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月食み  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第二部
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3.首飾り


 食虫花が来るまでの間、あたしは窓から外を見つめて過ごした。

 窓は開ける事すら出来ない。全ての窓に鍵が付いているのだ。それに、やや乱暴に窓硝子を割ったところで、そこから出ようものなら食虫花の魔術が阻むのだからどうしようもない。あたしが出来るのはせいぜい、時間の移り変わりを見つめていることくらいだ。

 ここでますます不思議なのが、数年前のことだ。どうやってここからあたしは逃げ出せたのだろう。ひょっとしてあの頃はまだ、食虫花の屋敷も油断が多かったのだろうか。

 考えている途中で、扉は開かれた。

 まっさきに現れたのは鳳だった。だが、一人ではない。鳳に扉を開けさせて後から悠々と入室してきたのは、比較的落ち着いた様子の食虫花だった。彼女は迷うことなくあたしの姿を見つけると、小さく息を吐いてから鳳に向かって言った。


「鳳、外で待っていなさい」


 短いその命令に、鳳は口答えもせずに従う。

 彼女が出て扉を丁寧に閉めると、食虫花はやっとあたしに向かって口を開いた。


「お腹が空いたでしょう。食事の時間よ。窓から離れてそっちに行きなさい」


 そう言って指差すのは寝台。

 太陽の加護がある限り、傷つけられることはない。けれど、食虫花と肌を触れ合わせるのはあたしにとって恐怖でしかない。かつて、その香りと味と温もりと感触に包まれながら、ゆっくりと死を教えられていった時があったのだ。一度は手放した記憶だったけれど、甦ってみれば根強いもので、今度は簡単には消えてくれそうにない。

 それに、食虫花は奇妙なものが憑いた魔女だ。その何者かは、太陽の加護を打ち消してしまえるようなことはないのだろうか。安心しきったあたしを逃げられなくしてから絶望させるような残酷な事はしてこないだろうか。

 そんな恐怖が一斉に沸き起こり、騒ぎ出し、あたしの足を震えさせた。


 ああ、それでも、あたしの目を見つめ、そっと微笑む食虫花が醸し出す蜜の香りは、胡蝶として生まれてしまったあたしの本能をいとも簡単に操ってしまう。気付けば恐怖を無視する形で、あたしは一歩、二歩と寝台へと近づき始めていた。


 ――どうせ、抗えない。


 そんな諦めが、別の思惑と共に浮かび上がる。

 寝台にあたしが到達するとほぼ同時に、食虫花もあたしの傍まで辿り着いた。肌の露出は殆どない。あたしが口をつけられる場所をわざと失くしているのかもしれない。食虫花はいつだって蜜吸いによって支配されようとしない。吸わせたい時に、吸わせたいだけの量を流し込むばかり。好きなだけ吸わせてくれているように思えるけれど、実はそうではなく、吸いつくより多くの量の毒蜜を獲物に流し込んでいるだけなのだ。


 その事実に気付いたのは昨日か今日、囚われてからのこと。せめてもの対抗で蜜を奪うつもりで蜜吸いに応じたあたしだったけれど、数秒も彼女を思い通りにすることは出来なかった。吐きそうになるまで蜜を与えられ、動けなくなるまで弄ばれて、それだけだった。敗北感と劣等感、そして悔しさに苛まれるだけの時間。

 今からも同じ時間が繰り返される。

 けれど、逃げる気になれなかった。何故なら、食虫花の言う通り、あたしは確かに空腹に苦しんでいるからだ。


「力を抜きなさい、蝶」


 優しげに食虫花は言って、あたしの頬に触れた。甘い香りがじわりと沁み込み、味がするか否かのぎりぎりの量の蜜が流し込まれてきた。

 これだけで、全身の力が抜けてしまいそうなくらいだった。もしもこれが、華との蜜吸いだったならば、幸福感にあっさりと身を委ねてしまっていただろう。しかし、今感じている満足感は偽りのものなのだ。


 ――蜜に溺れては駄目。


 震える身体でじっとしながら、あたしは自分に言い聞かせる。そんなあたしの顎を掴み、食虫花はあたしの目を見つめてきた。


「力を抜きなさい。どうせ、貴女の美味しそうな肉も血も、今の私には触れられないんだから。怖がらなくてもいいの。難しいことも考えなくたっていいじゃない。今はただ、この時間を素直に喜びなさい」


