承
僕の始めての友人との出会いは、五年生の時に遡る。
あのデカブツの一件以来、僕の周りからの認識は完全に触らぬ神状態になった。
…………………何か前世と変わってないな。
というのも、生来の金髪もあって小学生だというのに所謂不良的な扱いで、ただでさえ誰もいなかった周囲がますます風通しのいいものになっているのだ。
まあ、本読むのに集中できれば、僕は何でも良いのだけど。
そのまま一年は特に変わったこともなく、五年に上がる際のクラス替えでようやく同級生の彼女の存在を知った。
赤城優希姫。
黒髪黒眼。長い髪の毛先を後ろで束ねた綺麗な容姿の女子生徒。
いつもクラスの中心にいて、活発そうな笑顔を浮かべている。
あのデカブツとは違った意味で目立っていて、何かとよく視界に入ってきた。
人気者、というやつだろうか。
僕がよく読んでいる物語小説の主人公のような娘だ。
あの娘が主人公なら僕は名前も出ないクラスメイトかな。あ、違うか、僕はあくまでも読者にしかならなそうだ。
なんて客観的な感想を浮かべていると、人の中にいたその彼女と目があった。
視線くらいすぐに外れるだろうと思っていたが、他のクラスメイトと違い怯えるでも逸らすでもなく、にこりと笑みを向けてきた。
近頃は小説だけでなく現実の人間にも面白さを見るようになっていた僕は、人間観察をすることも増えていた。
いろんなことを本から学んでいくうちに、人間というものに自然と興味が出てきたのだ。
こんな面白さを与えてくれる物を生む、人間という生き物に。
とはいえ、僕は自分で言うのもなんだが、クラス替えをしたこの教室でもすでにかなり浮いている。というか先も述べた通り、風通しがよすぎるくらいに敬遠されている。
嫌われている、というより、完全に畏怖の対象らしい。よって、誰かと目が合うことはないし、合ったとしても怖がって一瞬で逸らされる。
正直、笑みを返してきたやつは始めてだ。
僕の記憶上、あの娘とは話したこともなかったはずだが。
今までクラスが違ったから、僕のこともよく知らないだけかな。怖がらないのは。
まあだからと言って、仲良くしようとは思わないけど。僕から話しかけることはないし、向こうもわざわざこんな悪目立ちしてるような奴と喋ろうとは思わないだろうな。
放課後。
学校の図書室にある本はあらかた読んでしまったので、僕は学校帰りに町の図書館の方へ足を向けていた。
割りと田舎なこの町は、町のど真ん中に建つ城以外は特に特出するもののない地域だった。
ど田舎とまではいかない田舎であるため車が無ければほとんど何処にも行けない。ちなみにバスターミナルはあるがバスが出るのは一時間に一回だ。
だから町の住民、というか県に住む大半の大人は車を持っている。故に田舎だというのに、外を歩けば排気ガスや車の走行する音が多くて、あまり静かとはいえない地域だ。
まあ、夜は逆に開いてる店がコンビニくらいで、恐ろしいほど静かなのだが。
それはさておき町の図書館だが、学校から徒歩で十五分ほどの距離にある。
町の中心。城のすぐ近くだ。
四月の半ば、城の近くに盛大に咲いた桜を眺めながら、僕はその道を歩く。
綺麗な景色だ。城に続く歩道の通りに何十本と植えられた桜の木。たまに吹く弱い風に乗って、花びらがあちこちに舞う。
毎年春になると必ず花見にくる人々で賑わうここは、平日の夕暮れ前にも関わらず多くの歩行者が流れていた。
そうやって夜になれば、ライトアップされた城と共に桜の花も色鮮やかな輝きを撒き散らし、昼間とは違った美しさを見せてくれるだろう。
毎年の春に、夜の空中からそれを見るのが僕の楽しみな恒例行事の一つだ。
まあそれにしても、
「桜祭も終わったのに、相変わらずここは人が多いな…………」
学校帰りの中学生や高校生、近所に住んでるらしい老人たちだけでなく、普通に大人も多い。果たして仕事をしてるのだろうか、とかいうと平日休みの人とか夜勤の人とか変則勤務してる人とかその他モロモロに失礼なので心の中にしまっておく。
