4.虫かご
◇
屋敷の地下は温かみの一切ない空間だった。
狭い通路に鉄格子の檻が幾つか見える。何処かしらへと通じているような小さな木の扉があるほかは、用途を考えるだけでも恐ろしい鉄の扉で閉ざされた部屋しかない。檻はいくつもあって、動ける者もいれば動けない者もいる。集団で入れられている者もいれば、独りきりにされている者もいた。
ただ、共通していることは、皆、食虫花の隷属であるということくらいだろう。
その檻の内の一つに、あたしは入れられた。
そこには複数の人物が既にいた。皆、女性であり、胡蝶であった。あたしを檻に入れて去っていく鳳の姿を睨みつけて見送った後、各々が残されたあたしを興味深げに見つめてきた。掃除の行きとどかない汚らしい檻の中。薄汚れてはいても、皆、やっぱり胡蝶は胡蝶だ。若い者もいるが、食虫花と同じ年くらいのものまでいる。
その全ての視線を受けて暫く震えていると、ようやく一人が口を開いた。
「あんた、妾になってないじゃない」
月よりも少し年上くらいだろうか、この中で真ん中くらいの年齢に見える胡蝶があたしに向かってやや高圧的に話しかけてきた。
「どうして生かしてもらえてるんだい? 見た所、手足も無事のようだし……」
言われてみて初めて気付いた。此処にいる胡蝶達は皆、酷い傷を負っている。片足が無い者もいれば、手が無い者もいる。一見、酷い傷を負ってなさそうなものも、指を斬られていたり、はっきりと見えない場所に深手を負っていたり様々なようだ。
その中に放り込まれた生傷一つないあたしを見る目は、一層厳しいものになっていく。
「もしかして、君がお月様の妾だったりするの?」
同じ年くらいの胡蝶が控えめに訊ねてきた。その問いにも答えられず、俯いていると、数名があたしに近寄ってきた。
「ねえ、君は誰? 名前はあるの?」
「外の事を教えてよ。今、外はどうなっているの?」
「君はお月様の妾なの? だとしたら、食虫花様は戦いに勝ったの?」
「違う。月は負けてない」
堪え切れなくなって、あたしは思わず反論した。
喧嘩腰になってしまった為だろう。話しかけてきていた胡蝶達は一瞬だけ怯んだものの、すぐに鳳に向けていたのと同じような目をしてあたしを睨んだ。
「そう、やっぱり君はお月様の妾なんだ」
同じ年くらいの胡蝶がそう言った。
「名前は蝶。噂に聞いている。君が御城で可愛がられている間に、私達は此処で惨めに翅をもがれていたんだ。でも、もう君も私達と同じだね」
「同じ?」
問い返せば、やや年上の高圧的な胡蝶があたしを見下ろすようにして答えた。
「あんたも選択を迫られるってことさ。なんで、あんたが無傷なのかは知らないけれどさ、戦いが終わったら、あんたも早く隷属になったほうがいいってことだよ」
それはつまり、食虫花が月に勝つということだ。
あたしはすぐに否定した。
「月は負けない。この大地の女神なのよ。お日様だって見守っている。負けるはずがない」
腹立たしかった。
月が負ける事を前提に話しているこの人達の存在が、許せなかった。けれど、そんなあたしの姿を見て、食虫花の妾達はそれまでの態度からは一変して途端に悲しげな表情を見せてきたのだった。
「わたし達だって、前はそう思っていたわ」
そう言ったのは、檻の奥で震えている年下の胡蝶だった。きっと羽化したばかりなのだろう。同じく隅から此方を見守る年長者に宥められながら、彼女は懇願するような目であたしを見ていた。
「でも、目の前に死が迫ったら、こうならざるを得なかった。じゃあ、どうしたらいいの? 食虫花様は戦うのをやめてくれそうにない。唯一気に入られている鳳に説得させても無駄。じゃあ、どうしたらいいの? 食虫花様がお月様に殺されたら、わたし達だって死んでしまうのに、生きる希望を抱くなっていいたいの?」
泣きだしてしまう年少者を前に、あたしは口を噤むしかなかった。
そうだ。彼女たちとあたしは違う。彼女たちは食虫花の隷属。妾。口約束ではない魔術による契約は、ここまで深くて強固なものなのだ。その気配に怯えて、あたしだって絡新婦の誘いを断ったのではないか。
