転
優希姫との出会いから、僕の周囲は一変した。
まず家族との会話が増えた。
まあ、挨拶や御礼がほとんどだけど、以前とは比べ物にならないほど父さんや母さんと接する機会は増えたと思う。
久し振りに夕飯の食卓に付いたときは心底驚かれたが、同時に両親の嬉しそうな顔がとても記憶に残った。
そして妹の峰月とも会話をするようになった。
最初はよそよそしく怯え気味に話しかけてきていた峰月も、しばらくすると僕にも笑顔を見せるようになり、勉強など分からないことがあったら積極的に僕に訊くようになってきている。
僕が部屋にこもってるときでも構わずに来るあたり、随分となつかれたものだ。以前なら僕が部屋にいるときは両親も妹も声を掛けるどころかノックもしてこなかったのに、今では大した用もないのにわざわざ部屋の中まで来ている。正直、家の電話の内線で良いだろ、と思う。僕の部屋にも電話くらいあるんだから。
それから学校だが、あれ以来優希姫が僕の近くにいるのが常となり、いつの間にかセットで見られるようになってしまった。なぜ?
どうしたらクラスで人気者の優希姫と孤立してる僕がコンビ扱いなるんだよ。
そう、孤立してる。孤立しているはずだったんだが。
優希姫がいつも僕の傍にいるせいか、他のクラスメイトの何人かも僕に話しかけてくるようになったのだ。彼ら曰く、ちゃんと話してみると案外普通で面白い奴、だそうだ。何だそれは。仮にも不死鳥なんですけど、僕。普通とはかけ離れてるんですけど。
相変わらず友達と言えるのは優希姫だけだが、こうも話し掛けられたらハッキリ言って本が読めない。という訳で授業中にしか時間がないので、そこで本を読んでしまうのは仕方ないよな。今までも読んでたけど。
クラスメイトから受ける印象は大分変わったようだが、教員からの評価は変わらず最底辺だ。内申が低いのはもう諦めてる。その分はテストで点取ってるんだから勘弁して頂きたい。
それと、僕の日常で変わったことがもう一つ。
「ねぇ夕月、バイオリン習おうよ!」
優希姫が言い出した唐突な提案によって、何故か僕たち二人はバイオリン教室に通うことになった。
何でいきなりそんな話になったのかは訊くまでもなく僕には分かっていた。最近二人で行ったバイオリンコンサートに影響されたらしい。意外と単純なやつだ。
ちなみにコンサートのチケットは優希姫の両親からの貰い物。一度会ったことはあるが、裕福で気品のある印象を受ける方たちだった。日頃から疎まれてる僕の金髪金眼を見ても普通の態度で接してくれたし、かなり良い人そうな両親だ。若干、親バカが入っているようで、話していると優秀な一人娘である優希姫が彼らの自慢なのがよく分かる。
これは、彼女が夜な夜な無断外出してるのが知れたら泣くだろうな。そしてそれに付き合ってる僕もただじゃ済むまい。本当に知らぬが仏のままでいてもらおう。
そしてバイオリンだが、流石は優等生の優希姫。あっという間に上達して、一年も経つ頃にはコンクールに出られるレベルにまでなっていた。
僕に至っては完全な付き合いでやってるバイオリンなのでコンクールには興味がない。それを言ったら、優希姫も「じゃ、私もコンクールはいいや」と出るのを辞めてしまったので、出場を勧めてくれた先生には悪いことをしたな。
あと、僕のバイオリンの腕は優希姫と似たようなもんだ。
バイオリン教室に通うにあたって、楽器の購入という両親への始めてのおねだりをしてしまったが、何故か喜んで買ってくれた。お金が掛かるだろうに嬉しそうとは、変な話だ。
一緒に買いに行った時に、そのうち弾いて聴かせてくれと言っていたので、それなりのレベルになってから家で演奏したら、家族にはかなり好評だった。上手いかどうかは置いといても、表情を見る限り凄く喜んでくれたのは間違いないだろう。
僕としても、音楽の楽しさを知れたのでこれはこれで良かったと思う。
夜間の外出は相変わらずだが、優希姫が同行することも多くなって、最近はあまり空の散歩をしなくなった。
少しだけ変わってるかもしれないが、本当に普通の毎日を過ごしていった。
それから二年。
僕たちは中学生になっていた。
中学二年の冬。
日本海側に位置するこの地域は、冬になると豪雪で辺りが真っ白に染まる。
車道は除雪車や融雪装置があるから良いが、歩道は毎年酷いもんだな。年が明けてからまた積もったのか、歩けば足が埋まってしまう。
これが一月下旬にはさらに積もり、道路はアイスバーンと化す。地元に住む人たちにとっては相当に憂鬱なところだ。車の事故も多発して、歩けば滑るためオチオチ外も歩けない。
大人にとってはたまったものじゃないだろうが、それでも子供たちには嬉しいようで、住宅街のそこかしこにある雪ダルマはご愛嬌だ。
「うー、寒っ! 夕月、寒くないの? ネックウォーマーもマフラーも無しで………」
夜の散歩、ではなく、バイオリン教室からの帰り道。日照時間の短い冬の太陽はもう沈み、暗い夜道に吹く冷たい風と共にいっそう寒さを引き立てる。並んで歩いていた優希姫は、そのあまりの寒さに身を縮めていた。
僕はといえば、例に倣ってコートは着ているが無くても別段寒いという訳もない。厳密には寒いことに苦を感じていないというべきか。
だからネックウォーマーやらマフラーやらは必要性を感じないのだ。というか、首がチクチクして付けているだけでジャマな気がする。
「寒さには強い方だからね」
流石に不死鳥だからというのは関係ないだろうが、取りあえず僕はそう答えておいた。
「なんかそのセリフ、夏にも聞いた気がするけど」
「暑さにも強いからね……」
「勉強や運動、バイオリンだけじゃなくて、そんなとこまで万能とか………本当に何でも超人じゃないの?」
「ほっとけ……」
僕と優希姫は中学になってからも変わらず友人としてやっている。
小学五年で同じクラスになって以降、彼女とはずっと一緒のままだ。休み時間は必ず彼女が僕の席まで来て喋ったりテスト勉強したりで過ごしているが、たぶんクラスが分かれててもそれは変わらなかっただろう。
僕の自惚れではなく、優希姫本人の言葉だ。
おかげで毎日が退屈せずに過ぎていく。
昔とは大違いに。
それと優希姫のおかげなのか、僕は中学ではそこまで悪目立ちはしていない。
この金髪も、最初は上級生や教職員に悪い印象を与えたようだが、常に横にいた優希姫が地毛であることやそのせいで受けるやっかみなどを説明してくれて、今では逆に不良っぽい連中に羨ましがられたり、先生には同情気味にイジメられたらいつでも相談してこいと言われたり、何か無駄に変な方向に話が進んだ気がするが疎まれることはなくなった。
内申も小学校時代に比べて良くなってるだろう。中学だと特にそういうところが進学とかに響いてくるからな。