 そう言ってから、避ける間もなく彼女はあたしの唇を奪う。

 その途端、抗えないくらいの量の蜜が流し込まれて、一瞬だけ頭の中が真っ白になってしまった。そのくらい美味しくて、そのくらい甘くて、そのくらい残酷な痺れが生じたのだ。気付いた時には、あたしは力を失った状態で食虫花に抱きかかえられていた。


 殆ど服で隠れたその下に、かつて魅了された肉体が眠っている。甘い蜜の香りと、見た目の美しさ、そしてそこから生み出される優しげな表情に惑わされて、かつてあたしは自ら食虫花の胸に飛び込んでいった。あれが決して珍しくはない胡蝶の死因なのだろう。

 ぼんやりと考えるあたしの服の下に、食虫花の手が入りこんでいく。肌に直に触れるその冷やりとした感触と、遅れてやってくる蜜の味と感触の悦びに、唸るような声が漏れだしていく。悔しいけれど、そのくらい食虫花の蜜が嬉しかった。


「素直ね、蝶。そうしていると、とても可愛いわ。愛玩用として胡蝶を囲う人間たちの気持ちが良く分かる。ああ、貴女が崇拝する御主人様も似たようなものだったわね」


 ふと、月を愚弄された気がして、反感を覚えた。しかし、その想いすらも、新しく送り出された蜜の味に寄って押し流されてしまう。


「太陽の加護は本当に邪魔ね。怒りながらも支配されるたまらなく可哀そうで可愛らしくて美味しそうな貴女を見ているとこっちだってお腹が空くのに、齧ることも戯れに血を吸うことも出来ないなんて」

「……だから、鳳を傷つけるの?」


 振り絞ってやっと口から零れていった言葉に、食虫花が興味深げな視線を送って来る。その視線を受けながらも、あたしは続けて言った。


「あの服の下……貴女がつけた傷だらけ……なんでしょう?」

「そうよ」


 隠しもせずに食虫花は即答した。


「元々、あの子はその為に拾ったのだもの。羽化したての新鮮な血肉が欲しかった。無知な子を思い通りに支配したかった。それだけの為に拾ったの。もちろん、今はそれだけじゃない。それ以上の子よ。隷属となったのだから、可愛い妾よ。でも、だからといって欲望に嘘はつけない」


 残酷な笑みと共に彼女はあたしの身体を抱きしめる。蜜はあまり押し付けてはこない。こうしていると、まるで優しさでもあるかのようだ。けれど、優しさなんて信じない。かつて与えられた苦痛を思い出せば、信じられるわけもなかった。


「胡蝶は私にとって、特別な獲物」


 食虫花は一人、そう言った。その目はきっとあたしの姿なんて見ていないのだろう。何となくだけれど、そう思った。


「どんなに愛らしくても、どんなに絆を深めても、獲物は獲物。加減を間違えば喰い殺してしまうだけ。蝶、お前は恵まれているわね。太陽の加護がなければ、きっと月の事も待てずに私はお前を食べているもの」


 偽りなんて感じられないその言葉にぞっとした。

 そんなあたしの反応は、食虫花を喜ばせるものなのだと分かってはいても、震えを抑える事は出来なかった。ほぼ無抵抗のあたしの背筋を、食虫花が指でなぞっていく。その感触を追うように蜜が染み込んで来るのを感じて、唇をぐっと結んだ。

 華と毎日行ってきた蜜吸いと同じ。同じようでいて、逆だ。華との蜜吸いで支配される恐れを感じた事はない。支配される恐れを感じている華の表情を心の何処かで愉しんでいる胡蝶の残酷さに気付かされてばかりいるくらいだ。

 けれど、今は逆だった。支配が怖い。太陽の加護がある限り、命だけは守られるだろう。それでも、心は守ってくれなさそうだ。蜜吸いの快楽に身を委ねてしまえば、きっとあたしは心を狂わされる。命なんて脅かさなくとも、食虫花はあたしを苦しめるのに十分過ぎるほどの力を持っているのだ。


「蝶、お前は愛らしい。でも、それだけね」


 食虫花は言った。


「初めて目にした時は、お前に憧れていた。お前さえ心を許せば隷属にしてしまおうとさえ思っていた。そうでなければ喰い殺すだけ。誰にも渡すつもりはなかったわ。でも今はどうかしら。お前は違う。鳳も違う」

「胡蝶……」


 鳳に教えられた話がふと頭を過ぎった。食虫花の心に今も居続けるという故人。死んでしまった胡蝶の娘のことを思い出したのだ。食虫花の求めている胡蝶とは誰か。どんな人だったのか。そして、今、彼女は何に苦しんでいるのか。


