#15「小さな本」
のどかな草原で、その青年は寝そべっていた。
日差しの暖かさも、北風の涼しさも、草が背中を撫でる感触も、全てが昼寝に最適な環境で、青年は小一時間微睡んだ。
彼を縛る秩序は無い。ただ自分の望みがあり、それを叶えるために動くのだ。彼を支配する者はいない。自らの正義と意思だけに乗っとり、歩を進めてはまた休むのだ。
そんな彼の元へ、来訪する影があった。
「……?」
寝転んだまま、顔を右に向ける。茶色く小さな影。可愛らしい二匹のリスだった。
「なんでこんな所に……森にいるもんだろ」
心なしか、二匹ともに小さい気がする。それに足取りがおぼつかない。どうやら怪我をしているようだ。だがそれ以上に、異様に焦るような姿が気がかりだった。
そして、新たな来訪者がやってくる。
「……なるほど」
熊__否、熊に似た魔物か。唾液を垂らしながらこちらに近づいてくる。このリスたちを襲い、ここまで追ってきたのだろう。
「怪我も、そういうことだな」
呟きながら、青年は立ち上がる。立ち上がってもなお、熊の背丈の方が高いのに少し驚いた。だが、恐怖は微塵も感じない。
こんな体格を持ちながら、なぜ小さなリスを追っていたのか。分からない。というより、そんなことに青年は興味を持たなかった。
「わざわざこんな子供に寄ってたかって……器の小さい奴だな。大きい奴らには勝てないのか?」
「……グガァ……!」
言葉は通じないはずだが、彼の言い方が気に食わなかったのだろうか。魔物は急に怒り出し、更に歩くスピードを速める。その視線はもうリスから外れ、完全に青年を向いている。
「ガァァ!」
彼の目の前に近づき、魔物は腕を振り下ろす。
「……」
青年は無言で佇む。その目の前で、攻撃をしたはずの魔物が逆に倒れた。視認することもできない、青年のカウンターパンチが入ったのだ。
「深く入ったな。命のやり取りは大人同士でやれ」
何でもない。青年はただ、子供のリスが命を狙われるのが気に入らなかっただけだ。
魔物は殺してはいないが、十数分は動けないだろう。振り返ると、リスたちは必死に遠くへ逃げて見えなくなっていた。
青年は熊から離れ、また眠りにつこうとした。
「__ッ!」
刹那、それに気づく。
「……強い奴の匂いだ」
そう呟いた時、初めて青年は笑った。
青年は、近くの町の方へと歩き出した。心昂ぶらせる"命のやり取り"を求めて。
馬車が揺れる__ことは無かった。
「凄いな……」
「快適ですね」
メリッサ邸の高級馬車は、どういうカラクリか、でこぼこ道でも微塵も揺れることはない。傭兵団や騎士軍一般兵用の安っぽい馬車に慣れていたシーラとダイゴは、ただ感心するばかりだ。
今回の任務の概要は、こうだ。
戦争の影響で、別荘の周囲に魔物が増え始めたとの情報が入り、安全のため、メリッサは戦地から離れた元の家へ帰ることに。しかし別荘には使用人は数人しかいないため、危険な道中を守ってもらう必要がある。そのためにダイゴたち第7小隊は呼ばれたのだ。
メリッサが乗るこの馬車をダイゴとシーラが同伴して守る。そして、後ろをついていく使用人たちの馬車にジャンニーとティナが乗り、さまざまな事態に柔軟に対応できるようにした。
「でも、なんでボクたちに……騎士軍に頼めば、場合によっては無償で護衛してもらえますよね?」
曲がりなりにも数年騎士軍に所属していたシーラは、多少なりとも"あそこ"のシステムを知っていた。
「騎士軍は信用ならないわ。実績のある傭兵の方がマシよ」
メリッサは、冷めた口調でそう答える。視線をシーラに合わせることもなく、ただ外を眺めて。ダイゴは『同年代だし、多少うまくやれるだろう』と思ってシーラを同伴組にしたのだが、その期待は淡くも崩れ去りそうだ。