「もう、来年には受験だね………」
そんなことを考えていたせいかは知らないが、優希姫がポツリとそう呟きを溢した。
「そうだな。まあ、あんまり気にすることでもないだろ………」
「あ、学年一位の成績の余裕かぁ? 受験生たちには嫌味だぞ?」
「そんなつもりはないけど。そもそも君だって学年二位だろ? 県内の高校なら何処でも行ける成績なんだし、そこまでセンチメンタルになる必要はない、って言いたかったんだよ」
「分かりにくい優しさだね」
「ふん、うるせー」
我ながら不器用なのは承知しているよ。
というか、人間が器用すぎるだけのような気がする。
「夕月はもう行く高校決めたの?」
「一応、駅前の県立高校の予定だけど……」
「あれ? 県で学力二番目のところじゃない。本当にそこで良いの?」
「ああ」
「何で?」
「高校の名前が学力一位のとこよりカッコいいから」
「…………………夕月、真面目に高校選ぶ気ある?」
失礼な奴だな。こう見えても大真面目だぞ。大事だろ、名前って。
訝しげに僕を見ていた優希姫だが、永遠と真顔で返していたら、やがて吹き出して大笑いを始めた。
「アハハ、でも、まあ、夕月らしいといえばらしいかな。相変わらず面白いよね」
「笑いを取りにいったつもりはないんだが………」
「素で面白いんだよ。だから一緒にいて楽しいし」
「そいつはどうも……」
あんまり誉められてる気はしないがな。
「じゃあ、私もそこの高校にしよっかな……」
「おいこら、君こそ真面目に選ぶ気あるのか?」
「いいじゃん、どうせ県内学力が一位も二位も大して変わんないよ」
こいつ言いやがったな。学校関係者からしたら割りと重要なことを目クソ鼻クソみたいに。
こんな雑把なやつの頭がどうして良いのやら、人間てのは本当に不思議な生き物だな。
ただ、
「それに、夕月と別の学校になるのは寂しいしね」
そう言ってくれたのは、素直に嬉しく思えた。
赤城宅の玄関前。
「じゃあ、また明日学校でね、夕月!」
バイオリン教室は赤城宅から比較的近い。僕の家までの帰り道でもあるため、優希姫を家まで送り届けるのは毎度のことだ。
「ああ、あー、優希姫………」
「ん? どうかした?」
手を振って家に入ろうとする彼女を、僕は何となく呼び止めてしまった。
何となく、本当に何となくだが、一つだけ…………言いたいことがあった。
「ありがとな、優希姫……」
僕の言葉に、優希姫は目を丸くして驚いた表情になっている。
「…………どうしたのいきなり」
「いや、何となくそう思っただけだよ………」
特にこれという理由はなかった。
ただ、感謝すべきだと思った。それだけだ。
「本当に、感謝してるよ」
「…………………変わったね、夕月。会ったばかりの頃は、もっと遠いところを見てたのに。今はちゃんと目の前のことが見えてる」
「………………君のおかげ、かもな。良くも悪くも、確かに変わった自覚はあるよ」
「私が何かしたつもりはないけど、今まで見えてなかったものが見えるようになった。それだけで良いことだと思うよ」
「そうだな。でもやっぱり、感謝はしておくよ………」
「そっか。じゃあ、素直に受け取っておこうかな」
にこりと笑う彼女の顔は、始めて見たときと同じ。曇りのない笑顔。それだけで、変わって良かったのだと、僕は心からそう思えた。
優希姫と分かれ、僕は自宅への道をゆったりとした足取りで歩く。雪で歩道が埋まっていてかなり足場が悪い。
歩きづらいな。
だがそれを甘んじて受けている自分にも、あまり違和感を感じなくなってきた。
こうやって普通の生活を送っている僕を、前世の僕が見たらどう思うだろうか。
笑い飛ばして終わるだろうか。
逆に今の僕が前世の僕を見たとしたら、胸を張って言える―――羨ましいだろ、と。
「そういえば最近、飛んでないな……」
つまりもう一年近く、あの姿になっていないことになる。
僕にとってはあっちが本来の姿で、それこそ何億年といいう時を共にした身体になるはずだが、僅か十四年足らずで、最早この人の姿が当たり前になってしまった。
だから時々、分からなくなる。
自分がいったい、誰なのか。何なのか。自分の本当の姿が何だったのかが、分からなくなってしまう。
もしかしたら、前世の記憶も、あの不死鳥の姿も、自分が思い描いただけの妄想だったんじゃないのかと、錯覚してしまいそうになる。
そう、錯覚だ。
僕は不死鳥。それは変えようのない事実なんだと、この身体の奥に揺らめく黄金の炎が訴えている。
本当に僕はここにいていいのか、とそんな疑問がいつでも、どんなときでも胸の内に付きまとっていた。
なら、僕は何のために…………、
誰のために、この世界にいる?
どうして僕は、この世界に生まれ変わったんだ?
その疑問に答えてくれる者はいない。
まあ、いいだろう。分からなくてもいい。
まだこの世界に生まれて十四年しか経っていない。そんな短い時の中で、得られるような答えでもないだろう。
十四年。たった十四年だ。
あの永遠とも呼べる日々の中から見てみれば一瞬のような時間に過ぎない。
なら、優希姫と出会ってからの三年間など、それこそ一瞬にも満たないのかもしれないのに………、
どうして、
どうしてこんなにも、
あの日々の一つ一つが、長く、強く、僕の心に響き続ける。
あんな僅かな時間に、いったい僕は何を得たのだろう。
答えの出ない疑問にさ迷う僕の心を写すように、冷たい風にのって空から雪が降ってきた。
ただでさえ積もっていた雪をさらに覆っていく新雪。この調子だと明日には一面真っ白になりそうだ。
一月半ば、まだまだ雪どけは遠いな。
暗い空を遠い目で見つつ歩き続けていると、視界の隅に同じ中学の制服を着た女子生徒が歩いているのが写った。
ちょうど僕の十メートルほど前だ。
雪に足を取られながら、おぼつかない歩みで歩道を進んでいる。
なんていうか、今にも転びそうな感じだな。そんな危険予知を他人事のようにしているときだ。
彼女が交差点の近くに差し掛かったところで、それは起こった。
大通りの青信号を右折してきた大型トラック。国道とまではいかないが、田舎でも大きな道なら当然のように融雪装置はある。だが国道よりも車通りの減る道は積もった雪が凍結し、少ない車通りで押し潰され、凝縮された形でなかなか融けることのないアイスバーンとなるのだ。
轍をなぞって走る分にはまだ良いが、夜で更に車が減った中、降りだした雪で轍が埋まって見えなくなっていた。
新雪ならタイヤはそこまで滑らないはずだが、下にあるアイスバーンがマズかった。轍を外したトラックは凍りついた路面でタイヤをスリップさせ、少女の歩いていた歩道に突っ込んでいく。
お、おい、ちょっと………ヤバイんじゃないか?