まあ今日の僕の目的は花見じゃないし、さっさと素通りして図書館に行くとしよう。
人が多いとはいえ、所詮は田舎。街を歩けば人に当たる都会と違って、避けるまでもなく人波を抜けていく。
「あれ? 羽川くん?」
そんな声とすれ違ったが、たぶん気のせいだろう。街中で僕に声掛けてくる人間なんてこの世界にいる訳ないし。
街の図書館とはいえ、いうほど大きなところじゃない。
十台ほど止まれる駐車場とこじんまりした駐輪場にポツポツとある車両を見るに、今日もあまり人がいる様子はないな。
夏休みなら学生たちが多く出入りするんだが、平日だとこんなもんだろう。
「おや、夕月か。また本を借りに来たのか?」
出入口に差し掛かったところで初老の男性の声に呼び止められた。
ああ、この爺さんまたいるのか。
「ああ、爺さんは何してんだ? こんな図書館の出入口で?」
「今日は日和が良かったのでなぁ。散歩がてらここまで花見をしに来ていた。今は休憩中だ」
「そうかい………あんまり出入口をうろちょろして、他の利用者の邪魔はするなよ」
「それくらいは心得てるつもりだ。ところで、この前にくれた煮干しはなかなかに旨いものだった」
「給食で出た残りだけどな」
「良ければまた持ってきてはくれないだろうか?」
「まあ、機会があったらな」
「楽しみにしている。呼び止めてすまなかったな。私はそろそろおいとましよう」
そういうと爺さんは寝そべっていた身体を起こし、一つ伸びをして図書館の出入口の屋根づたいに歩いていった。
歳の割りに元気の良い猫だな。
僕は人間には話しかけられないが、猫には話しかけられる。元が不死鳥とはいえ、他の動物言葉も理解できるとは思わなかったな。前世では魔物以外に会ったことなかったし。
爺さん、もといどら猫の後ろ姿は身軽に飛び回っていて、とても年寄りとは思えない足取りで去っていく。
屋根の上で日向ぼっこか。野良猫は自由で良いもんだな。まあ、昔の僕も似たようなもんだったけど。
取りあえず、ようやく図書館に入れそうだ。さっさと借りるもの借りて、家に帰って読むとしよう。
◆ ◆ ◆
十冊ほどの本を借りて家に帰る頃には午後六時を回っていた。辺りはもうかなり暗い。
共働きの両親はまだ帰っていないようだ。
家にいるのは小学三年生の妹のみ。
ガチャン、と扉を閉める音で両親が帰って来たと思ったのか、パタパタと奥から妹が出てきた。
「おかえりなさい!」
元気の良い声でそう言ったのは、羽川峰月。
僕と全く似ていない妹。
黒髪黒眼。おさげにした髪を揺らして駆けてきた峰月は、帰って来たのが両親でなく僕だと分かると、あからさまにビクッと身体を強張らせた。恐がっているのが目に見えているな。
「お、お兄ちゃん、だったんだ………おかえりなさい」
「ああ……」
それだけ言うと、僕は妹の横を通り過ぎていく。
「あ、あの、お兄ちゃん……」
「…………何だ?」
「えっと、その………」
呼ばれて足を止めてみたが、峰月が何かを言う様子はない。
「何もないなら、僕は部屋に戻る………」
「あ………」
家庭崩壊の一番の原因はコミュニケーション不足だと前に何かの本で読んだことがある。
まあ、どうでもいいことだが。
帰宅後、僕はすぐに自分の部屋で本を読み始めた。
今日借りてきたばかりの本を時間も忘れて永遠と熟読していく。ちなみに最近のブームは北欧神話だ。
分厚い本を一冊読み終わったところで時刻は午後七時半。我ながら集中して読むと早いものだ。
そんなことを思っていると、扉の外に気配を感じた。
足音から察するに母さんだろう。
気配が完全に去ったのを待ってから、僕は部屋の扉を開けた。
