2.好奇心
◇
しばらく時間が経った頃、あたしは再び扉を確認した。
鍵はまだかけられていない。食虫花は持っていなかったのだろう。恐らく、この屋敷の全ての鍵を持たされているのは鳳であるのだろうけれど、とっくに命じられているはずの彼女はまだこの部屋の鍵をかけに来ていないのだ。
時間は結構経った。
食虫花もまた何処で何をしているかはともかく、近くにはいないように思う。
――勝手に部屋を抜け出しては駄目よ。
脅しのような言葉が今も頭に残ってはいたけれど、太陽の加護がある限りあたしは傷つけられない。それでも、足を踏み出すのが躊躇われたのは、鳳や、共に捕えられた花蟷螂のことがあったからだ。
もしも、あたしへの罰を彼女たちに向けたらどうなるだろう。
しかし、その不安もすぐに掃われた。どちらにせよ、あの人たちの未来は暗いまま明るくなったりしない。あたしがどんなに模範的に振る舞ったとしても、あの人たちの問題はまた別の事なのだ。
食虫花は言っていた。花蟷螂のことを絡新婦のための餌にするのだと。
友人だと言っていただろうか。同じ魔女同士、それも、月に味方をする者同士。まんまと釣られて考えなしに外に飛び出してしまったあたしを、無事に送り届けてくれようとした恩人でもあった。
――花蟷螂はどうしているのだろう。
まだ生きているとは言っていた。ならば、あたしの力で助けてあげることは出来ないだろうか。
不安よりもそんな期待が上回って、やっとあたしは無施錠の扉を開ける気になった。音もなく廊下を窺って見れば、先程と同じように誰かの気配すらなかった。
この屋敷には無数の隷属がいるはずなのだけれど、近くにはやはり誰もいない。今度こそ邪魔をされないように注意深く進んでみよう。
そう思いながら、あたしは先ほどとは別の方向を目指してみた。
花蟷螂の悲鳴が散々聞こえた方角だ。別室に囚われていたのは知っていた。それに、悲鳴の様子から、同じ階層だということも分かっていた。
声が聞こえなくなってから暫く経つけれど、どの部屋だったのかくらいは分かるのではないだろうか。
そう思いながら、あたしは近くの部屋の扉をそっと確認していった。無施錠の扉ばかりだ。その代わり、中は掃除すらされていない所ばかり。用途もよく分からない部屋がいくつかと、使われた形跡のある寝台が一つだけ置かれている場所など。少し古い血の染みが残されたままになっている部屋も幾つかあった。それらが何に使われた部屋だったのかなんて、考えたくもない。
そうして廊下の端にある最後の部屋の扉に手をかけて、はっとした。
ここだけ妙に扉が軽かったのだ。きっと、他の場所と違って何度も開閉されていたのだろう。施錠はされてはおらず、そっと開けてみれば、すぐに異様なものが目に映った。
拘束紐のついた寝台だった。
シーツは取り払われている。だが、手足を拘束する紐と寝台には簡単には取れないだろう茶色に変色した滲みが散々ついてしまっていた。
ここだったんだ。すぐに分かった。その滲みが誰のものなのか。あの悲鳴が何処から聞こえてきていたのか。
けれど、新たな疑問が生まれた。
まだ生きているという言葉が本当ならば、彼女は――花蟷螂は、何処に連れていかれてしまったのだろう。
「御嬢様……」
背後から声を掛けられて、飛び上がりそうになった。
鳳だ。
音もなく、気配もなく、彼女はあたしの後ろに来ていた。慌てて距離を取るあたしを憐れむような目で見つめ、頭を下げる。
「脅かしてしまって申し訳ありません。けれど、御嬢様、食虫花様を怒らせるようなことをなさってはいけません。全てが終わった時に後悔されることになります。……幾ら貴女がわたくしと同じ胡蝶であったとしても」
控え目にいう彼女だが、食虫花に害をなす可能性のある月の一族の者としてあたしを見ているのだろうか。その目には敵意のようなものすら感じた。
「花蟷螂はどうしたの……」
恐れと怯えを堪えて、あたしは鳳にも訊ねた。
「此処から連れ出して、何処に閉じ込めているの?」
「それは言えません」
鳳は冷静にそう答えると、花蟷螂を拷問したのであろう部屋へと入り込み、寝台の傍にそっと座って、静かに滲み抜きを始めた。その後ろ姿があまりにも他人事な態度であったので、あたしは怒りにも似た感情を抱いてしまった。
けれど、滲み抜きをするその手が目に入ると、怒りも引っ込んでしまった。また傷が増えているような気がしたからだ。
「ねえ、鳳。魔女の隷属ってそんなにも自分を失くすものなの?」
答えもせずに仕事に没頭する彼女に向かって、あたしは問い続けた。