でも、彼女たちの自業自得だなんて思わない。だって、あたしだって多分同じだ。死の淵まで追い詰められれば、痛みに耐えられずに自ら隷属にしてくれと頼むことだってあり得る。そうでなかったのは運が良かったから。それだけなのだ。
年少の胡蝶のすすり泣く声が響くと、あたしを取り囲んでいた胡蝶達も表情を暗くして、各々別の場所へと引っ込んでしまった。皆、未来への希望が持てずにいる。仮に魔女と隷属の関係を解消する方法があったとしても、この身体では皆、厳しい月の森の世界で生きていくことは出来ないだろう。
だから、食虫花を信じるしかないというのに。
――ああ、月、どうしたらいいのだろう。
月に負けて欲しくない。食虫花に勝って欲しくない。
けれど、食虫花が枯れてしまえばこの檻の中にいる胡蝶達は皆死んでしまうのだ。そう聞かされて、どうして動揺しないでいられるだろう。
御免なさい、月。でも、あたしは思うのだ。彼女たちが死んでしまうのは心苦しい。傲慢かも知れないけれど、それでもやっぱり可哀そうだと思ってしまう。
「おいでなさい、蝶」
周囲が静かになってから、檻の隅でじっとしていた年長の胡蝶があたしを手招いた。それまでの厳しげな視線と打って変わって、何処までも落ち着いていて優しげな手招きに、あたしは躊躇いもなく従った。
年長者の胡蝶。年の頃は食虫花と同じくらい。その顔には傷はないけれど、袖の間から見える手は深い傷痕だらけだ。食虫花のように年齢を感じさせないということはないけれど、それでも中年まで生きた胡蝶らしく、傷の分を差し引いても年相応の美しさを持った容姿をしていた。
「気を悪くしないでね。此処にいる誰もが貴女に憧れているのよ。それに、誰だって死ぬのは怖い。本当は皆、分かってはいるのよ。どんな得体の知れない力を持っていても、魔女が女神に敵うはずがないって」
諦めを含んだその笑みが、あたしの身に沁みた。
「……貴女は?」
問いかけるあたしの視線を、年長の胡蝶は優しげに受け止める。
「私は浅葱。食虫花とは古くからの仲なの。蝙蝠よりも少しだけ長く彼女を知っているわ」
――蝙蝠よりも長く。
その言葉に、あたしは思わず喰いついた。浅葱と名乗る彼女が、あたしの脳裏に焼き付いていたある人物の印象と被ったのだ。それも、彼女だけは食虫花に敬称をつけなかった。その想いと気付きが確信として定まるより先に、あたしは思い切って訊ねていた。
「じゃあ、貴女は……食虫花の心に潜んでいる胡蝶の娘についてご存知ですか?」
気が急いたせいだろう。
思っていたよりも飾り気のないその問いに、浅葱と名乗った胡蝶は表情をやや強張らせた。この人はあたしよりも長く食虫花という人を知っている。その分、今のあたしの問いに引っかかる事柄を知らないというわけはないのだ。
鳳が知っている事なんて、彼女ならばとうに知っているだろう。
そして、その勘は当たっていた。
「ええ、知っているわ」
浅葱は素直に答えた。
しかし、その答えはあたしが薄っすらと予想していたものとは少しだけ違った。
「その人は蛹になる前からの友人よ。食虫花に囚われたと聞いてどうにか助けてあげたいと思っていたけれど、二人は恋に落ちていたの。今となっては遠い昔だけれど、私たちにとってはついこの間のように思い出せる」
遠い目をして、浅葱は言う。
ああ、やはり。
やはり食虫花にとってその故人は重たい存在。胡蝶と絆を結んでいた頃の彼女はどんな人だっただろう。何故だか、今のような人ではなかっただろうと想像出来る。だって、彼女は言ったのだ。醜い自分を変えたいと。その為に、月の命を狙っているのだと。
「私も結局食虫花の元にいることになってしまったけれど、あの子だけが食虫花と特別な関係を築いた。こちらが嫉妬するくらいにね。食虫花は、食虫花らしく虫を食べたわ。でも、親しくしていた私や友人を気遣って、胡蝶は食べなかったの。彼女は私たちに対して、決して酷い事はしなかったのよ。それが全て変わってしまった」
「どうして」
堪え切れず、私は浅葱に訊ねた。
「どうして、食虫花は変わってしまったの?」