「あんまり話しかけないでもらえる?ちょっとぼーっとしてたいから」
視線を外したまま、彼女は続けて言った。仲良くなる機会が1つなくなってしまったと思うシーラと、むしろその方が助かると安心したダイゴの思考は、お互いに伝わることはない。
静かなまま、時が流れるのだった。
南下し続けた馬車は、中間地点のとある町で一時停止した。馬の休憩と餌やりのためである。
「早めに戻ってきます。何かあったらすぐに呼んでください」
「承知致しました」
買い出しに出かけるダイゴに、執事ジャックは一礼して答えた。
「シーラ、大丈夫そうか?」
「大丈夫ですっ」
馬を紐で繋ぎながら、シーラが忙しげな声で答えた。彼女は独りで馬の番。今後のために色々経験した方が良いという、ダイゴの意向のもとである。
「お嬢様は__」
「ここで待ってるわ」
ジャックが言い終わる前に、メリッサが言葉を遮った。
「では」
ダイゴは一言言い、ティナとジャンニーと共に町へ歩いていく。
それから直ぐに、シーラも馬を柵に繋ぐのを終えた。シーラたちが乗ってきた馬もメリッサたちの高級馬も、全く抵抗しなかった。人間を信頼しているのか、賢く冷静な種なのか、そもそも馬とはそういうものなのか。
「もう終わっちゃった……」
暇になってしまったが、馬の番をしないといけない。しないといけないのだが、やっぱり暇な仕事である。
ぐるぐる無限ループする連想を止め、シーラは馬車の荷物置き場に乗り込んだ。何事も起こらなさそうな静けさだし、荷物の整理でもして時間を潰そう。
「ん……あれは……」
シーラは奥の方に、開いた状態で床に倒れた本を見つけた。片手で軽々持てるサイズの本を拾い上げると、その表紙にはタイトルが無かった。1ページ目を開けると、何列もの手書きのアルファベットが横に並んでいた。どうやら小説らしい。
物語はこうだ。不幸な孤児の少女がある日、魔女に命を救われる。どう恩返しをすればいいと少女が尋ねると、魔女は世界中の"魔法の石"を集めるのを手伝って欲しいと言った。少女は魔女から授かった魔術の力で彼女と共に世界を旅し、"幸せ"を探して行く。
あっという間に第1話を読み終えると、自然と体が次の話を欲していた。ページを開き、また開き__
「ねえ、あなたちょっと……」
「ひゃひ!?」
突然メリッサに外から声をかけられ、シーラはびっくりして変な声をあげた。
「……ちょっと、その本!」
シーラの手元の本を見つけるや否や、メリッサは目を見開いて言った。
「え……あっ、そうですよね、メリッサさんのですよね!勝手に読んでごめんなさい……」
「返してよ!」
半ば強引に、シーラの手から本を奪い取った。
「あの、何てタイトルなんですか?どこにも書いてなくて……」
「タイトルなんか無いわよ。まだ決めてな……や、なんでもない」
言いかけた後、メリッサは慌てた様子で言葉をかき消した。
「決めてないって……もしかして、メリッサさんが書いたんですか!?」
「や、ち、ちが、違うわよっ!?別に別荘の書斎にこもって書いてたとかじゃ……」
「一生懸命書いてたんですね……」
続けざまに巨大な墓穴を掘るメリッサと、ただ純粋に感心するシーラ。
「……っああ、もうっ!うざいっ!うざいのよあんたっ!」
「えっ……ええぇ!?」
突然の暴言に、シーラはただきょとんとすることしか出来ない。怒った様子で言葉を吐き捨てたメリッサは、そのまま町の方へ早足で歩き出した。
「お嬢様、どちらへ……?」
「散歩よ!」
「め、メリッサさん!待ってー!」
慌てて、シーラも追いかけるのだった。