そう思ったときには、もう僕は動いていた。ああ、クソッ! 何でだろうな!
昔の僕なら、まず絶対に動かなかっただろうに。脳反射的な行動で、僕は目の前の少女を助けようとしている。
少女との距離は十メートル。
僕は人の身体能力の限界を超えたスピードで勢いよく駆け出す。積もった雪のせいで足場が悪い。だが、行けるはずだ。
―――間に合え……!!
ギネス記録を彼方に置き去りにした速度で少女の元まで移動した。
しかし、抱えて逃げる余裕はない。
僕は咄嗟に、少女をトラックの進路から外すように突き飛ばした。悪いとは思うが、雪の多い場所にしてやったんだから勘弁してくれよな。トラックに吹っ飛ばされるよりはマシだろ。
なんて、他人事のように言ってる場合ではない。
少女を突き飛ばしたのは良いものの、僕は逃げ切れなかった。
目の前に迫る大型トラック。轢かれるのは間違いない。
僕はやむ無く身構え、突き飛ばした少女に見られないよう反対側に動きながら、トラックの直撃を潔く受けた。
激しい衝撃と共に、トラックと僕の背後にあった家の激突する音が夜の街に響く。
あー、随分と派手な事故になったな。
僕はといえば、トラックと家にサンドイッチにされ致命傷を負った状態から一瞬で再生し、少々強引に挟まれた瓦礫の中から抜け出した。
…………危ねぇ、危ねぇ。
いくら再生能力があったとしても、身動きとれなくなったらヤバイからな。まあ、不死鳥モードになったら力業で全て吹き飛ばせるけども。流石にこの世界ではそういう訳にもいかないよな。
一応、幸いというか、トラックが派手に突っ込んだおかげで、僕の再生する姿は少女にもトラックのドライバーにも見られなかっただろう。瓦礫から抜け出した先も、少女を突き飛ばした方とは反対側だし。
まあ取りあえず、僕はさっさと退散させてもらおう。
おっと、身体は再生したが、服はボロボロだな。
家に入るときは父さんや母さんに見られないようにしないと、いろいろと面倒なことになりそうだ。近頃の両親ときたら、忘れていた愛情を存分に注ぐように、これでもかと僕に構ってくるからな。
「はぁ、本当に………随分と変わったもんだな………」
強くなり始めた雪に紛れながら、僕はその場からそそくさとトンズラした。
◆ ◆ ◆
翌朝。
昨夜の事故のことが、割りと深刻な様子でニュースとなっていた。
まあ、当然か。
あれだけ派手な事故なんていくら大雪注意報の出るこの県でもそうはないからな。
ちなみに今は朝食の真っ最中。
近頃は家族四人で食卓を囲むことが当たり前になってきた。僕の周りには、同じく朝食を食べている両親と妹が座っている。
「怖いわね、うちのすぐ近所でこんな大きな事故なんて………」
母さんが不安そうな表情で言う。
「まあ、確かに被害は酷いけど怪我人が一人も出なかったみたいだから、不幸中の幸いだよ」
父さんがそれに相づちをうちながら、味噌汁をすする。あまり興味がなさそうにしているが、視線は終始テレビを気にしている。
「お兄ちゃんも気を付けてよ? 事故があったのって、バイオリン教室から帰るときの時間と変わらないみたいだし」
続く妹の言葉に、僕は心の中で苦笑いを浮かべた。
「そうよ、夕月。やっぱり遅い時間になるなら車で迎えに行った方が良いと思うの。この時期だと事故も多いし、巻き込まれたりしたら大変よ?」
そう言う母さんは、子供に対してかなり心配性だ。
僕がすでに事故に巻き込まれ、モロにトラックが直撃していることを知ったらどうなることやら。
「そこまでしなくても大丈夫だよ。母さんも仕事で疲れてるだろうし、バイオリン教室はそこまで遠くないからね」
それに、バイオリン教室の行き帰りに優希姫と二人で歩くのは、僕の楽しみでもあるし。
「ご馳走さま。じゃあ、学校行ってくるよ」
「あ、お兄ちゃん待ってよ! はむ、はむ、ん、ご馳走さま!」
立ち上がった僕を見て慌てて朝食を口に詰め込んだ峰月が後ろからついてくる。
僕が通う中学校と妹の通う小学校はすぐ隣だ。
―――あ、あのね、お兄ちゃん。学校、一緒に行ってもいいかな……?
二年ほど前にそんな会話をして以降、妹とはずっと一緒に登校している。ちなみに下校は時間が合わないから別々だ。
ぶっちゃけこの家から学校までは五分くらいしか掛からないんだから、登校くらい一人でも出来るだろうに。
何故にこうも僕になついてくるのやら。
昔からそんなによくしてやった記憶はないんだがな。
まあ、別に拒む必要も、理由もないから良いんだけどね。
「そういえば、峰月……」
「ん、なに?」
「お前、附属の中学の受験しないって聞いたけど。そのままうちの中学にくるのか?」
「うん、そのつもりだよ」
田舎だか唯一受験のある大学附属の中学は、県内では間違いなくトップの学力を誇っていて、小学生の頃から成績の良い子たちは大概がそちらを受験するのだ。ちなみに受験をしなければ、そのまま地区の中学に進む。僕や優希姫がそうだ。
この前に優希姫と話した県内トップの高校はその中学と同じ大学附属の学校になる。所謂、エリート街道、というやつだな。田舎だけど。
「………良いのか? 峰月は成績良いんだし、エスカレーター式の名門校にも普通に受かると思うけど」
「それお兄ちゃんが言う? お兄ちゃんこそ、何で附属の中学受けなかったの?」
「遠くて通うのが面倒だから……」
せっかく近場に中学があるんだから、そこに通った方が楽だろ。
「ぷっ、お兄ちゃんらしいよね……」
「峰月も同じ理由か?」
「ううん。私は、お兄ちゃんと同じ学校が良いからだよ」
「何だそりゃ……」
優希姫と似たようなこと言いやがって。
あいつはともかく、峰月は僕と同じ学校に通ったって何かあるのか?