「鳳は外の世界に希望を持ったりしないの? 魔術に絶対なんて本当にあるのかしら。貴女が本気で抗えば――」
「たとえ、主従の契約を解除する方法があったとしても、わたくしはあの方のお傍を離れるつもりはありません」
淡々と、そして冷静に、鳳はあたしに答えた。
「食虫花様は孤独な御方なんです。誰かが――出来れば胡蝶の娘の誰かが、あの方と運命を共にしなくては。それが、この大地の反逆者の本物の魂を慰める唯一の方法なんです」
「どういうこと?」
含みのある鳳の言葉に、あたしは思わず訊ね返した。
思えば、蝙蝠の男も食虫花に対して憐れみに近い何かを抱いているようだった。そんなこと、前はちっとも感じなかったのに。
あたしの問いを受けて、鳳は作業の手をそっと止めて振り返る。悲しげなその目を見る度に、こちらまで悲しくなってしまう。
「貴女はわたくしよりもずっと長く食虫花様とお知り合いなのに、あの方のことをあまりご存じではないのですね」
嫌味でも何でもなく、事実を確認するようにそう言ってから、鳳は今一度視線を戻して作業を再開させながら語った。
「あの方は最近よく昔を思い出されているのです。わたくしが生まれるよりずっと前のこと、そして、貴女が生まれるよりもずっと前のこと。今も記憶の片隅であの方の心の根本的な部分を握りしめている人の面影を追っているのです。でもその結果、彼女に振りかかるのは寂しさばかり」
「死んだ人なの?」
思わず訊ねてみれば、鳳は静かに頷いた。
「――かなり昔に。お亡くなりになった理由を、あの方は教えてくれません。けれど、わたくしも何となく察しております。あまりいい別れ方ではなかったのだと。だって、あの方が時折切なく偲んでいるそのお相手は、わたくしや貴女と同じ始祖をもつ胡蝶の娘なのですから」
「え……」
食虫花の心に今も残る相手。胡蝶の娘である故人。鳳の教えてくれたことが本当ならば、予想もしなかった過去だ。そもそも、信じられない。だって、此処は胡蝶の墓場と言われるほどの場所だったのに。信じられるわけがない。
胡蝶を散々苦しめてきたあの人が、胡蝶を偲んでいるなんて。
ああ、けれど……けれど、愛する妾に訊ねられても口を割れない食虫花の姿を予想すれば、何故、その人が故人となってしまったのかあたしにも想像出来た。だって、絡新婦がよく苦しんでいたではないか。捕えた胡蝶を隷属にしてしまう前に、食欲に負けてしまうのが辛いのだと。
「わたくしなんかよりも、蝙蝠の彼の方がよく知っていることでしょうね」
驚くあたしを余所に、鳳は続けた。
「あの人の方がより長く食虫花様を知っていますから。食虫花様は、可哀そうな御方なんです。魂と引き換えに妾となった以上、あの方に最期まで付き添うのがわたくしの役目なのです」
哀れみだろうが、同情だろうが、鳳の態度は変わりそうにない。
きっと、隷属など関係ない。あたしが月を愛し、裏切ることが出来ないように、彼女もまた食虫花を裏切られなくなってしまったのだろう。たとえそれが蛹の自分を捕え、羽化したてて何も分からない状態の時に付けこんできた悪魔のような女であっても、鳳は見捨てることが出来ないでいるのだろう。
ならば、あたしにも考えがあった。
「ねえ、鳳」
あたしは小声で彼女に言った。
鳳はこちらを見たりしない。それでも、頑なに作業を続行する彼女の横顔に向かって、あたしは説得を試みた。
「鳳、貴女が食虫花の事を慕っているのは分かったわ。よく分かった。だから、貴女には聞いて欲しいの」
食虫花の犠牲になった者は多い。
けれど、それは飽く迄も自然界に存在し得る範囲のものだ。たしかに異常な所の多い食虫花だけれど、彼女の犠牲になった者の苦痛と、ただの女郎蜘蛛や蟷螂に囚われて死ぬ事となった者の苦痛はそう変わらないだろう。
弱肉強食に罪悪をもたらすならば、そんな決まりを世に押し付けた創世の神をまずは断罪すべきだろう。しかし、現実はそうではない。神はもちろんのこと、獲物を必要以上に痛めつけて遊んでから殺すような蟷螂や蜘蛛、それ以外の虫やケモノ、鳥たちが罰せられることは殆どないのだ。
同時に、食虫花という種族も同じ。
この屋敷の主人である食虫花が罰せられることとなったのは、ただ単に、この大地の女神であり、命そのものである月を害そうとしているからに他ならない。そう、つまり、食虫花自身がこの凶行をやめてしまえば、極刑は免れるかもしれないのだ。
「もしも、食虫花が月を狙う事を辞めないのなら、月は彼女を枯らそうとするでしょう。月は正当な女神なのよ。彼女の本当の力を前に、食虫花が敵うはずもない。なら、どうなると思う? 鳳、貴女は、食虫花が枯らされてもいいの?」