「……食虫花」


 蜜の甘みに耐えながら、あたしはその名を呼んだ。


「貴女の求めている胡蝶について、教えて」


 それはきっと意外な言葉だったのだろう。

 休みなく蜜を与え続けていたその手の動きが止まるほどに。

 見つめてみれば、食虫花はあたしの姿を見たまま表情を固めていた。しばしそのまま静止したのち、ようやく表情を変えて呟いた。


「鳳ね。鳳に聞いたのね」


 苛立ちは特に感じなかった。ただ、事実確認するだけのように呟いてから、食虫花はあたしの身体をそっと撫でていった。

 拒絶しているわけではなさそうだ。その証拠に、食虫花はやや時間を置いてから、やけに素直にあたしの頼みを聞いてくれた。



 胡蝶という者に生まれた事を、あたしは後悔したりしない。

 かつて、絡新婦に騙された時は、わが身を呪いそうになったりもした。糸に引っ掛かり、少しずつ喰われていく同胞の姿を見てしまった時は、胡蝶なんかではなくもっと強い者に生まれたかったと思ったくらいだった。

 けれど、あの時ほどあたしは子供ではない。胡蝶であっても、あたしは食虫花から逃げおおせることが出来た。月があたしを愛してくれているのも胡蝶であるからかもしれない。それに、月があたしの為に華を買ってくれたのだって、あたしが胡蝶として蜜が必要だったからなのだ。

 そういった理由で、あたしは胡蝶であることを否定したりはしなかった。たぶんそれは、長く生きることが出来ている殆どの胡蝶が同じだろう。

 けれど、食虫花は言ったのだ。


「彼女が胡蝶として生まれた事を、私は今も呪っているわ」


 それは、今は亡き胡蝶の娘に対する食虫花の正直な言葉であった。じわりじわりと蜜を沁み込ませながら、食虫花はあたしの耳元に語る。


「どんなに親しくなっても、どんなに大切に思っても、あの子は胡蝶で私は食虫花。弱肉強食の掟を誰かが変えない限り、喰う者と喰われる者の因縁は変わらない。でも、あの子も、私も、かつてはそれを分かっていなかったの」


 あたしはもう聞きたくなくなってしまった。

 その言葉だけで、食虫花が何をしてしまったのか察してしまったからだ。あたしがいつも不安に思っていることでもある。蜜吸いの度に欲望に負けて、華を枯らしてしまわないか恐がりながら接しているのだから。

 それでも、食虫花は容赦なく教えてくれた。


「あの時、私はまだ子供だった。大人になったと思っていたけれど、未熟者には変わりなかった。羽化したばかりのあの子を危険から守るために、母親から受け継いだ魔術を駆使して守護者気取りだったのよ。羽化したあの子は愛らしかった。お前よりもずっと綺麗で、魅惑的な性格をしていたから、誰にも渡したくなかった。でもいつからか、あの子は胡蝶の男と恋をして、卵を産むようになったの」


 それはきっとよくある胡蝶の一生。一回、卵を産めれば上々で、二回以上産める者は数少ない。その前に命を落とすものばかりだからだ。きっと、食虫花の元に守られていた胡蝶ならば、一度ならず何度も産めたはずだっただろう。

 しかし――。


「一度目から何か腑に落ちないものがあった。二度目にも同じものを感じた。でも、私は気付かないふりをしたの。あの子が胡蝶の男とどんな関係を持っていたとしても、私以外の花と蜜吸いをしたとしても、最後に帰って来るのは私の元。そう自分に言い聞かせてきた。言い聞かせてきたはずだったのに……」


 その時、あたしはふと食虫花の首元に下がる黒いペンダントの歪さに気付いた。

 過去を語りながら俯く彼女の心に共鳴したように、どす黒いその石が濁ったような気がしたのだ。これは一体、何だろう。疑問に思って手を伸ばそうとしたけれど、その手を食虫花がそっと捕まえて握りしめてしまう。

 あたしが石に触れようとしたのにも気づかずに、彼女は語り続けた。


「今もあの子は特別な子。でも何処を探してももう見つからない。だから、せめて、あの子に感じた魅惑を探している。蝶、お前には足りない。鳳もそうね。大切だけれど、あの子ではない」