小学校のときは学校で話なんてしなかったのに。
まあ、当時の僕は優希姫以外の誰とも喋らなかったけど。
そういえば小学生の頃、僕が図書室にいるときに峰月がちょくちょく来てたな。話し掛けてはこなかったけど、こっちを見ていたのは気づいてた。
中学にあがってから峰月ともよく話すようになったが、それが同じ学校に通ったら何か変わるのかね。
いや、すでに変わっているんだったな。
そして、さらに変化し続けていく。
周りの環境も、その中にいる僕自身も。
冬の教室は暖房やストーブが点けられ、昼休みにはそこに群がるかのように人の壁が出来ていた。寒い廊下に出ているものはほとんどいない。
若いやつらが何を軟弱な、と思わないでもないが、元より寒さに苦を感じる概念のない僕が言えた義理ではないので、黙ってその光景を見つめている。
すると、小学五年生から四年連続で同じクラスである優希姫が、弁当の包みを持って僕の席までやって来た。
「夕月、お昼食べよ?」
「おー」
そうやって二人で机に弁当を広げたときだった。
「おーい、羽川!」
名前を呼ばれる声がした。
見れば同じクラスの男子が教室の出入口に立って、こちらに手をあげている。
えーっと、名前なんだったかな。まあいいや。
「なんだ?」
席に座ったまま割りと雑に答えると、男子生徒は要件を言った。
「お客、一年の」
「は?」
僕に客?
しかも後輩で?
出入口に男子生徒と共に立っている女子生徒がそうらしい。学年は靴紐の色で分かるが、確かに一年生のようだ。
はて………、僕に一年の女子生徒との接点なんて合っただろうか?
「夕月の知り合い?」
「いや、知らん」
対面の優希姫が疑問を飛ばすが、僕の方が疑問だらけだった。
「取りあえず行ってくるわ。優希姫、先に食べててくれ」
「ほーい」
優希姫の返事を聞いてからそちらに向かう。男子生徒の方は僕を呼んだら、そのまま廊下に抜けていったようだ。
僕も廊下に出て、改めてその一年の女子生徒を見る。
黒い髪と瞳。ショートボブで眼鏡をかけた姿は一見地味だが、綺麗な顔立ちをしてるのは分かった。
うん、知らん。心当たりは欠片もない。記憶にかする気配もない。マジで誰だこの娘?
「すみません、お呼び立てしてしまって」
まずは彼女が呼び出しについて謝ってきた。見た目通り、礼儀正しい良い子という感じだが、やはり僕の記憶にはないな。
「ああ、それはいいけど、何か用かな? というか、君とは初対面だと思うんだが………」
「あ、はい、すみません名前も言わずに。一年八組の星河姫刹です。羽川夕月先輩ですよね、二年五組の」
「ああ、見ての通りな」
クラスまで来て名前で呼び出したんだから知っているはずだが、改めての確認だろうか。
それはいいとして、彼女の名前を聞いてもピンとこない。
考えても分からんし、訊いてみるか。
「それで、何かな?」
「あ、はい、その………昨日のことのお礼をと思いまして……」
昨日のこと?
何かあったっけ?
「昨日の夜、トラックに轢かれそうになった私を助けてくれましたよね?」
「………………………君が昨日の、よく僕だと分かったな」
背後から突き飛ばしたつもりだったが、まさかあの状況で僕の顔を見て、しかも覚えてたとは。
「はい、後ろ目に金色の髪と瞳が一瞬見えたので……………」
「ははは、余計なとこで目立つからな、これ」
乾いた笑いしか出てこない。我ながら派手な見た目だとは思うが、こんなところでも足を引くとは。
「あの、昨日は本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる星河。
「羽川先輩、お怪我はありませんでしたか?」
「ああ、君を突き飛ばした後、すぐに身体を引いてトラックの進路から出た。ギリギリだったが、特に怪我もなかったよ」
実際にはトラックに直撃したのだが、幸い見られていなかったらしい。
「君の方こそ怪我はなかったか? 悪かったな、強目に突き飛ばしちまって」
「いえ、下は雪でしたから何とも………それに、多少の傷も命には代えられませんし」
「まあ、な。あれだけ派手に突っ込まれたら死んでもおかしくないしな」
「はい、おかげさまで命拾いしました。本当に、ありがとうございました」
改めて深く頭を下げる星河は、本当に心からの感謝を述べているようだ。
まさか、この僕が他人に感謝されるようになるとはな。
人からされる感謝、か。
何ていうかちょっと、良いもんだな。
そんな感慨に浸っていた僕は、背後で妙にジトっとした視線を送ってくる優希姫に気付かなかった。
◆ ◆ ◆
放課後の教室。
頬杖をついた優希姫が、僕の目の前に座っている。その目は何故かジト目だ。おかしい、僕が何かしただろうか?
先の呼び出しについての説明をしただけなのだが。
「ふぅ~ん、あの夕月が人助け、ねぇ」
件の問題はそこらしい。
「それは全然いいんだけど。凄く嬉しいんだけど、ねぇ」
そう、僕が人助けをしたことは喜んでくれたのだが、要はその内容だ。
「で? 何で夕月は歩道に突っ込んできたトラックに飛び込んで行ったのかなぁ?」
誰この娘? 本当に優希姫か?
そう思ってしまうほど、とてつもない威圧感がある。
僕には恐怖という感覚もないんだが、今の彼女には一歩下がってしまいそうな気分だ。かつての伝説の不死鳥ともあろう自分が何とも情けない話だが、真面目にそう思うのだから仕方ない。
よく分からんのだが、どうやら優希姫は怒っているらしい。
さてはて、どこかに怒られるようなことがあっただろうか?
