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彼女が卵を産んだ日

作者: 音葉くらげ

 白い扉を前に僕は大きく息を吸う。

 扉の向こうには江子がベッドに座っていて、赤子を胸に抱いていたりするのかもしれない。

 自分の心臓の音が胸に響く。走ってきたからだけではないだろう。

 出産予定日にはまだ一週間あった。

 陣痛が始まってもすぐに産まれるものじゃないと聞いていたから、慌てることはしなかった。シャワーを浴びて、髪を整えて、ニュースを見て、さて出発だというところで産まれたとメールが入った。

 父親になる覚悟は、まだ出来ていない。

 覚悟の有無に関わらず、扉を開けたら僕は父親になる。嫌だな、と思う。

 汗ばむ手をドアノブにかけた。

「ごめん、道が混んでて……」

 平日のお昼、田舎道が混むことはまずない。すぐにばれる嘘。でもありのままを伝えるよりは優しいに違いない。

「大丈夫。いっしょにいてくれても気が散って頑張れなかったと思うし」

 江子は疲れているだろうに笑顔で迎えてくれた。病室には他に先生と看護師の姿がある。二人は顔を伏せていた。

 僕は彼女に歩み寄り、髪を撫でた。

 髪を撫でられると落ち着くとせがまれ、撫で続ける内に僕自身もこうしていると落ち着くようになってしまった。

 しばらく自分の心を落ち着かせ、そして、先生に問いかけた。

「あの、なぜ妻はダチョウの卵を抱いているのでしょう」

 今病室にいるのは僕と江子と先生と看護師の四名。子供はいない。

 代わりに妻の腕の中にラグビーボールくらいの卵が抱えられている。もしかしたらダチョウの卵より大きいかも知れない。見たことないし。

 子供は産まれたと連絡を受けている。江子の表情は落ち着いたものだ。

 先生も看護師も視線が泳いだまま、うー、とかあーとか言葉以前の音声を発している。 ここのままでは埒があかない。江子に質問の矛先を変える。

「ねえ、僕たちの子供はどこにいるの? 僕も早く顔が見たいんだけど」

「どこって、ここにいるでしょう?」

 そう言った江子の目は愛おしそうに卵を見つめていた。



 先生を連れて病室を出た。一目のない別室に案内され、椅子に座るよう促される。

 そして話されたのは当然数時間前に分娩室で何が起こったのか。

 陣痛を訴えた江子は分娩室に運び込まれた。初めに異変に気付いたのは看護師だったという。

 本来なら赤子の肌が見える部分が、どうにも白い。先生に助けを求めようと振り返った隙にベッドの上に卵が現れた。

「いや、そんなのおかしいでしょう。ほら、だってあの子はお腹を蹴ってたんですよ。あんな殻につつまれていたら!」

 言葉にすれば至極単純。

 妻が卵を産んだ。

「私たちも混乱しているんです。こんなこと見たことも聞いたこともない」

 エコー検査を行ったときに胎内に異常はなかったし、いくら女性の体が柔軟だといっても卵の大きさは通常の赤子を大きく上回っている。

 それ以前に理屈を並べるまでもなく、生物の講義で習うまでもなく、人間は子供として女性の胎内から出てくる。出てきた瞬間におぎゃーと泣いたりする。

 でも、卵は動かない。泣かない。あんなものが妻の中に入っていたわけがない。

「とりあえず、あれの対処は私たちの専門外です。申し訳ありませんがこの紙を参考にして、後は家庭でお願いできますか?」

 手渡された紙には『家庭で出来る、うずらの卵の孵し方』と書かれていた。



 江子と初めて出会ったのは僕がまだランドセルを背負っていたころだった。

 小学校からの帰り道、角を曲がったら江子が落ちていた。

 右腕の関節がおかしな方に曲がっていて、頭から血が垂れている。彼女にぶつかったであろうトラックはもう小さくなっていてナンバープレートも読めない。

 地面に広がった長髪を見て、天使みたいだなと思っていた。

「ねえ、君。それ貸してくれる? 携帯電話、首から下げてるやつ」

 近づいて携帯電話を差し出すと彼女の右肩が少し浮き、下がった。

「ごめん、こっちはだめだ。逆に回ってくれる?」

 折れた腕ではものを掴めない。道理だ。左手に回り、携帯電話を差し出すと江子は電話をかけた。

「すいません、車に轢かれちゃって。あ、はい、私です。あはは、大丈夫ですよ、慣れてますから」

 助かったよ、通話を終えると彼女は礼付きで携帯電話を返してきた。携帯電話には彼女の血液らしきものが付着していた。

