この美しい世界で
深い青の空に、様々な形をした白雲。地平線まで広がる海に、時折浮かぶ、色とりどりの屋根。
ああ、今日も世界は美しい。
二週間ほど前、世界は滅亡した。隕石が太平洋上に落下し、世界規模で津波が起こった。と思われる。
曖昧なのは隕石衝突の衝撃により、通信網が麻痺したからだ。そのため正確な情報は分からないが、それくらいの影響はあったと思う。
その日、私はお盆休みで祖父母のいる田舎に帰っていた。父さんと母さんは仕事で、翌日に来る予定だったけれど、隕石により、津波にのみ込まれた。
あれは衝撃的だった。百メートル以上あるのでは、と思うほどの高さの津波がやって来たのだ。沿岸部から津波にのみ込まれ、日本のほとんどが水に沈んだ。
私が助かったのは、祖父母の家が山奥にあったというだけの理由だ。それ以外にない。
祖父母は、もう十分生きたし、私に迷惑をかけれない、と遺言を遺して、その日のうちに家を出た。私は探さなかった。そのことを祖父母も望んでいることは分かったから。
一人きりになった私は、家を出ることにした。他に生き残ってる人もいるだろうし、何より、探してみたくなったから。生きる意味を。前の世界では意識していなかった生きる意味。それを私は知りたくなった。
だから私は、旅に出た。
けれどやはりと言うか、この世界で暮らすのは大変だった。電気もガスも水道もないこの世界。持ち得る知識だけで旅をするのは困難を極めた。
そして今、たまに通りすがりの家に泊まらせてもらったりして、私はこの世界で旅を続けている。
真紅の夕日と青い海のコントラストに、夕焼けの赤から黄色、水色を通して紫にまで至るグラデーションの美しさ。滅亡してからの世界の方が綺麗なように見えるのは、きっと自然の尊さを知ったからだろう。
今日は野宿かな、と思って歩いていると、丁度いいところに古民家を見つけた。白灰の煙が細く長く繋がっていることから、きっと人がいるのだろう。私はその家に向かって歩いた。
「すみませーん」
私は家の中に向かって叫ぶ。しばらくすると、扉が開いた。
出てきたのは、私と同じ年頃の青年。見目麗しく、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「今日、泊めてもらってもいいでしょうか?」
青年は返事をしなかった。ただ、私を見つめる。今までの人たちはすぐさま入れてくれたため、違う反応に戸惑う。
「なぁ、おまえ、泉?」
泉とは私の名前だ。七瀬泉。何故、彼は知っているのだろうか?
「そうですが、どちら様で?」
青年は顔を顰め、不機嫌そうに言った。
「青井空翔」
ひっと声をあげなかっただけ、私はすごいと思う。
青井くんは私の小学校時代のクラスメイトだ。顔良し、頭良し、運動良しという、とてもできた生徒だった。
ある一点を除いて。
小学校五年生の頃、彼は唐突に私をいじめ始めた。理由は分からないが、重要なのは彼がクラスで人気者だったということ。そのおかげで私はクラス全員からいじめを受けるようになった。
青井くんがとても頭がいいおかげで、いじめは発覚することなく、私がいじめられてると言っても信じてもらえず、結局親に無理矢理頼んで転校させてもらった。
その後の生活は順調だったけれど、彼のせいで私はあまり人を信用できなくなった。それくらい、私にとって、あの時のことは──青井くんのことはトラウマだ。
「なんで、青井くんが?」
私が声を震わせながら訊くと、青井くんは顔を緩めて言った。
「ここ、俺のばあちゃんちだから。あの日以来、ずっとここにいる」
「………そう」
私がそう言うと、青井くんは扉の中へ入った。私がその背を見送ってると、声をかけられた。
「入らないの?」
「え、あ、いや……」
正直入りたくない。青井くんの近くは気まずいし嫌だし……。
「入れよ。もうすぐ日が暮れる。野宿って大変だろ?」
本当に大変だ。虫は出るし食べ物はほとんどないし好きなときに水も飲めないし。いや、今は家でも似たような状況だが、野宿に比べると断然いい。
諦めるしかない。戦場に行く覚悟で、私は一歩足を踏み入れた。
「お邪魔します」
「こっちに来い」
淡々とした態度にイラつく。こっちは命をかけるような覚悟をしてるのに、青井くんは何とも思ってないのか。それとも昔、私にしたことなどどうでもいいと言うのか。