「はぁ、ハテナマーク浮かべた顔して、夕月は何で私が怒ってるか分かってないでしょ?」
「ああ、全く分からん………」
「…………」
気のせいかな、僕には怒りマークが見えたよ。
「一歩間違えば死んでたんだよ?」
そう言われて、ようやく彼女が怒ってる意味が分かった気がする。
そうか、普通は、そうだよな。
僕だから生きてたんだ。僕に不死身の再生能力があったから。だから死なずに済んだんだ。
一歩間違えば、か。
いや間違えてなんかいない。紛れもなく、あそこが僕の、羽川夕月の死に場所だった。
偶然じゃない、運命でもない、僕が生き残ったのは不死鳥だから。自分の人ならざる能力に頼ったからだ。
僕が普通の人間だったなら、普通に死んでいた。死んでいたんだ。
そのことを優希姫は知らないが、たぶんそういうことを言っているんだろう。
平凡な生活を送り、人間としての自分を当たり前に感じてきたといっても、本当に人間だったなら、もう僕はこの世にいないんだ。
不死鳥で良かった。再生能力を持ってて良かった。
まさかこの生活を守るためにそんなことを思う日がくるとは驚きだ。
そして身に刻んでおこう。
僕は不死鳥だけど、その力に甘えてはいけないのだと。この世界に生きる人間として、一つの命を大切にしなければならないのだと。
「悪い、優希姫。今度からは気を付ける」
「………………はぁ、その様子だと半分くらいしか私が怒った理由が分かってなさそうだけど、いいよ。前の夕月だったら、半分どころか気にも止めなかっただろうし」
「………………」
なんか知らんが、納得はしてくれたみたいだな。
下校するために生徒玄関を出たところで、昼間にお礼を言いに来た後輩・星河姫刹にバッタリ会った。
「あ、羽川先輩………」
「星河さんか……」
先のこともあってか、些か雰囲気が堅いな。畏まった様子だ。
知らない間ではないが、世間話をするほど仲が言い訳でもない。まあ、挨拶くらいはされるかと思ったが声を掛けてくるとは思わなかったな。
「さん付けはやめてください。私は後輩ですし」
「……………あー、と言ってもな」
「呼び捨てで姫刹で構いませんよ?」
「まあ、君がそれで良いならそうさせてもらうが」
「はい、お願いします」
ふわり、と笑う顔。
優希姫とはまた違うその微笑みからは、僅かだが幼さが見え隠れしている。
「羽川先輩、帰り道はお城側ですか?」
「いや、その真逆。あっちだよ」
指で方向を示す。
「あ、じゃあ私と同じ方向ですね。ご一緒しても良いですか?」
「いいけど、僕の家は本当にすぐそこだぞ」
「なら途中までということで………」
「ああ、別に構わないよ」
と、二人並んで帰り道を歩きだす。
何だか思ってもみない展開だ。
今日始めて会ったばかりなのに、ここまで積極的に僕に話しかけてきたのは優希姫以来じゃないだろうか。
この髪と瞳のせいか、ある程度馴染みの出来たクラスメイトならともかく、いまだ関わりの薄い人間からは奇異の目を向けられることも多いからな。
「君は何とも思わないんだな。この髪と瞳のこと」
普段はそんなの気にしたこともないのに、僕は何となく隣を歩く彼女に訊いてしまった。
「変わっているとは思いますけど、それが特にどうということはありません。外見なんて所詮は器に過ぎませんし、問題は心がどういう人かでしょう?」
「へぇ、なかなか達観したことを言うな、君は。中学生くらいの歳だと、どうしても外見や能力面みたいなうわべの部分に惹かれる奴が多いのに」
「確かに、容姿が良いことや、勉強、スポーツなどが出来ることは美点だとは思いますが、それが全てだとは思いません」
なるほど、こういう娘もいるのか。
今まで僕は周りが受ける印象っていうのは見た目が八割を占めていて、あとは日頃の生活態度、それも勉強、スポーツなどの取り組み方で決まると考えていた。
見た目のマイナスに対し、如何に生活態度を優秀に見せ、真面目を装うか、ということをテーマに今までの中学校生活をやってきたつもりだ。
実際、優希姫の協力もあってその部分は上手くいってたし、それに比例して教員や周りの生徒からのマイナスイメージも大きく払拭できた。
元は優希姫の提案で始めた遊びみたいな実験だったが、結果的に上手く事が運んだ訳だ。
だから自然と、そういうものだと思っていた。
人間が見るのは内側ではなく外側。外観が如何によく見えているかで決まる、と。
僕もそう納得してた。それに優希姫くらい長い付き合いになれば、自然と互いの内面も見えてくるようになる。
だから特に疑問はなかった。そこまで待って、そこから続けていくのが友達なんだと分かったから。
けどこの娘は、最初から外観をただの飾りとして、人の内側を見ようとしている。文字どおり、見ている景色が、見えている世界が、他の中学生とは違うのかもしれない。
この歳で、もうすでに。
何だか彼女は、始めて優希姫と話したときを思い出させるな。
「先輩は、危険もかえりみず私を助けて下さいました。その心だけで、十分に先輩がどんな人なのか分かりますから」
「どうだろう。自分のことはよく分からんが、君の買い被りでないことを祈るよ」
「はい!」
勢いの良い返事が聞こえたところで僕の家が見えた。ちょうど別れ道で、彼女はそのまま真っ直ぐ行くようだ。
「じゃあ、僕の家はそこだから……」
「あ、そうでしたか………本当に近いんですね」
「ああ、じゃあな」
「はい、さようなら」
そう言って分かれたと思ったところで、後ろにある気配が動いていないことを不思議に思い、僕はもう一度振り返った。
「どうかしたか?」
「あ、いえ、あの、先輩、時々で良いので、また一緒に下校してもらえませんか?」
少し照れたような後輩の言葉に、断る理由は特になかった。
それ以来、僕の日常の中に家族や優希姫以外にもう一人、あの星河姫刹がよく加わるようになった。
クラスの女子からは「浮気だ」、「二股だ」、などと不本意なことをからかい混じりに言われたが、いったいどこを見ればそう思うのやら。
通学路が学校を挟んで真逆の優希姫と違って、姫刹は帰り道が僕と同じ。先の約束が無くても下校のときは大半が彼女と一緒になるのだ。大体は生徒玄関を出る辺りで会うのだが、僕の家は元より学校から徒歩で五分程度。特に長話をする前に分かれてしまう。それでも彼女の方が早くにホームルームが終わったときは、先に帰らず玄関口で待っててくれる。なんか随分となつかれたらしい。年下ということもあり、妹みたいに思えば悪い気はしない。
まあ一応、彼女からすれば僕は命の恩人になる訳だからな。慕ってくれるなら拒絶する必要はないさ。
時々だが、学校帰りに優希姫と姫刹と僕の三人で図書館に行くこともあった。
何故か僕を間に挟んで歩く二人にはどこか距離を感じたが、普通に好きな本や勉強の話をしてるから仲が悪いことはないんだろう。たぶん。
登校は妹、学校では優希姫、下校は姫刹と、僕の隣は以前と違い必ず誰かがいるようになった気がする。
星河姫刹と知り合ってから二ヶ月が経った。
もう雪も溶けだし、そろそろ卒業式の予行練習に嫌気が差してきた在校生代表の僕は、さっさと代表挨拶の原稿を書き上げて先生にも早々にOKを貰ったまではいいが、その分何度も読む練習をさせられていた。
来年の卒業生代表挨拶は優希姫に任せよう。
そんなことを考えながら歩いていた、星河姫刹とのある帰り道のことだ。
「あ!」
「どうした?」
「猫ちゃんです!」
通学路の途中にある公園で三毛猫を見付けた姫刹は、興味深々で中に入って行ってしまった。
おいおい、そんなに勢いよく近付いたら驚いて逃げちまうぞ、と思っていたのだが、予想に反して猫は逃げず、それどころか姫刹に撫でられながら気持ち良さそうにしていた。
人懐っこい猫なのか?
