01 灰空
僕の一日は、けたたましいサイレンの音で始まる。
既にまどろみはなく、跳び上がるように体を起こせば、響く足音がサイレンと混じって焦燥を大きくする。
冷たい簡易ベットから降りて、前を向けば、背後から肩をぶつけられ、僕は転ぶ。
鉄床の感触を唇で確かめて立ち上がると、部屋に一人となった僕に向けて、サイレンが鳴り続いていた。
第一空界クリュード軍式訓練校、その中層空圏に浮かぶ軍人育成校で、僕は日々を過ごしている。
第一空界とあるように、戦略五界境定則によって5つに分けられた国空の中でも、中心部に位置するこの空には、毎年で数千人規模の人材を軍職へ輩出するほどの教育機関が整っている。
軍塔直系で、空帝軍への推薦が効くような先鋭学校であっても、底辺学級の朝は、何処かの収容所の扱いと大差ない。
薄汚い制服に袖を通した後で集められる展開堂は、鋼鉄の大礼拝堂のようで、各教棟への連絡通路が下から伺えるように吹き抜け造りとなっている。
無駄に感じられる設備の立派さも、僕には空しく映っていた。
その展開堂の中央で、要領の悪い僕は寝癖を直すこともままならず、何百と並ぶ軍校生徒に混じって朝礼に立っている。
空っぽの胃に気分を悪くしながら、いつもの軍唱に口を動かす。
酸欠を抑えながら必死に、上から睨みを利かせている教官に見せつける。
その叫び声のような規律の唱えに埋もれながらも、僕の意識は少しでも、ましな気分を掴もうとしていた。
明日は、待ちに待った休暇日だ。
それに今日の訓練工程割の中には、実飛行項目がある。
今日は、空に出られるのだ。
指導教官の講話と、襲う貧血に耐えてから、今度は食堂に詰め込まれて、味のない朝食を流し込む。
理不尽にも似た朝の忙しない流れはこれで終わり、続いて軍校生は各々、飛行訓練準備に入る。
僕の粗末なロッカー内を、教材や日用品を退けて占拠しているのは支給機巧服で、黒く厚手の生地をしたつなぎに、飛翔機の操縦席と体を固定するための接続金具が、胸部と左右の太腿あたりに付いたものが一般的な仕様である。
僕はそれを、内側には緩衝材を縫い付け、外側には炭素軽材を目立たぬよう細かく配置し、使い勝手のいい伸縮性素材を筋流に這わせるように巻き付けた、外殻式機巧服に仕立てていた。
実飛行活動についての規範は、一律に上層学級と同じと定められているため、底辺生徒であっても飛行活動内に限り、各生徒にはある程度の自由があるのだ。
早速と装着し、ベルトを締めれば、空への期待に逸った気持ちと共に格納甲板へ向かう。
白塗りで小奇麗な廊下から一変して、格納甲板への入口である隔壁扉の奥は薄暗く、中に入れば鉄と油の匂いが鼻腔を満たした。
底辺学級用、第3格納甲板、僕にとって工業の匂いを感じられるこの空間は、この軍校生活で唯一、心落ち着く場所だった。
発進甲板壁はまだ開いておらず、空の光がない甲板内は、高い天井や柱などに無造作に取り付けられた人工灯がやる気なく照らしている。手すりから見下げれば、甲板壁正面には、訓練用の小型飛翔機が整然と並んでいるのが見えた。
次々に甲板に入ってくる訓練生たちと、鉄の階段を軽音響かせて下り、駆け足でその機体の列へ向かう。
僕の訓練機は、いつも最後列に配置される。
足早に機体後ろの数字板を確認していき、見付けた僕の機体の横で、開始号令が来るまで待機姿勢を保つ。
軍式有翼亜耶ト小型戦闘飛翔機:アヤド・パラ・レーカ、全長約5mの露出単座単発式の小型機が、訓練生各々に割り当てられた訓練機体である。
飛翔体のように細長な機首は、流線形を象るような装甲の流れで全長の半分まで続いて、先端から操縦席までを繋いでいる。
その操縦席の位置から左右には、1m程の大きさでΔの主翼が付けられており、後方部は垂直に伸びた尾翼と、単発噴射式の推進魔導が無骨で繫雑とした機構部位を露わとしたままにしている。
機腹部は、四角く口を開けた装甲の中から、薄い板を縦に重ねたような積層板が、下向きに突き出されている。