もしも食虫花が今もその胡蝶と幸せに過ごしていたならば、きっと月は命を狙われたりしなかった。これまでのように女中頭や執事が閉じ込めることもなかっただろう。月はもっと神秘的に輝いていて、あたしなんかが関わるなんて夢のまた夢という存在だったかもしれない。
様々な想いが巡るなか、切実な思いと共にすがりつくあたしを見つめ、浅葱もまた悲しげな目をして過去の記憶を言葉におこした。
「ある日、影が食虫花を訪ねて来たの……」
静かに、そして、不安げに、彼女は言った。
「それがあの人を変えてしまった。突然現れて、あの人の心を狂わせた。ほんの一瞬だけ付け入る隙があればそれでよかったのでしょうね。理性で眠らせていた食虫花の暴力性を刺激して、心より愛する胡蝶の命を奪わせた。私も友人と一緒にその時に喰い殺されていたかも。でも、私の命を奪う前に、彼女は我に返ったの」
我に返れば、目の前に転がるのは愛した胡蝶の亡骸。そしてその血に染まる自分の両手だったのだろう。
その光景はどれだけ彼女の自我を歪ませたか。
「それからずっとあの人は影の操り人形よ。もともと才能ある魔女だったのが、影の力でどんどん得体の知れないものになっていった。何もかも、あの人は変わってしまったの。それまで、手を出さなかった胡蝶という存在を優先的に襲うようになった。私の事も何度も殺そうとしてきた。それでも、しばらくはあの人も今よりもまともな時があったの。そのまともな時に、私や蝙蝠の事を隷属にした。それが最初よ」
食虫花の初めての妾。
浅葱というその人の姿が、さきほどまでとは違うものに感じられた。だが、蝙蝠の男のように禍々しいものではない。ずっと罪を重ねるあの人の傍にいながら、見つめながら、その裏側を知りながら、蝙蝠達とは違って此処に閉じ込められていたのは何故か。
どんな理由があるにせよ、この人も月にとっては敵になるのだ。そう思うと、とても複雑な気持ちになる。しかし、そんなあたしを浅葱は温かく抱きしめ、幼子を宥めるように背中を軽く叩いてくれた。
「あの人は利用されているの。この屋敷の誰もがそれを分かっている。蝙蝠の男のようにいい手足として動いている者たちも、心のどこかでは、こんな馬鹿な真似はやめてほしいと思っているかもしれない。或いは、食虫花を心から守るために悪に徹しているかもしれない。けれど、私達の未来は変わらないわ。影はあの人を使い捨てる気でしょうから」
――何故だろう。
あたしの身体にはたくさんの古傷がある。その全ては食虫花につけられたものだ。彼女は遊びとしてあたしに苦痛を与えた。苦しむあたしの姿を愉しむためだけに、無駄に痛みを与えてゆっくりと食べる気だったのだろう。その時の恐怖は忘れられない。太陽の加護がある今だって、食虫花に触れられるのは怖い。それだけではない。それと同じ事を月にもしようとしている。肉食者が胡蝶を捕えて食べるように、食虫花も月を食べようとしているのだ。
食虫花は悪人。この大地にとってみれば、信じられないくらいの極悪人だろう。しかし、何故だろう。奇妙な事に、あたしは確かに食虫花に対して哀れみのようなものを感じていたのだ。
そして導きだされたのは、一つの疑問だった。
「その影は一体、何者なの……」
罰するべきは誰なのか。全ての始まりは何処から来ていたのか。その答えが見え隠れする中で、浅葱は静かにあたしの疑問に答えた。
「蝕」
蝙蝠の男の口にしたものと同じ響き。
「蝕という存在が、彼女の全てを狂わせている。生き物なのか、神の一種なのか、胡蝶の私には何も分からないわ。でもこれだけは知っている。今も、あの人のすぐ傍――身に着けている石の中に潜んで、その心身と一つになろうとしているの」
――あのペンダント……。
悪意の根源をしっかりと見つけ出した。
あのペンダントさえ奪ってしまえば、食虫花は怪物ではなくなるかもしれない。大人しくなればそれでいい。大人しくならずに月に歯向かうのだとしても、得体の知れない蝕を奪われた彼女は力を落とす可能性だってある。
今のあたしに出来る事は何か。