と端で見ていたら、
「ねぇ、羽川先輩」
姫刹がこちらを見て話しかけてきた。
最近は堅苦しい様子もなく、割りと砕けた感じで姫刹と話すようになったが、流石に先輩付けはされている。
「実は私、猫と話せるんですよ?」
「…………は?」
いきなり何を言い出すんだよこいつは。
「あ、信じてませんね? 今この子はですね、お腹が空いたと言ってます」
「そんな簡単なネゴシエーションを猫と話せるって言うか? 野良猫なら大概は腹減ってると思うぞ」
「あ、いえ、この子は野良猫じゃありませんよ?」
言いながら姫刹は公園横の家の一つを指差した。
「あの田中さん宅の飼い猫です」
「………なんだ姫刹、地区が違うのにそんなこと知ってるのか?」
姫刹は僕と通学路は同じだが、もっと離れた地区に住んでたはずだ。
「猫さんが教えてくれたんです。名前はレオで、雄猫ですね」
誰かが飼ってることくらいは近付いて見えた首輪で分かったが、名前や雄か雌かなんて撫でただけで分かるか?
「彼女の言ってることは間違ってないよ少年」
すると視線をこちらに向けた猫が、僕に語りかけてきた。
最近は図書館にどら猫爺さんが来なくなって忘れてたが、僕も動物と話すことは出来る。
けど、まさかな。
とか思ってると、
「私の名前はレオ。そこの田中家で飼われている三毛猫だ」
当の三毛猫から思わぬ自己紹介を受けた。
「ほら、レオ君が先輩にも自己紹介してますよ?」
どうやら本当に姫刹にも聞こえているらしい。
凄いな、人間で動物と話せるとは。
前にテレビでもやってて何人かそういう人がいるのは知ってたが、まさかこんな身近にいるとはね。
とはいえ、
「猫と喋るより英単語の一つでも覚えろよ? もうすぐ期末テストなんだし」
「うぅ、そうでした。っていうか軽く流しましたね!? 私の数少ない特技なのに!?」
「あんま役に立たなそうな特技だな」
「………えぇ、そんな身も蓋もないないこと言わないでくださいよ~!」
このときの僕は、そんな他愛もない会話が持っていた意味を、深く理解しようと思わなかった。
満月の輝く三月の夜。
僕と優希姫は久し振りに、二人で散歩に出ていた。
「桜、咲かないね………」
「まだ早いだろ。雪も残ってるしな……」
三月上旬。
この地域ならむしろまだ雪が降ってもおかしくない時期だ。
「そんなに桜が待ち遠しいか?」
城のすぐ下の通りを並んで歩く僕たち。優希姫の視線は、まだ花のない木々に向けられている。
「相変わらず、桜が好きみたいだな………」
「うん。夕月も好きでしょ? 毎年よく見に来てたし」
「まあね。大概は君に引っ張られる形だったけど」
「だって夕月、夜以外は積極的に外に出ないし」
「人混みは好きじゃないからな。花見時期の昼間の城は、とても歩けたもんじゃない」
「桜は昼に元気な姿でいるのが一番輝いてるんだよ?」
「よく言うよ。夜に桜を見たいがために家を抜け出してたくせに………」
「夜も充分、綺麗だからね」
そう言いながらいつもの笑顔を見せる優希姫。
「そういえば、夕月と始めて話したのも桜の季節だったね」
「ああ、城の本丸の前にある桜の木の所でな」
「そうそう、しかも夜に。あのときは何で小学生が真夜中に出歩いてるのかと思ったよ」
「お互い様だ」
「アハハ、そうだね」
優希姫は笑ってはいるものの、今にして思えば結構ヤンチャなことをしていたのではないだろうか。
小学生が真夜中に無断で出歩いてるなんて、下手したら警察沙汰だ。補導されても文句は言えない。
「でもそこからだよね、夕月とよく話すようになったの」
「そう、だな」
あの日から、優希姫と話したあのときから、僕の全てが変わっていった。
彼女と出会えて本当に良かったと、僕は心からそう思えるまでに。
「夕月と始めて会ってから、もうすぐ四年になるんだね」
早いなぁ、と優希姫は感慨深げだが、僕にはむしろ長かったように感じる。
たった四年。たったそれだけを、こんなにも長く感じたことはない。
願わくばこんな日々が………、
「こんな日々が、ずっと続けば良いのにね」
思っていたことがそのまま優希姫の口から出てきたので、僕は驚いて足を止めてしまった。
数歩先で、優希姫も止まる。
「ずっと、いつまでも…………」
どこか儚げに言葉を紡ぐ彼女の背中を、僕は見詰め続ける。
いつまでも、か。
昔のあの永遠とも呼べる日々は苦痛でしかなかったが、今は、そうだな。
ああ、本当に、そう思うよ。
「でも、最近の夕月はあの後輩ちゃんとよく一緒にいるみたいだし、いつまでも、って訳にはいかないのかなぁ。ねぇ、二股の夕月君?」
真剣味を帯びた話から一転して軽い口調になった優希姫は、いたずらっ子のような顔をこっちに振り向かせてきた。
…………全く、人がせっかく真面目に返そうとしてたってのに。四年近くも一緒にいるが、まだまだこいつのことは掴めないな。
それより、
「何をどう見れば二股だよ。姫刹とは帰り道が同じなだけ、学校で四六時中一緒にいる優希姫に気があると思われるなら納得するが、姫刹と二股なんてありえないだろ」
「え、あ、そ、そっか………」
何だか凄く意外な顔が見れた気がする。
照れて頬を染める優希姫なんて、出会って以来始めてかもしれない。
「何で今さら照れてんだよ。恋愛云々で僕と君がからかわれるなんて、小学生の頃からだろ」
「そ、そうだね………」
何故に目を逸らす?