 掴まれた手に蜜は沁み込んで来ない。

 動揺しているのだろうか。こんなにも震えた食虫花は見たことがない。その震えは何故、産まれているのだろう。そして、彼女の抱える闇と、月を捕えたいと言う思いは、どう一致しているのだろうか。

 月を害そうとしている以上、食虫花は敵だ。それでも、敵ながら食虫花の内面が気になった。目に見えない部分で、彼女の心情はどんなことになっているのだろうか。

 蝕。

 蝙蝠の男が言っていた言葉。蝕んでいるのがそれならば、どうにかしてその力を弱めることは出来ないのか。出来るとしたら、どんな手段があるのか。

 悩み続けるあたしの目は、食虫花の鎖骨あたりにおさまる黒い石に釘づけになっていた。


「貴女は……」


 黒い石から目を離さずに、あたしは勇気を出して食虫花に訊ねてみた。


「貴女は、その人を食べてしまったの?」


 はっきりとしたその問いを受けて、黒い石が更に濁ったのを感じ、すぐに視線を食虫花の顔へと移した。同時に、食虫花の動揺も感じた。こうも真正面から問われるとは思わなかったのだろうか。怒っているわけではなく、ただ単に衝撃を受けただけらしいことが幸いだった。

 赤い目であたしの顔を見つめる。あたしに対する恐れなんて当然なく、ただ単に不思議そうにあたしを見つめていた。


「ええ」


 そしてようやく、食虫花は答えてくれた。


「食べたわ。卵を抱えた状態のあの子を。蜜吸いの最中に、わざと蜜の量を多くして。溺れるあの子を狂わせてから、逃げられなくしてから、私の心を信じて必死に苦痛を訴えるあの子の声を無視して、その身体の味を堪能した。だからもう、あの子は何処にも居ない」


 淡々とした声が怖くて震えてしまった。けれど、すぐに震えは治まった。過去を思い出して混濁する食虫花の意識を守るかのように、黒い石から影が這い出て彼女の身体を取り巻き始めたのが見えたからだ。


 ――これは……。


 これが、蝕なのだろうか。

 じゃあやっぱり、あの黒い石のペンダントが。

 せめて触れてみようと伸ばすあたしの手を、食虫花が強く握りしめた。


「いけない子ね。これは触らせないわ」


 先ほどとは変わって苛立ちを含むその声に、あたしは訊ねてみた。


「それは何なの?」

「これは誓いの石。あの子を食べた時から始まっているの。月さえ手に入れれば、全てはよくなる。月の世界を終わらせてしまえば、全ては変わる。そうして私は食虫花ではなくなるの。あの子を殺した醜い私ではなくなる。これはその為の誓い」


 やっぱり、これだ。

 この石が全てを握っている。

 確信が持てた瞬間、あたしの中で燻ぶっていた全ての恐怖が吹きとんだ。心配せずとも太陽の加護があたしを守ってくれるはずだ。そう信じて、あたしは、勇気を出して食虫花に掴みかかった。


「やめなさい、何をするの!」


 思い切った行動に食虫花がやや焦りを強める。その隙に、あたしは黒い石のペンダントを掴み取ろうと試みた。

 けれど、やっぱり無謀だったのだろうか。胡蝶なんかが食虫花に勝てるわけもなかったのだろうか。食虫花が一度ひとたび冷静になってしまえば、呆気なくその力に抑えこまれることとなってしまった。


「全く、油断も隙もないわね」


 急いで拘束から逃れようともがくも、すぐに蔓があたしの四肢に絡みついてしまった。毒のような蜜を流しこまれ、動けなくなるあたしの背筋を撫でて、食虫花は静かに告げた。


「私に敵うとでも思ったの? 御日様の加護があるからといって、貴女が強くなったわけではない。確かに貴女に手を出すのは無理だけれど、従わせるのは簡単な事なのよ」

「食虫花」


 その慈悲の欠片もない彼女を見つめながら、あたしは彼女に訊ねた。


「貴女の心は何処にあるの? その石を手放して、鳳や蝙蝠達と此処で静かに暮らす道は貴女にはないの?」


 月に残された時間はあと僅かかもしれない。そのささやかな瞬間すらこの魔女は許してくれないなんて。この人さえ諦めてくれれば、月に歯向かう者は何処にもいない。そんな道は、そんな未来は、本当に何処にもないのだろうか。

 しかし、食虫花の表情は何処までも冷たいままだった。


「蝶」


 囁くように彼女は言った。


「生意気な貴女には御嬢様ではなく、囚人になってもらいましょうね」

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