お盆に乗せられた夕食がラップをして扉の横に置かれている。いつも通りだ。元より食事を必要としない僕は、いつからか家族が一同に介する食事の場にも出なくなった。とはいえ、食事を摂らなければあからさまに不自然だし、食事の席に行かずともこうやって用意して持ってきてくれるのだから、一応は食べるようにしている。
食事、か。
正直、昔は考えたこともなかったな。
食べずとも生きていけるんだ。食べようとも食べたいとも思う訳もない。
綺麗に食べ終わった後の食器を、部屋の外に出しておく。しばらくすれば、母さんが取りに来るだろう。
僕も食事事態は嫌いではない。美味な料理を食すのはなかなかに満たされるものはあるが、何かと習慣にしてなかったことというのは面倒さが勝る。何億年もしてなかったことを、たった十数年程度ではあまり慣れるものじゃなかった。僕はまだ手間を惜しんで美味しいものを食べる境地には至っていないようだ。
午後十一時。もう夜も大分ふけてきた。
最近では本を読むのがやたらと早くなってしまったせいか、もう借りてきた本の半分を読み終えていた。今度借りるときはもっと多目にしとこう。
さて、少し早いけど、今日もまた夜の散歩に行きますかね。
部屋の鍵をかけ、常備してあるスニーカーを手にとると、灯りを消してガラス戸からベランダに出た。
辺りを見回す。
本当にここら辺はこの時間になると静まりかえるな。人も全く歩いていないし。なんなら街灯もポツンポツンとしかなくて、住宅地全体を見てもほとんど明かりがない。
まあだからといってこの時間にここから飛び立つと誰が見てるか分からないから、いったんは下に降りる訳だが。
後ろ手にガラス戸を閉めてからスニーカーを履く。僕はベランダの手すりに手を掛け、一気に飛び越えた。
飛ぶのとは真逆の落ちる浮遊感を感じながら、二階からそのままふわりと地面に降り立つ。
よし。じゃ、行くかな。
トコトコ、と夜の街を歩き出す。
四月の半ばの夜風はまだ少し冷たい。といっても僕は暑い寒いの感覚は分かってもそれを苦に感じないからあまり関係ないのだが。
「もう少ししたら、桜も散るな……」
近所の公園の桜は、もう大分寂しくなっていた。
世界の景色は止めどなく変わっていく。同じように見えても、本当に同じ景色は二度とない。何億という時の中で変わり続ける世界を見るのは、僕にとって当たり前だったはずなのに。
たかが数年、数ヶ月の変化が、今はどこか儚くて、心に微かな寂しさを与えてくる。
歩いていると、空にいるときとは違った景色が見えてくる。これもまたその一つなんだろうな。
せっかくだ。このまま城の方まで歩いてみるか。
近頃は徒歩の散歩もなかなかに楽しい。いや、本来散歩は歩くものだが、前世では移動イコール飛行だったからな。最初は遅いし面倒だとも思っていたが、こうして地上をゆったりと移動するのも良いもんだ。
見てくれはただの金髪小学生だから、夜にあんまり堂々と歩いてたら補導されそうだけど。
車通りのない夜の道を渡り、そのまま徒歩で城まで着いた。
今日のライトアップの色は紫か。
遠目からでも見えていたが、近くで見ると桜の木もあってとても幻想的に輝いている。
多少は人がいると思っていたが、平日のこの時間はさすがに誰もいないな。
僕は城の塀に作られた登り坂を歩いていく。
日本の古き遺産。
僕が生きてきた時間に比べれば大した年月じゃないが、人間というあまりにも脆く儚い生き物が積み上げてきた歴史の一端と思えば、それもまた感慨深いものがあるな。
じじくさいが、実際に年寄りみたいなもんなんだから、仕方ない。うん、仕方ない。
坂を登りきったところで、僕は思わず足を止めてしまった。
誰かいる。
本丸のすぐ横。あの桜の木の下に、誰か。
小さな人影だ。
………………子供か?
視力を人間モードから不死鳥モードに切り替えると、その姿を容易に捉えることが出来る。
月明かりとライトアップされた城の光に照らされて、散っていく桜の花びらの中に彼女はいた。
あれは、赤城…………赤城優希姫?