本当に今さらな話だ。小学五年の春からずっと一緒にいたんだから、周りからの冷やかしなんてのは散々と言われてきた。思春期間近の小学生なんてのはそんなもんだからな。
「まあ、心配するなよ。君が離れていかない限り、僕は一緒にいるつもりだから」
僕の言葉を聞いた優希姫は、一瞬ポカンとした顔になったかと思ったら、小さな笑みを溢した。
「ふふ、何それ、相変わらず分かりにくいね、夕月は…………」
自覚はしてる。それに我ながら恥ずかしいことを言った気がするな。
始めての感覚だ。照れくさいなんて。
それでも、
「言いたいことは言ったつもりだ」
「うん。でも私が夕月に言いたいことを言うのは、もうちょっとだけ後にしようかな」
優希姫の言葉は少し意外だった。
先延ばしにすることがではなく、先延ばしにしながらも自分の言いたいことを言ってくれることに。
正直、かわされるかと思ったんだがな。
「春になって、桜が咲いたら、ちゃんと言うよ」
そう言って、優希姫はいまだ花を開くことのない桜の木に目をやった。つられて僕も同じように桜の木を見据える。
「夕月……」
「なんだ?」
優希姫は言う。
「桜、今年も一緒に見に来ようね」
僕は四年前、彼女から「私と友達になってよ」と言われたときと全く同じ、
「ああ………」
という簡素な、それでもハッキリとした了承で答えた。
◆ ◆ ◆
その日は、何でもない平日だった。
本当に何でもない、有りがちな日常だった。
普通に授業を受けて。
普通に休み時間を過ごして。
普通に昼食を食べて。
いつも通りに優希姫は僕の隣にいて。
当たり前で、大切な時間が流れていた。
その日の放課後もまた、特に変わったこともなく。ホームルームが終わって下校時刻になると、僕は優希姫と教室を出た。
「夕月、卒業式の在校生代表挨拶の練習はもういいの?」
「もう飽きるほど自分が書いた原稿を読んだからな。先生たちのOKも貰ったし、良いだろ」
「アハハ、でも夕月が代表挨拶なんて、先生たちの評判かなり良くなったよね。小学生の頃は不良扱いだったのに」
「古い話を思い出させるな。第一、小学生の頃だって悪いことしてた訳じゃない」
「そうだね。不良というより、暴君だったし」
「うるせ」
そっぽを向いた先の窓の外には、グラウンドでは野球部とサッカー部の部員が練習の準備を始めている。
そういえば僕も優希姫も、バイオリンは習っているが部活には入っていない。
僕はこんなだから部活という集団行動や縦社会には向いてないとして、優希姫は僕と友達になってからもクラスで皆に好かれる人気者だ。勉強も運動も出来て、集団に入ればその力を存分に発揮できるだろうに。
「なぁ、優希姫は何で部活に入らなかったんだ?」
気になって訊ねてみると、彼女はちょっと困ったように口を開いた。
「うーん、家のことがいろいろとね。こう見えて忙しいときもあるし」
「ほー」
まあ、あんなに立派な家ならな。
家族が良い人たちなのは知ってるが、少々堅苦しい家柄なのかもしれない。裕福な家庭ならではの事情というやつか。
そういえば、優希姫が夜の散歩に出るようになったのも、窮屈な世界から出たくなるとかいう理由だったしな。案外、家のことで悩んでることも多いんだろう。
そう結論付けていると、
「あ、せんぱーい!」
近頃よく聞くようになった声に呼ばれた。
今日は珍しく姫刹が生徒玄関ではなく渡り廊下の所で待っていたようで、僕たちを見つけるやいなや、こっちに向かって駆けてきた。
おい、廊下は走るなよ。
呆れながら駆けてくる姫刹を見ていたそのときだ。
姫刹目掛けて、野球ボールが窓ガラスを割って飛び込んできた。
「きゃあ!!」
悲鳴が上がる。
「姫刹!!」
「星河さん!」
僕と優希姫は慌ててしゃがみこんだ彼女に駆け寄った。
余程ボールの勢いが強かったのか、窓ガラスは派手に割れていた。
幸い野球ボールは姫刹に当たらなかったようだが、彼女の手足は割れたガラスによって切り傷が出来ていた。
けど良かった、深くはない。血が滲んでるが、大した怪我じゃな…………い?
「………………え?」
僕は目を見開いた。
さっきついたばかりの切り傷が、次の瞬間には消えていたからだ。
本当に、跡形もなく。
これは、まさか………、
「星河さん、大丈夫?」
と、背後から聞こえた優希姫の声に、僕の意識は思考の海から現実に戻ってきた。
「怪我はないみたいだな。立てるか、姫刹?」
「は、はい、大丈夫です」
僕は姫刹の手を引いてゆっくりと立ち上がらせる。
彼女の顔色は青い。
それは果たして、ガラスを割って目の前を掠めた野球ボールのせいだろうか。
それとも、別の何か。
あの瞬間、近寄ってきた僕が傷口をハッキリと見たことは、姫刹にも分かったはずだ。
だとしたら、彼女が青ざめているのは先の危険ではなく…………、
「ねぇ、夕月……星河さん本当に大丈夫なの? 顔真っ青だけど、保健室連れてった方が………」
「あ、ああ、いや、もう放課後だし、僕が家まで送って行くよ」
どうやら優希姫には見られなかったようだが、ややこしくなる前にこの場を後にした方が良いだろうな。
その帰り道、姫刹は黙ったまま、一言も口を開くことはなかった。
いつも明るい彼女のその様子は、余程のショックを受けているみたいだ。
さて、どうする?
あの一瞬で消えた傷。
まるで僕と同じだ。
訊くべきか? それとも僕から言うべきか?
