5.わたしの黒猫
――ちりん。
「……で、やる……死んでやるッ!!」
「だめぇッ!!」
無我夢中でした。
驚愕に固まった教え子の面影が、茜に焼きついて頭を離れません。
時が止まったよう。それでも、振り下ろされた右手は止まらないまま。
ズンと、左の横腹に、妙な異物感。
「……え、先、生……?」
「……っく、ぅ……」
「う、わぁあッ!?」
「ああぁあああっ!!」
経験したことのない、激痛でした。
反射的に刃を抜かれた傷口から、どぷっとあふれ出す血液。
視界が、明滅します。
「ウソだ……こんな……」
教え子の唇が、カタカタと震えを刻みます。
彼の手を離れた血濡れのサバイバルナイフは、カランカランと、プールサイドをのたうち回り――
……え? サバイバル、ナイフ?
「ごめ……俺、刺すつもりなんてっ……」
「す、どう、く……」
「ごめん! ごめんなさいっ……二葉ぁッ!!」
ちょっと……待って?
「このままじゃ、二葉が死んじゃう……嫌だ、やだ……」
なにかが……おかしいです。
いえ。なにもかもが、おかしいのです。
涙をこぼす教え子の言動も、一瞬にして消え去った、わたしの痛覚も。
「二葉がいなくちゃ、意味ない……おねがい、いなくならないでっ……なんでもするからっ!」
「おのれを見失い、愛するヒトを手にかけたか。滑稽だね」
不気味なほど紅い夕陽を背に、プールサイドに現れた黒髪の青年は、六月くん――
「七海っ!?」
――では、ありませんでした。
「二葉はおれのものだ。おれが助ける。キミにできることは、たったひとつ」
ゆるりと弧を描いた唇は、下弦の月。
青年の思考は、まったくもってわかりません。
けれどわたしは、おもむろに膝を折った青年が、次に紡ぐ言葉を、知っています。
「その罪悪感に身を焼かれながら、死ね」
血濡れのサバイバルナイフを拾い上げては、ダーツで遊ぶかのように、クラスメイトを――……
「もうやめてぇッ!!」
なにも見たくなくて、髪を振り乱しました。
「酷い……酷すぎるわ……!」
うなだれ、小刻みに震える肩を、包み込む影があります。
とめどなく涙がプールサイドにシミをつくるけれど、横腹からあんなに失われていた血も、傷痕すら、跡形もなく。
――ちりん。
「……やっと〝思い出した〟かな。これは〝あの日〟の、ふぅちゃんの記憶だよ」
えぇ……思い出しましたとも。
「〝あの日〟……わたしは須藤くんに呼び出されて、このプールで、告白をされました」
もちろん、丁重にお断りをしました。
すると須藤くんは、涙ながらに訴えたのです。
サバイバルナイフを取り出しながら、〝二葉が手に入らないなら、死んでやる〟――と。
「わたし、必死で止めて……でも、もみ合っているうちに……」
須藤くんは、殺意など持ち合わせてはいませんでした。
けれど結果として、彼の右手は、わたしの腹部大動脈を搔き斬ってしまった……
「そう。だからおれが、ふぅちゃんの仇をとってあげたんだ」
投げやったサバイバルナイフで、クラスメイトの心臓をひと突きにして……
返り血を浴び、わたしを振り返った彼のほほ笑みと、紅い夕陽は、とても恐ろしいものでした。
「須藤は、おれが殺した。ふぅちゃんは、おれが助けた。おれの命をひとつ分けてあげて、ね」
分けてあげるなんて、まるで、いくつも持っているような言い方だわ。
「その通りだよ。だっておれは、アナタだけの、飼い猫だから」
わたしの思考を見透かしてみせた青年は、そっと、耳朶へ唇を寄せます。
「こんなことわざがあります。〝猫に九生有り〟――おれはね、愛情を注いでくれたアナタに尽くしたくて、地獄から這い上がってきたんです」
あぁ……そうでした。
あなたが、そうなんですね。
――にゃあ。
「レイ、レイ……零」
子供のころに拾った、かわいいかわいい、わたしの黒猫。
ちりん――……
「おれは、アナタの飼い猫。アナタが望むなら、仕草で、身体で、悦ばせてあげる。アナタを満たすことが、おれの存在意義」
首にすり寄るのは、甘えたいときのくせでしたね。
お昼寝が好きなあなたは、よくお陽さまの香りをさせていたわ。
ぜんぶぜんぶ……あなたなんですね、零。
深呼吸と同時に、止まった刻が、解放されるよう。
「六月てめー……ブッ殺すッ!!」
再び広がった茜空で、憤怒に燃え盛る須藤くんを目の当たりにします。
その右手はカッターを投げ捨て、懐へ……
「ほら見て。アレが、性懲りもなくアナタを欲する、愚かモノだよ」
憎悪を向けられてなお、蒼と金の瞳は、可笑しげな笑みを崩しません。
「大丈夫。アナタを傷つけるヤツは、誰だって、何度だって消してあげる……」
「零……」
「上手にする。いっぱいいっぱい、褒めてね?」
期待ありげなまなざしを残し、スッと立ち上がる青年――零。
「黒猫の不吉を、プレゼントしよう」
こんなことって、あるのでしょうか。
夢のような現実。
仮に、すべてを受け入れたとして……
あの惨劇を、繰り返す意味とは?