よりにもよって同級生、しかも同じクラスのやつかよ。
というか、こんな時間に、こんな場所で、小学生がいったい何してんだ。人のことは言えんが………。
「………え? 羽川くん?」
おっと、気づかれたか。
「どうも、君は確か、赤城優希姫だよな……」
「あ、名前覚えててくれてたんだ」
「まあ、同じクラスだしな」
「ふーん、ちょっと驚いたかも。羽川くん、他の人のこととか無関心そうなのに」
「まあ、クラスのやつの名前くらいは知ってるよ」
実のところ人間に興味を持ち始めたのは最近で、それまでのクラスメイトの名前はまるで覚えてないが。
「それで、羽川くんはこんなところで何してるの? しかもこんな時間に……」
「人のこと言えた義理か………」
「あ、それもそうだね」
ふふっ、と屈託のない笑みをこぼす赤城。
「私はちょっと、桜を見に。夜だとライトアップされたこの城のおかげで、凄く綺麗に夜桜が見れるからね」
「ああ、僕も似たような理由だよ………」
「羽川くん、家がここの近所なの?」
「いや、僕らの小学校のすぐそばだから、ここから歩きだと少し遠いな」
「そっか、ここの地区だと小学校が変わっちゃうもんね」
「そういう君は?」
「私は割りと近いよ。お城のすぐ下。ちょうど小学校と小学校の間なんだよね」
「いくら近くても小学生がこんな時間に出歩いたら、親が心配するもんじゃないのか?」
「そっかな。じゃあ家が遠い羽川くんはもっと親に心配掛けちゃうね」
この小娘………揚げ足取りやがって。
まあそもそも僕が親の心を知った口を聞くこと事態間違いか。
と考えてたところで、赤城が更に言葉を繋げる。
「なんてね。親には言ってないの。内緒で抜け出して来ちゃった。だから心配はかけてません。部屋で寝てると思われてるから……」
「知らぬが仏とはよく言ったものだな、昔の人間は得てして面白い言葉を思い付くと思っていたが。それでも知られたら大事になるだろ」
「大丈夫だって、部屋に鍵かけてるし。いないのなんてバレないよ」
「真面目で優等生っぽいやつだと思っていたが、案外ヤンチャなんだな」
「真面目な優等生だよ。だからどきどき、こうやって窮屈な世界から出たくなるんだよね」
その歳でいったい何を言ってるのやら。
「………………君、本当に小学生か?」
「羽川くんが言うことじゃないでしょ?」
これまた全くその通りで、まさに返す言葉もなかった。
「羽川くんは?」
「何が?」
「親にちゃんと言って出てきたの?」
「まさか、そもそもここ二、三年、父さんとも母さんともまともに口なんてきいてないよ」
そう言った瞬間、彼女の表情が曇った気がした。
「仲、悪いの?」
問われて考えてみるが、仲が悪いというよりは、
「いや、良いも悪いもなく疎遠だな。干渉してない、って感じだ」
「ご飯とかは?」
「いつも部屋の前に置かれてるよ」
改めて思うが、本当にほっとかれてるよな。まあ自業自得だし、気にもしていないが。
だが僕の返答に、赤城は今度は少しだけ柔らかい表情に変わった。
「何だ。良かった。ちゃんと気にかけられてるじゃん」
「どこがだよ?」
「本当に気にしてないなら、食事の用意も、何もしてくれないでしょ?」
「さあ、どうだろうな………」
親の子に対する義務だけでやっているような気もするが。
「当たり前のことを当たり前だって思っちゃダメだよ?」
だが赤城はどこか嗜める口振りで僕に言った。
「家にいて、ご飯を作ってくれて、学校に行ける。親の義務って言っちゃうのは簡単だけど、義務を守れるのはちゃんと羽川くんのことを大事にしてるからだと思うよ?」
ふん、まさかこんな小娘に説教をされるとはな。
しかし考えてもみなかったかもしれない。親がこんな不気味な存在である僕を大事にしてる、なんて。
僕にしてみれば目の前のこの小娘も、両親も、似たような子供でしかないんだ。だから、だからだろう。目を開けてしっかりと見ていなかったのは両親じゃなくて、僕の方だったのも、よく知っていた。
「本当に小学生とは思えないな、君は………」
彼女はよく出来た賢い娘だ。この歳で、もういろんな事が見えている。見えすぎている。その反動が、この夜の徘徊と言うわけか。
先程と同じ僕の言葉に今度は苦笑いで誤魔化した赤城が、話を変えようと口を開いた。