いや、どちらにせよ今じゃないな。
結局、下校中に僕と姫刹は一言も喋らず、彼女を家に送り届けて僕もそのまま家に帰った。
そして、その日の夜。
時刻は午後十一時を回った頃だ。
僕は中学のグラウンドにいた。
再度確認と、携帯端末を開いてメッセージを見る。
『分かりました』
と一言だけ書かれた画面。
僕が送ったメッセージに了承してくれたなら、来てくれるはずだ。
目を閉じて、周りの物音に耳を澄ませる。
「お待たせしました」
そして、その声は聞こえた。
すぅ、と彼女は夜の闇の中からゆっくりと歩いてやってきた。
「いや、こっちこそ呼び出してすまない、姫刹………」
彼女、星河姫刹はいつもの明るさが身を潜め、暗い闇を宿した瞳を真っ直ぐにこちらへ向けている。
「呼び出された理由は分かっています。放課後の件ですよね?」
「ああ、あのとき、君は確かにガラスの破片で切り傷を負っていた。それが………」
「一瞬で跡形もなく消えた」
僕の言葉を先読みした姫刹が言った。もう隠す気はないようだな。
「それはそうですよ」
そして、星河姫刹は眼鏡を外し、自身の胸に手を当て、ハッキリと名乗る。
「私は吸血鬼。再生能力を持った不死の生物ですからね」
その人ならざる生き物の名を。
同時に黒だったはずの姫刹の髪が青白く染まり、黒い瞳は真紅に輝いた。
「………吸、血鬼?」
僕は思わず呟いていた。
その生物を、僕は知っているからだ。
あの世界、昔の僕が見てきた世界にも存在していた。
人々に恐れられ、最強の魔物とまで言われた怪物。不死身の化け物。伝説の鬼。僕も噂で聞いたことはあったが、会ったことはなかった。まさかこの現代で、この姿で、目にすることが出来るとは。
「信じられませんか?」
僕の姿を動揺してると思ったのか、姫刹はそう問いかけてくる。
「あ、いや………」
言葉を返す前に、姫刹は目の前から消えた。まるで霧のように。
まさか………、いや間違いない。これは吸血鬼の能力の一つ。
「霧化?」
「正解です。よくご存じですね」
その声は僕の後ろから聞こえた。
慌てて振り向くと、元の実体を持った姿で姫刹はそこに立っている。
「なるほど、どうやら本物らしいな。それで? 吸血鬼といえばもう一つ、人の血を食事とする能力があったはずだが………」
「確かに生き血は我々の好物ではありますが、それが全てじゃありません。普通に人と同じ食事を摂り、日射しを毛嫌いするなんてこともない」
姫刹はどこか悲しげな表情で語る。
「平凡な暮らし、平凡な人の中に溶け込む、化け物です」
それは、僕と全く同じだ。同じ在り方だ。
「私は、平凡な暮らしを望んでいます。普通に人間として、人間と同じように、この世界で生きていたいんです」
僕と全く同じ考えと、思いで彼女は生きている。
「お願いします、先輩。誰にも、人間たちには誰にも危害は加えません。どうかこのことは秘密にしてもらえないでしょうか?」
深く頭を下げる彼女は、いつかの交通事故から助けたときと重なる。
彼女が吸血鬼だったなら、あの程度のことで死にはしない。実際、トラックに轢かれても平然と生きていられただろう。
なら僕がやったことは、ただの大きなお世話というやつだったはずだ。
だが、彼女は僕に礼を言いにきた。あの事故のすぐ翌日にだ。
自分が不死身だから、死なないから、そういうことではなく、彼女はちゃんと人間として、助けられた命に感謝を述べた。
ああ、そうか。
これが、僕のあるべき姿だったんだ。
不死身を過信して人を助ける、それがただの人間なら、命を捨ててでも人を助けるに変わる。
僕は不死身だから動けたのか?
正直それはどうでも良い。ただ間違いなく、不死身であることに少なからず頼っていたんだ。
あのとき、僕は命ではなく、人であることを捨てていた。
自分が望み、生きることを選んだ道を投げ出した。
だが彼女はどうだ。
無意識に発動する再生能力は仕方ないとして、彼女は自分をたった一つの命しかない人間として生きている。
それが如何に大切なことなのか、僕は分かろうとして、分かっていなかった。
人の命の大切さを、理解出来ていなかった。
どうやら彼女に教えられたらしい。
その大切さとやらを。
なら僕も、隠すことなく話すべきだろう。
「分かった。君が吸血鬼であることは黙っている」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、それと、君に聞いてもらいたいことがある」
「……………聞いてもらいたいこと?」
「そうだ。僕は………」
と続けようとしたところで、
ヒュン!
風を切り裂くような音がグラウンドに響き渡り、星河姫刹の左腕から赤い鮮血が舞った。
「うっあぁぁぁ!」
倒れ込み激痛を訴える姫刹の叫び声が上がる。
「姫刹!?」
何だ、今のは?
光の矢みたいなものが、姫刹を射った。
「誰だ!?」
僕は光が飛んできた方に向けて叫んだ。
姫刹の傷はすでに塞がっているが、痛みは残っているのかまだ動けないでいる。彼女を庇うように立った僕は、暗闇の中の気配を探る。
誰だ。誰が姫刹を射った。
慎重に警戒を高めていく僕とは対象に、彼女はあまりにも無造作に真っ正面から堂々と現れた。
「…………放課後のあのときに見せた再生能力。やっぱり、あなたは吸血鬼だったみたいだね」
「君は………」
闇の中でも月明かりに輝く黒く長い髪を靡かせて、彼女―――赤城優希姫はそこに降り立つ。
左手に握った銀の弓を、星河姫刹に向けながら。
「私は魔物退治を生業にする神の使徒・天使の一族、赤城家の優希姫。伝説にして最強の魔物―――吸血鬼・星河姫刹を討伐するために来たの」
「何を、言っている………優希姫………」
僕の思考は真っ白になっていた。
「魔物は神の敵。それが誰であろうと」
何故、優希姫が………。
「夕月、例えあなたの後輩だったとしても、相手が魔物である限り私は討伐する」
いつもの優希姫じゃない。
この冷たく突き刺すような威圧感。
「どきなさい、夕月……」
その口調さえも、僕には別人に思えた。
僕は生まれて始めて恐怖という感情をこの身に感じることとなった。
他ならぬ親友の、殺意によって。
何でもない平日だった。
本当に何でもない平日だった。
それなのに、どうして………、
「どうしてだ!?」
誰に向けた言葉だったのか、僕にも分からない。
ただ運命を呪うように、僕は叫んだ。