それは、浮力確保のための浮遊用魔粒子放出機構で、機体を浮かすための部分、広い意味で浮遊魔導と呼ばれている機構部である。
本当に細かく言えば、大気から取り込んだか、または内部に貯蔵する魔粒子を、特定の粒子と反応させ、浮力に特化した粒子形成に組み替えた後、それらを放出するまでの仕組みのことをいう。
目を移すと、細やかな進路修正を目的とする副推進魔導が、浮遊魔導の左右に搭載されていて、戦闘型とあるように、独立簡式の機関銃は機首の下部に取り付けられていた。
一般的な戦闘型飛翔機、その設計に準じた装備は一通り揃っているが、安っぽく錆び付いていて、くすんだ鋼の装甲と、空に剥き出しで跨る操縦席は、亜耶ト小型と類されるこの訓練用機体の特徴だった。
呆けて機体を観察してしまっている、その緩みかけた緊張が教官の聞き慣れた怒号でまた締まり、見れば前方の列は機体発進の準備に取り掛かっていた。
やがて、発進甲板壁は開き出し、甲板内を響かせる音と、空の青を僕に届ける。
前列の訓練生らは、跨った機体を1mほど浮上させ、次々に空へ落ちていく。
僕も操縦席に跨り、目の前に並ぶ複数の指示計器や粒子パネル、監視投影式レーダーを備える操縦盤に手を伸ばす。
起動して青く光るパネルに、暗号を入力して、操縦者を承認させた訓練機体の暖気を掛ける。
初期粒子昇圧のための、熱源燃料式の起動炉の点火用つまみを捻った。
――――起動炉は、起動しない。
温度指示計器も針を動かさず、回路制御の表示パネルも沈黙したまま。
多分、また濁り油を混ぜられている。
直ぐさま機体から降りて、右主翼の下に潜りこみ、右舷下部の装甲を外して腕を突っ込む。
隠して取り付けた、自前の追加点火器の位置を手の感触で確かめると、ボタンを押し込んでスパークさせる。
すると、数回の痺れの後に、起動炉が掛かったことを機体の振動が身体に伝えてきた。
乱暴な点火に驚くように浮かんだ機体の足を蹴り仕舞って、操縦席に跳んで跨る。
幸い、鬼教官には気が付かれていない。
ぐらつく機体をなだめながら、既にゆっくりと徐行滑空を始めている列に、追いつくように並べば、開いた甲板壁は目前。
そして僕は、空に落ちる。
身体を叩く風、眼下には広がる雲海に突き出た数多のスピルネラが、青く霞んで並び立ち、魔粒子を吸って元気になった浮遊魔導が跨る機体を浮かせば、青い空と強い日差しが視界一杯に広がった。
操縦席と体を機巧服の接続金具で繋ぎ、首に掛けていたゴーグルを取り付ける。
機関動力を起動炉から粒子臨界炉へ速やかに負荷移行してペダルを踏む。
上がった浮遊出力と振動、それに潰されそうな体で操縦棍を引き倒し、後方部、推進魔導左右にある小さな尾翼の開度を調整する。
慣れない操縦棍の操作で辛うじて上向いた機首は、前列が保つ訓練高度まで、落ちていた機体を引き戻した。
巡航工程のまだ緩やかな飛行形態の中、僕はおもむろに操縦盤を覆う鉄板を、計器類を繋げる繫雑に絡まった配線に構わず外して、出来た無責任な隙間に両腕を深く差し込む。
膝に力を入れて体を前傾に固定し、やがて伸ばした指が、回路粒子圧調節楔:スピルの熱を感じ取れば、両手の十指をそれらに乗せる。
直径10㎜にも満たないその円柱型の楔を、柔らかく押し込み、各粒子経路の圧力を読み取っていく。
飛翔機の構造上、ほとんどの機体部位は、血管のように巡らされた粒子回路へ、臨界炉のエネルギーで昇圧循環する主動脈からの魔粒子供給によって駆動させることが出来る。
つまりは、対応するスピルを動かして魔粒子を供給すれば、粒子回路上にある制御弁を開いたり、各部位の駆動を司る筋質組織に魔粒子を流したり、望んだ機体部位の圧力や温度を調整することができ、自動制御の操縦に頼ることなく機体を動かせる。
僕の訓練機の自動制御機構は、とっくに壊されている。
だから、全てが手動であるこの機体は、やや左舷に傾きを残したまま、不器用に隊列に入り込んだ。