月がもしもあたしを助けに来てくれるのならば、或いは、食虫花の方が月を捕えに行くと決めてしまうのならば、その前に、どうにかしてあの黒い石を奪って壊してしまうことなのではないだろうか。
「蝶、どうしたの?」
ふと浅葱が覗きこんできたのに気付いて、あたしははっとした。この人は優しくしてくれるけれど、食虫花の妾であることは変わらない。それも、魔女の隷属となっている人物だ。敬称なしで食虫花の事を呼んでいても、その本質は鳳や蝙蝠と変わらないだろう。
警戒心をそっと強めてから、あたしは答えた。
「何でもない。ただ、その食虫花の恋の相手を想像していただけ」
浅葱という名のあたしの倍は生きている胡蝶を見つめ、静かに付け加えた。
「もしも生きていたら、貴女に似ていたのかしらって」
何となく、思ったままに言っただけの言葉だった。この森にいながら、食虫花と同じくらい生きている胡蝶なんて珍しい。それこそ、絡新婦のような人が長く守ってくれなければ存在しないだろう。この浅葱と言う人だって、食虫花の隷属になれたからここまで生き延びられたのでしかない。
だから、ほんの戯言だった。けれど、浅葱は真面目に答えてくれたのだった。
「その人は、私にはあまり似ていなかったわ。貴女にも、ね。けれど、今の鳳の姿によく似ている。何処かで同じ血を引いているのかもしれないわね。彼女が気に入られたのもきっと、かの人にそっくりだからでしょう」
ああ、だから鳳は手元に置かれている。
服の下は傷だらけだろうけれど、ここに閉じ込められている胡蝶たちに比べればずっとましだ。しかも、浅葱を除いた若い胡蝶たちが今此処に生きていられるのも、鳳の懇願あってのことなのだ。
鳳の願いを何故、食虫花は聞いてあげられるのだろう。かつて自分が殺してしまった胡蝶にそっくりだからだろうか。その胡蝶の代わりに、鳳を大事にしようとしているのだろうか。だとしたら、食虫花は完全におかしくなっているのではないかもしれない。鍵を握っているのは鳳。食虫花の弱点であり、彼女を説得出来る数少ない人物。
「……鳳、か」
ふと檻の隅で蹲りながら同じ年くらいの胡蝶が呟いた。
「あの人がいなかったら、私は隷属になれる希望なんてなかった。でも、どっちがよかったんだろう。あのまま喰い殺されちゃうのと、今ここで絶望しながら戦いを見つめるのと」
名も知らぬその胡蝶は冷めた目であたしの姿を見つめ、自分の膝を抱えた。目元に浮かんでいるのは涙。此処に居ながら、月の刺青以外に縛られるもののないあたしを、羨んでいるらしい。その視線は数秒も堪えられるものではなくて、あたしはつい目を逸らしてしまった。それでも、彼女はあたしから目を逸らさない。
「いいな、貴女は」
その胡蝶は寂しそうに言った。
「女神様に愛されていて」
それは、何処までも自分の未来を諦めている声だった。こんな狭い場所に囚われて、希望の光など長く見てはいないのだろう。
可哀そうだと思うのは簡単だ。けれど、どうしたらいい。あたしに何が出来るというのだろう。一緒に逃げようなんて無責任な事は言えない。無知だったならば、そんな残酷なことも言えたかもしれないけれど、生憎あたしは魔女と隷属のことについて知っている。
彼女たちは逃げられない。逃げようという心を封印されてしまっている。この契約が解かれるのは死滅する時だけ。そういうものなのだ。
では、この人達が生き延びる方法は何なのか。
食虫花は月に勝つ気でいるのだろう。勝てたならばこの人達も生き延びるだろうけれど、そんな事はあたしも許せない。ならば、どうすればいいのか。戦わせない。勝たせない。命を奪わず、月を襲えないようにする方法は何処にあるのだろう。
鍵を握るのは鳳。鳳が説得したら、こんな馬鹿な挑戦は終わるのではないか。
何度も考え、冷たい視線を感じる度に浅葱にそっと慰められながら、あたしは悶々とした時間を過ごしていた。
こうしている間にも、月と食虫花の衝突が始まってしまうかもしれない。その前に、どうにか鳳に話をしたい。食虫花を説得するように、頼まなくては。
けれど、幾ら待っていても、鳳も食虫花も、蝙蝠さえも、地下牢を訪れてはこなかった。