けれど流石にここで怒るのは申し訳ないので、私は靴を脱いで上がる。ところどころ老朽化しているが、しっかりとした家だった。
ふと壁を見ると、そこには写真が額縁に入れられて飾ってあった。老人二人に三十路ほどの男性と女性、そして小さな男の子と女の子だった。男の子は顔からして青井くんだろう。年は小学校低学年頃。隣にいるのはお姉さんだろうか?そう言えば昔、姉がいるという話を聞いた覚えが微かにある。
「早く来いよ」
「あ、ごめん」
どうやら青井くんを待たせていたようなので、私は写真から目を離して先へと進む。
奥の方にある部屋に着くと、彼は中に入った。
「ばあちゃん、客が来た」
「あらあら、可愛らしいお嬢さんだこと」
そちらも可愛らしいおばあさんですね、と言いたくなるほど、とても朗らかで優しい雰囲気を持ったおばあさんがいた。十中八九青井くんのおばあさん。
「七瀬泉。小学校の時のクラスメイト。昔話したの覚えてる?」
「ああ、泉ちゃん!空くん、良かったわねぇ。泉ちゃんのこと、」
「ばあちゃん」
「あらあら、ごめんなさい」
ふふふ、と青井くんのおばあさんは上品に笑う。良かったってなんだ良かったって。というか、何だ、その、青井くんのおばあさんの言葉からすると──
「空くんの祖母です。気軽に『おばあちゃん』って呼んでね、泉ちゃん」
「あ、七瀬泉です。よろしくお願いします、おばあちゃん」
「そんな堅苦しくなくて結構よ。ああ、空くん、お茶出しましょ、お茶」
おばあちゃんはコロコロと笑いながら青井くんに言った。青井くんはどこか嬉しそうに、部屋の外へ出ていった。
「ねぇ、空くんとは仲いいの?」
おばあちゃんが訊いた。
果たして、正直に答えて良いのだろうか?仲良いなんて有り得ないけど、それをおばあちゃんに言うのは気が引ける。
「……どうでしょう?」
あやふやな返事しかできなかった。けれどそんな私を見ても、おばあちゃんは朗らかな笑顔を浮かべているだけだった。
「そう、そうなのね」
私はただ首を傾げることしかできなかった。
しばらく黙っていると、おばあちゃんが口を開いた。
「泉ちゃんが来てくれて嬉しいわ。実は私ね、そろそろ死のうと思ってたの」
え、と声が漏れた。
「夫には先立たれ、世界がこんなことになっちゃったし。だけど空くんがいたから。空くん一人を残していけなかったから、生きてきたの。だから、泉ちゃんが来てくれてよかった。これで私も、空くんのことを心配せずに逝けるから」
おばあちゃんの語ったことは、衝撃的だった。
私の祖父母は、私に迷惑をかけないため、私を一人にした。彼女は青井くんを一人にしないため、死ぬのを待っていた。
一人一人考え方は違い、それらに正解はない。そう言っしまうのは簡単だが、私はその言葉で片付けたくなかった。
再び立ち現れる、人の生の意味についての疑問。私の祖父母もおばあちゃんも、何のために今まで生きてきたのだろう。
私には理解できない。
「どうしたの?」
青井くんが戻って来た。
「ええっと……」
おばあちゃんの方を見ると、おばあちゃんは茶目っ気たっぷりに口元に人差し指を当てていた。
私はそれに頷くしかなかった。
夕飯をおばあちゃんにお世話になり、今の世界では貴重なご飯や味噌汁を食べさせてもらった。久しぶりに食べるお米と味噌汁はとても温かく、優しい味がした。
寝る前に、私は靴を履いて、庭に出た。
人工的な光がほとんどないためか、星空はとても綺麗だった。開けたところで見たいと思い、足を門へ向ける。
満天の星に、私は知らず知らずのうちにため息をつく。そう言えば世界が滅亡してからこの方、こんなにじっくりと星空を見た覚えがないことを思い出す。
しばらく眺め、戻るために目線を前に向けると、これまた美しい光景が広がっていた。
地面に星が浮いていた。いや地面ではない。黒く見えるけれど海だ。海に映る星空。まさに、星の海。
もっとよく見ようと足を前に出すと、腕を掴まれた。
「おまえ、死ぬ気か?」
青井くんがいた。
「何で?」
「この先崖だぞ」
それは危ないところだった。ふと口にしてしまう。
「人は何で、生き続けるんだろうね」
青井くんは答えなかった。私は一歩、足を前に進める。
「どうせ死ぬのに、何で生きるのかな」