しばらく横列に並んでいた巡航隊列は、やがて縦列に変わり出し、上昇を開始する。
僕はスピルを指で動かし、後部補助翼を引き下げ、推進魔導の出力を上げた。
心地よい振動を味わいながら顔を上げて、乱れのない整列を試みる。
皆の機体から噴出している粒子量を見るに、僕は少し浮遊魔導を吹かし過ぎているようだった。
後ろの軍校、恐らく統制モニターで監視している鬼教官を気にしながら機体の傾きを是正していると、隊列は一気に加速巡航を開始した。
身体に伝わる鉄の鼓動を、更に大きくさせる様にスピルを押し込めば、右目が掠める速度計の針は上がっていく。
このまま臨戦滑空速度まで達した隊列は四方に分かれ、広い訓練空場に置かれた標的碑塔へと向かっていく。
様々な形と大きさを揃える、黒く重厚なコンクリートの壁は、下部に付けた高度維持ブースターで空に浮かんで、騒然と空に並べられている。
その浮かぶ壁には、青い光で示された種々の標的が無数に配置されていて、各々明滅しながら訓練生を待っていた。
標的碑塔は、今期から導入された訓練ビルドの一つで、青光の的に弾を撃ち込めば単純に点数として加算され、統合する電算部上でその命中精度が評価される仕組みである。それぞれの隊の訓練生は、その標的に臨戦速度のまま接近し、潜り抜ける際に機銃を放つのだ。
縦、横に進路を分かち、射撃訓練に入っていくそれぞれの機体。
目の前の機体が下降したのと同時に、僕は上昇した。
訓練空域の限界高度まで、襲い来る風と振動の面倒を機巧服に任せて、機体を飛翔させる。
高度を維持したまま、目視で一番大きな標的碑塔の上部を目指し急接近する。
速度落とさず浮遊魔導出力を全開にして、後部補助翼を引き上げ、推進魔導を消火。
副推進魔導を代わりに緊急点火し推力を最小に張り付け調整、各補助翼はヨーとロールの傾きを抑え、機首は真下へ。
機体は空に垂直になったまま、巨大な壁に擦り付けるようにして、その座標を保持する。
頭上から僅か数m先には黒い壁、機体の進路方向には青光標的が雲海へと続いている。
壁に衝突する直前で、推進魔導を再起動、出力を最大にし、その光にまみれた黒壁の上から下へ機体を滑らせた。
このまま壁に沿ってぎりぎりを飛翔すれば、碑塔が纏う標的を舐める様に引き剥がすことが出来る。
青光を目前にして、僕は機銃を放つ。
――――だが、弾は出ない。
押し戻る銃棍のボタンの感触は、銃筒に何かが詰まっていることを無残に知らせてくる。
悔しさは微塵もない。
あるのは後悔と落胆、そして、諦観。
機体は無意味に、青い光の中を通り抜けるだけだった。
実飛行訓練の後は、教練室に戻って規則正しく退屈な軍術科目を受講し、基礎規律訓練では何度も何度も、同じような規律動作を叱られながらも繰り返す。
そんな一日の訓練が終わったのは、空が夕焼けに色を染め上げた頃、午後6時過ぎである。
いつも訓練後は、明日の準備に時間を割かれ、自由なく消灯までを過ごすのだが、休暇届が受理された明日のため、僕はこれから帰港準備に向かっていた。
更衣室に入ると、左頬に激痛が走った。
体はロッカーに叩きつけられ、跳ねた腹に蹴りが入った。
うずくまり、顔を下げたまま、震える両手を掲げるように挙げる。
こうすれば、酷くはやられない。ここで取れる唯一の防衛術。
男達は何かを喋っているが、怖くて、顔が見れない。
その顔のない恐らく3人は、靴裏の感触を僕の顔や腕、腹に何度も覚えさせた後、酷くうるさい音を立てて扉を閉めた。
膝を抱えた僕はうずくまったまま、立ち上がれない。
まだ、怖くてたまらない。
体に残っている痛み、それよりも、喉奥から胸にかけて、灼けるような感覚がこべりついていて、息が苦しい。
明日は、一ヶ月ぶりの休暇だ。やっと帰れる。そして、愛機に触れる。
ゆっくりと顔を上げる。
灰色に染まった室内の色を思い出すように、何度も、明日の休暇に意識を向けていた。