「でも本当に意外だよ。羽川くんがこんなに喋ってくれるとは思わなかったなぁ。夕方この下で声かけたときは全く反応してくれなかったのに」
「ああ、なんか呼ばれた気がしていたけど君だったのか」
「うん、放課後もここに桜を見に来てたからね」
「スルーしたのはすまない。でも意外と言うなら、君が僕に声をかけてきたことの方だろ。今まで全く接点もなかったよな」
「そうだね。今年に入るまでクラスも同じになったことないし、でも私は噂で聞いて知ってたよ、羽川くんのこと」
「まあ、僕は悪目立ちしてるらしいからな」
「アハハ、否定はしないかも! 金髪不良の怖い人とか、私の友達もよく言ってたよ」
「不良じゃないし、金髪は地毛だ」
「あ、やっぱりそうなんだ。もしかしてハーフとか?」
「さぁ、どうだろうな………」
下手に答えられず曖昧な返しをする僕に、赤城はそれ以上は聞いてこなかった。
その代わりに、
「でも良かった。思った通り、怖い人でも悪い人でもなさそう」
なんてことを言ってきた。
「なんでそう思う?」
「話してれば分かるよ。ちょっと冷たいけど、怖い感じじゃないし」
「どうだろうな………」
会話に間が出来たところで、赤城がポケットから携帯端末を出して時間を見る。
「あ、もうこんな時間! そろそろ帰るね」
「ああ………」
そろそろ午前一時を回った頃だろうな。
さすがに赤城もこれ以上出歩かない、という時間概念はあるらしい。
「じゃあ、また明日学校でね」
「学校では話さないだろ」
「そっかな。んー、なら私から話しかけに行くよ」
「やめとけ、君まで周りに煙たがれるぞ」
「いやー、それより羽川くんと話してる方が面白そうだし」
「………………まあ、読書の邪魔をしない程度なら、な」
最近ではそこまで人嫌いという訳でもないし、むしろ人間と接するのも面白いかもしれないな。
実際、今日に赤城と合って、こんなに人と長く話をしたのは始めてだ。両親とも、こんなに話したことはないだろう。
「またね、羽川くん」
そう言いながら、赤城は坂を駆け気味に降りていった。
なんていうか、変わった娘だな。小学生とは思えん。
僕も、今日はもう帰るとするか。
結局、一度も空に上がらなかったが、たまにはそういう日もあって良いだろう。
またね、か……。
最後に言った彼女のなんてことない言葉は、何故か僕の胸に響いた。
◆ ◆ ◆
「おはよう、羽川くん!」
翌日の朝。
赤城優希姫はなんの嫌いもなく爽やかな笑顔で僕に挨拶を飛ばしてきた。
おいおい、周りの連中、驚いてる以上にかなりビビってるんだけど。誰かが僕に声掛けることがそんなに怖いか。
それはそれとして。
本当に話しかけて来たよこいつ。
思えば、まともな挨拶を受けるのは久しぶりのような気がする。
というより今日、両親や妹には「おはよう」と言われただろうか? 僕はそれすらも覚えていない。
「む、羽川くん、おはようは?」
「は?」
「お・は・よ・う、は?」
近い近い、何でそうも迫ってくる?
「お、おはよう……」
おされた訳じゃないが、思わず返してしまった。
よし、と言わんばかりに笑みを浮かべる赤城は「また後でね」っと自分の席に戻って行った。
流石は人気者。すぐに人に囲まれてやがる。
耳を澄ませば話し声は聞こえるだろうが、聞くまでもないな。
連中の顔が語っている。
心配と否定。
そんなとこだろうな。
朝のホームルームも終わり授業に入るが、今日は先日にやったテストの返却と解説。いつも以上に退屈な一日になりそうだな。
案の定、全部が100点で返ってきた僕の答案。こうなってしまうと解説される意味もないため、本当に暇な一日になってしまった。
「羽川くん、テストどうだった?」
すべての教科が返却された休み時間に、赤城がそう問い掛けてきた。
相変わらず周りがやたらと不安そうな顔で注目してくる。
「ん……」
僕は特に言葉を出さず、手元の答案だけを突き出した。
「うわっ! 羽川くん、全部100点!?」
「そう驚くことでもないだろ。小学生のテストだぞ」
「いや、不良のくせに頭良いんだなって思って」
「不良じゃねぇよ」
昨日は良い人とか言ってたのに、今日は普通に不良扱いかよ。まあ冗談なんだろうが。………冗談だよな?