主人が滅べば、隷属も滅ぶとも言われている。この屋敷にいる殆どの者は、月の持つ聖剣によって食虫花と同時に息絶えるかもしれないのだ。
そう思った途端、急に怖くなった。
食虫花は枯らされるだけのことをしてきたかもしれない。蝙蝠の男だって、かつて月の城にいた花を一人残酷に枯らしてしまった罪があるのだ。同罪といってもいいだろう。だが、鳳など、それ以外の者はどうだろう。死にたくないあまり、隷属になってしまった弱きものまで罰せられなくてはならないのだろうか。月に反逆する者として、消されなくてはならないのだろうか。
考えれば考えるほど怖い。月にそんなことをさせていいのか分からなくなってしまう。前はこんなことなかった。食虫花の脅威が去ってしまう事を祈っていた。つまり、食虫花なんて枯れてしまえばいいのだとしか思っていなかったのだ。
「わたしは……」
ふと感情のこもった鳳の声が聞こえた。
作業の手を止め、やや震えながら俯いている。
「勿論、そんなのは嫌。けれど、あの方のご意思だもの」
感情的な呟きだった。少しだけだけれど、距離が縮まった気がして、あたしは勇気を持って鳳に語りかけた。
「貴女は胡蝶を助けて欲しいってお願いしているのでしょう? 貴女の頼みはどうしても聞いてあげたくなると食虫花は言っていたわ。じゃあ、貴女が戦うのは辞めて欲しいって言ったらどうかしら。月と争うのは止めて、このまま平穏にずっとずっと一緒に暮らしたいと他ならぬ貴女が言ったとしたら――」
「やめて……」
囁くように鳳は拒絶した。
しかし、その眼差しはとても弱々しく、あたしを払いのけるほどの力を持ってはいない。今にも折れそうな心と共に、鳳はあたしに懇願した。
「お願い、甘い言葉でわたしを惑わさないで。今更引き返せないのだって食虫花様はおっしゃっていたのよ。勝つか負けるかしかない。あの方が苦しい思い出から解放されるには、月の女神様との戦いに勝利するしかないのだと」
「どうして」
どうして、そんなに頑ななのだろう。
何かがおかしい。何かが潜んでいる。暗い思い出に苦しむ食虫花の背後だろうか。何か別の力を感じてしまう。苦しむ食虫花の心を慰めて寄り添う鳳の他に、上手く誘導している何かがいるような、そんな気がしたのだ。蝙蝠の男などではない。隷属に下るような小物ではなく、もっと得体の知れない影を感じてしまったのだ。
「一体、何?」
あたしは思わず鳳に訊ねた。
「何に、食虫花は耳を傾けているの?」
しかし、鳳が答えるより先に、別の声が割り込んできた。
「蝕、とでも申しましょうかねえ」
突然のその声にびくりとしてしまった。鳳の時と同じように、音もなく彼は現れた。蝙蝠の男だ。廊下の向こうで腕を汲み、微笑を浮かべ、驚くあたしの姿を見つめていた。
「或いはただの影と言った方がいいのかもしれない」
彼はそう言いながら歩きだし、どんどんあたしに近づいてきた。
「何にせよ、我々のような精霊ではないのは確かなこと」
「――どういう事? 貴方、その蝕とかいう奴の事、何か知っているの?」
「さてねえ、ただの隷属となって二十年以上経ってしまった私には分からないことだらけだ。ただ、一つだけ君にも教えてあげられるとすれば、あの影の影響で今の食虫花様があるのだということくらいだろうね」
食虫花の背後に何かがいる。
そういえば、魔女たちは皆そう言っていたらしい。きっとその何かが食虫花を食虫花以上に化け物に変えてしまっているのだと。その蝕とかいう奴が、魔女たちの睨んだ何かなのだろうか。だとしたらつまり、蝕さえいなくなれば、食虫花はただの花の魔女に戻るということではないだろうか。
急に荒い動作で腕を掴まれて、思考はそこで止まってしまった。
蝙蝠の男があたしの顔を睨みつけ、低い声で叱責する。
「部屋の外に出るなと主様はおっしゃっただろう? もしも知られたら大変なことになる。君は御日様の加護を過信しているようだが、そんなもの不滅ではないのだよ。さあ、あの方に気付かれる前に、戻るんだ」
乱暴に引っ張られ、抗えぬまま、あたしはやむなく従った。
色々なことが分かっただけで儲けたものだ。食虫花の背後にいるという蝕という存在。もしもその正体を暴いて、食虫花の力を弱められたら、或いは、怪しげなその影響から食虫花が解放されれば、月を脅かすものはいなくなるのではないか。
蝙蝠の男と同行した鳳によって部屋に押し込められ、今度は間違いなく部屋を施錠されるのを聞きながら、あたしは静かに勇気を振り絞っていた。
間もなくきっと食虫花が食事を与えに来るはずだ。その時間の訪れを待ちながら、あたしは何度も頭の中で思考を巡らせた。