 救急車を待つ間、僕たちはお互いのことを話した。

 見た目ほど悪くないのかもしれない。そう思い始めたころ、救急車のサイレンが聞こえた。

「あ、痛い。痛い! 痛いよ……っ!」

 唐突に痛みを訴え出した。救急隊員が慌ただしく動き、彼女は連れ去られていった。

 呆気にとられている間にあっという間に置いていかれた。

 この時に僕は江子に惚れたんだと思う。



 仕事から帰宅すると玄関に通信販売で購入したベビーベッドの段ボールが置かれていた。

「買ってきてくれた?」

「もちろん」

 言いつつ僕は金槌を手に持ってみせる。ベビーベッドは組み立て式で金槌が必要だった。

 道具は全部入っているものと勘違いしていたが、購入後読んだレビューで金槌が必要だったという低評価コメントを発見してしまった。

 結果、通販でものを買ったのに、道具を買いにホームセンターに行くなどという間抜けをする羽目になってしまった。これも全てホットカーペットの上で温められている卵が悪い。

 もともと布団で育てるつもりだったのだけれど、せっかく時間が出来たのだしとベビーベッド作成指令が江子より下された。

 部品を一つずつ取り出し、丁寧にアルコールタオルで拭いていく。

「ねえ、手伝おっか」

「いいよ、疲れてるんだから横になってなって」

 近づいてくる江子を言葉で制す。江子は卵の隣に腰を下ろす。

「この子の誕生日っていつになるのかな」

「卵から産まれた日なんじゃない?」

「えー、それじゃつまらないよ。決めた! この子の誕生日は私から出てきた日と卵から孵った日の二回とします」

「他の人の二倍で歳とるってことか……」

「それは可哀そう! でも、その分いっぱい愛しますからね」

 江子は呟きながら愛しそうに卵を撫でた。



 今家に江子の姿はない。僕と卵ともう一人の女性がいる。

 母親になる前にプレゼントされた有給みたいなものだと思って温泉にでも行っておいでと諭して江子は一人旅に出させた。

 暗闇の中、火照った体がゆっくりとマットレスに沈む。

 広げた左腕の上に柔らかな重さが乗り、暖かな呼気が頬に触れる。

「それってさ、本当にあなたの子供なの?」

 江子の声より幾分か低い声。カーテンの隙間から差し込む外光に、女性らしい胸と腰のラインが浮かんでいる。

 子供っていうか卵だけど、と軽口が続く。

「そうだと思うよ。こんなことにならなければ普通に自分の子供として育ててたと思う」

「愛だね」

 茶化すような口調は自分のことを棚に上げていることを責めているように感じる。

「でもさ、他の男はないとしても、他の生物はどう?」

「他の生物?」

「ほら、エイズみたいな」

「ああ……」

「あれって元々人の病気じゃなかったんだよね? 猿とやっちゃった、ある意味お猿さんのせいで人に移ったって聞いたことあるよ」

「相手が猿なら卵で産まれないよ。妙に体毛が濃い赤ん坊が産まれるだけだろ」

「猿ならね。鶏とか、蛇とか! うん。蛇はおもしろいかも」

 ふふっ、と彼女が笑い声を漏らす。

「ありえないって。普通同じ動物じゃないと子供は作れないんだから。ライオンと虎って同じネコ科の子供ですら――」

「うん。普通ならね」

 ここで会話は終わり。そういうように彼女は背を向けてしまった。



「なあ、お前は誰の子なんだ?」

 カーペットの上の卵に呼びかけるも当然返事はない。

 江子に対しても同じ疑問をぶつけてみた。あなたの子供に決まってるじゃない。淀みのない言葉と何を言っているのかという表情。

 江子は不貞を働いたわけではないと思う。少なくともそう信じたい。

「じゃあ、お前はなんだって卵なんかで産まれてきたんだよ」

 僕は自分をこの子の父親だとは思えないだろう。

 江子は誕生日が二回あるねなんて言っていたけれど、ひよこの誕生日は一般的に卵が孵った日とされているそうだ。ネットで見た。

 だとしたら、この子はまだ産まれていない。

 僕は金槌を握っている。少し上から叩きつけてあげれば簡単に割れるだろう。

 卵に対して愛情はない。金槌を振り上げる。

 こんこんっ。

 扉を叩くような音がした。

「待ってくれ……」

 振り上げた金槌はぴくりとも動かず、僕は揺れる卵を見つめることしか出来なかった。

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