二歩、三歩、四歩。そしてくるりと青井くんの方に体を向ける。
「無意味なのに」
「……知りたい?」
青井くんが口を開いた。その目は私を見つめていた。
「知りたい」
私がそう答えると、青井くんは目を細めて言う。
「じゃ、分からせてやるから、目、閉じて」
青井くんの手がこちらに伸びる。本当は青井くんの前で目を閉じたくない。怖い。けれど何とかして、私は瞼を下ろす。
「あ、その前に質問」
「何それ」
思わず目を開けて青井くんを睨んだ。青井くんは何故か楽しそうに笑ってるけど、私は全然楽しくない。
青井くんは相変わらずニコニコと笑っていた。
「何で、俺のこと、昔のように名前で呼ばないの?」
確かに私は、小学生の頃は『青井くん』ではなく『空翔くん』と呼んでいた気がする。
それよりも呆れた。彼は私の気持ちを考えたことないのか。
「呼ぶわけないでしょ」
私がそう言うと、青井くんはそっか、と嬉しそうに笑った。分からない。何をしたいのだろう、彼は。
青井くんは楽しそうに笑った後、おもむろに私の方へ近づいてきた。
「やっぱり泉は綺麗だね」
そう言うと、青井くんは私の首に手を当てた。私は慌てて逃れようとするが、その前にきつく締められる。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!苦しい苦しい苦しいやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ何でこんな、
「姉ちゃん、いじめられてたんだ。両親は気づかなくて、可哀想だなって思うと同時に、俺は、姉ちゃんがとても綺麗に見えた。いじめられて、精神が不安定になって、狂って、壊れていく姉ちゃんが、とても綺麗だった」
何言ってるの?分かんない聞こえづらい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ苦しい酸素、酸素が、息ができない苦しい苦しい苦しい苦しいやだやだやだやだこのままじゃ死んじゃう死ぬ死ぬ死ぬ嫌だ怖い怖い死ぬ何でやだやだやだやだ離して離して離して死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死──
「!はぁっ……」
いきなり手を離され、私は崩れ落ちた。ゲホゲホと荒い咳をしながら、私はめいいっぱい空気を吸い込む。苦しくて辛い。私は涙目になりながら彼を見上げた。
青白い月明かりの下でも分かるほど、青井くんの肌は紅潮していた。どこかうっとりさせて私を見下ろす彼は、とても不気味だった。
「ねぇ、分かった?」
何が、と言おうとして、私は咳き込んだ。青井くんは未だ私を見下ろしたままだ。
しばらくして何とか呼吸が落ち着くと、私は彼を見上げた。
「何が」
「死にたくないって思ったでしょ?」
悔しいが、思った。
「それが俺の生きる理由。死にたくないから生きる。単純なことだよ」
確かにそれは単純なことだった。けれど、どうしても分からないことがある。
「……何で、首を絞めたの」
青井くんは一瞬きょとん、としたものの、次の瞬間にはふんわりと笑った。とても優しい目。けれどとても軽蔑する目。
「だってそうしなきゃ、泉は認めないだろ?ああ、泉は可愛いね。自分を曲げないところは長所だけど、その実短所だ。だって君は、ただ自分が認められたいだけだから。だから俺は泉にちゃんと理解してもらおうとしたんだよ」
彼の瞳はまるで、愛玩動物でも見てるような目だ。きっと手の平で青井くんの思うがままの行動をしている私を見て、楽しんでいるのだろう。
「泉が理解しなくて死ぬのは嫌だからさ」
「………私のこと、どう思ってるの」
私がそう訊くと、彼は笑った。薄く唇を上げ、瞳が爛々と輝く。
「好きだよ。壊れていて、綺麗で、可愛い君が、好きだ」
そう言って青井くんは私の目線に合わせるようにしゃがんだ。愛おしそうに私を見つめる彼を美しいと思ってしまう私は、きっと彼に壊されていたのだろう。
「ねぇ、泉、一緒にいよう。この壊れた世界で、生きよう」
まるで花開くように笑顔を浮かべた彼の言葉に、私は知らず知らずのうちに頷いた。
私は後ろを振り返る。そこには変わらず、夜空に似た、黒々とした海が広がっていた。