刺されて焼かれている。きっとその匂いだったのだ。
外は雨が止み、ところどころに水たまりができている。
そして、洞窟の中にいるのは、シーラだけではなかった。
「……ん?ああ、起きた!」
1人の青年がシーラの視界に入った瞬間、あちらもシーラが目を覚ましたことに気づき、近づいてきた。
「大丈夫か?痛いところとかは?」
「あ、ええと……大丈夫です」
優しげな声の青年だった。緑の髪は少しだけ雨に濡れて湿っている。瞳も髪と似た色の緑に輝いていた。服を見ると、騎士団の軍服……によく似ていたが、色が違う。青年が着ているのは緑色の服。シーラたち騎士軍の軍服は青で統一されているから、彼は違う組織の人間ということになる。
「驚いたよ。ふと空を見たら、君が遥か彼方から降ってくるんだから」
「じゃあ、助けてくれたのはやっぱり……」
「ああ、俺だよ。落下の勢いを止めようと、剣を振って思いっきり衝撃波をぶつけたんだけど……」
「衝撃波!?」
「ほんとに怪我してないか?」
「ああ……大丈夫です。衝撃波で止まる程度の体重で良かったです」
あり得ない方法での救出に苦笑いしながら、シーラは返答した。
「そうだ、自己紹介がまだだったな。俺はミクモ・ダイゴ。聖晶王国の傭兵団の人間だ。君、騎士軍の子だよな?」
「はい、えっと……し、シーラ・エンジェイトです」
「よし。よろしく、シーラ」
一通り挨拶を終えると、ダイゴは鍛え上げられた屈強な右腕を、シーラは向けて伸ばした。
「ええっと……?」
「握手。こんな形だけど、せっかく出会ったんだ。よければしたいな」
そう言って、優しく笑うダイゴの顔を見て……自然と、シーラの口元も緩んでいた。
「どうした?」
「いえ……何でもないです。よろしくお願いします」
彼がメルトに、そして母に似た優しい人だと、そう思えたから。
そしてシーラが彼の手を握り__2人の英雄の絆は、こうして始まった。