「私、国語と社会は100点だったけど、理科と算数がね………」
「意外だな」
「むぅ、それ嫌味?」
「いや、本音だよ。純粋にそう思っただけだ」
優等生っぽい彼女のことだから、普通に全教科で満点を取ってると思ってた。
ちなみに僕が満点なのは当たり前だ。小学6年が1年のテスト受けてるようなもんだからな。実際にはそれより遥かな差があるけども。
赤城は相変わらず僕の答案を眺めている。
「字も綺麗。案外、真面目な優等生は羽川くんの方かもね」
「優秀なのと優等生は違うだろ。少なくとも、僕は真面目とは言えないしな」
「それは言えてる。授業も聞かずに本ばっか読んでるもんね」
……………バレてたのか。
どうりで担任から当てられる回数が多いわけだ。普通に注意せず分からないであろう問題を解かせようとするあたり、教師ってのも性格が悪いな。全問正解してやったけど。
「羽川くん、今日も図書館に行くの?」
赤城がそんなことを訊ねてきた。
「ああ、そのつもりだけど」
「じゃあ、私も一緒に行って良いかな?」
「は? 何しに?」
「羽川くんに勉強でも教えてもらおうと思ってね」
「図書館ってのは本を読むとこじゃないのか?」
「勉強も出来るよ。ほら、学習室とかあるでしょ?」
「あー、それ僕は知らないや。使ったことないし………」
「えー、夏休みになると課題する学生でいっぱいになるんだよ」
「…………んで? なんで僕が君に勉強を教えなきゃならないんだ?」
「テストで負けたのが悔しいから。いいじゃん、どうせ本読むならどこでも一緒だし、分からないところだけ質問するから羽川くんは本読んでてくれればいいし」
テストで負けた相手に教えを請うのか、負けず嫌い過ぎだろ。ある意味プライドもクソもないな。
けど、面白いな。勝負への執着、競争意識、これもまた人間の不思議か。昔から人間は争いの絶えない存在だったが、この世界の現代人にも紛れもなくその意識は受け継がれてきているようだ。
「読書の片手間でよければな」
気付けば僕はそう返していた。
すると赤城はにこりと笑って、
「ありがとう」
と、そう言った。
人から感謝の言葉を贈られたのは始めてだな。
今までは何に感謝して、誰を敬うべきなのか、それが理解できていなかったが。今は少しだけ、分かるようになってきた気がする。
放課後の図書館。生まれて始めての勉強会は、黙々と本を読む僕と黙々と宿題をする赤城が並んで座り、時折飛んでくる赤城の質問を僕が説明を入れて返すという繰り返しだった。
学校や昨日の夜のように、大した会話はない。
いつの間にか赤城が中学生用のテキストをやり始めたときには驚いたが、僕は一応大学までの学習は読書の合間に自主的にやっていたので分からない問題はなく、赤城の疑問にもすぐに解説入りで答えられた。
何だか彼女が悔しそうにしていたが、気のせいだろう。
その日の夜のことだ。
いつも通りに部屋で本を読んでいると、部屋の外に気配がした。
夕食の時間だ。
ふと、昨晩の赤城優希姫の言葉が頭をよぎった。
ちゃんと気にかけられてる、か。
本来、食事を必要としない僕は、元より食への感謝が薄かった。
手間をかけて作ってくれる夕食。そこに何も感じていなかったような気がする。
もし、本当に両親に気にかけられているなら。
僕は立ち去っていく足音が消える前に、部屋の扉を開けた。
ビクッ、と歩いていた母さんが足を止めた。
そして、僕は言う。
「ありがとう、母さん………」
振り向いた母さんは驚いた顔をしていたが、戸惑い混じりに「え、ええ、気にしないで」と言ったのを聞いて、僕は食事を手に部屋に戻った。
柄にもないことを言ってしまったかな。
まあ、いい。
変わっていく世界、変わらない自分。
もう飽きてきたところだ。
そろそろ、自分で何かを変えてみたいと思っても、いい頃合いじゃないだろうか。
また今日も、僕は深夜の散歩に出る。
普段は連日で同じ場所には行かないのだが、何となく今日もまた、この城にまで来てしまった。
「こんばんは、羽川くん」
予想に違わず、彼女がいる。
「こんばんは、赤城……」
ちゃんと挨拶を返して、僕たちはまたくだらない言葉を交わしていく。
日中の学校。放課後の図書館。夜の散歩。
代わり映えしなかった僕の日常のところ構わずにやってくる赤城に苦笑いを浮かべつつ、受け入れている自分に驚いた。
そうやって一年が過ぎた頃。
「ねぇ、夕月………私と友達になってよ」
六年に上がって間もなく。優希姫から出たその言葉に、僕は抵抗もなく普通に頷きで返すのだった。