1.無価値
◇
こんな年明けは初めてだった。
寒くもなく、飢えもしない。そこは去年と同じ事。けれど、それだけが胡蝶の幸せではないのだと、あたしは既に知っていた。与えられた部屋のそれ自体に不満があるわけではない。不満は外に出られないことと、此処が華や月と暮らす城ではないことだった。
同じ胡蝶であるはずなのに、食虫花の隷属になってしまっている鳳は、世話係らしくちょくちょくあたしの部屋に来た。そして、部屋の隅で蹲るあたしを見る度に、鳳は寂しげな眼を此方に向けてきた。その度に、あたしは彼女に向かって懇願した。
「そんな顔をしないで」
何度目か分からない台詞だった。
「するなら、お願い、此処から出して……」
「出来ません」
何度目か分からない返事だった。
「食虫花様に貴女だけは逃がしてはならないと言われているのです。逃がせばきっといまのわたくしの立場はなくなるでしょうね」
「じゃあ、あたしと一緒に逃げたらいいじゃない」
無駄だと分かっていても、そう言わずにはいられない。
「ねえ、鳳、此処は胡蝶の墓場なのよ。あの人がどれだけの胡蝶を食べてきたか知っているでしょう? それに、隠していても分かっているのよ。貴女の服の下の事。貴女があの人にされていることだって分かっているの。どうして、ねえ、どうして従うの!」
「だって、わたしは……食虫花様の妾だもの」
「鳳、このままじゃ貴女も死んでしまうわ。あの人は胡蝶を餌だとしか思っていない。貴女は騙されているの。あの人は、貴女の事、食べ物だとしか思っていないわ」
自分で言っていて絶望的な気持ちになってしまった。
太陽の守りはどのくらい強いのだろう。
今のところ、食虫花に直接危害を加えられてはいない。蜜を無理矢理飲まされたくらいで、痛い思いをさせられたりはしていない。けれど、この加護は本当に万能のものなのだろうか。信じ続けてもいいのだろうか。
不安は不安を呼ぶ。その上、食虫花が今のあたしに出来ないことを代わりに鳳にしていると気付いてから、あたしは気が気じゃなかった。
――違う、あたしのせいじゃない。
鳳が悲しげな顔をする度に、責められているような気分になった。
彼女だって被害者だ。羽化したての胡蝶は何も分からない。青虫の頃の知識なんてほとんど役に立たない。大人の胡蝶たちもわざわざ青虫に知識を与えるようなことはしない。そんな余裕がないからだ。
卵が割れる前に親は死んでしまうものだと思った方がいい。ただの蝶々とそう変わらない。誰の所有物にもならずに自分の力だけで一年も二年も三年も生き続けられるようならば、もはやその胡蝶は伝説となるくらいだ。
珍しい事じゃない。蛹の中にいるのは無知の者。胡蝶の蛹を見つけたら拾って帰ってしまう捕食者なんて大勢いる。我慢できない者は蛹を破って中で眠っている成長途中の無抵抗な胡蝶を喰い殺し、我慢できる者は羽化まで見守ってから手をつける。
食虫花は後者だった。それも、ただの捕食者ではない。何も知らない若い胡蝶を蜜と言葉の力で洗脳して、妾にして、欲望を満たす道具にしてしまったのだ。それは、蛹の中で眠っている間に喰い殺されるよりもずっと残酷なこと。
「駄目なんです」
けれど、鳳は言った。
「駄目なんです。どうしても食虫花様を裏切れない……」
あたしから視線を逸らして彼女は項垂れる。
その姿は意外でも何でもなかった。これが魔女と隷属というもの。絡新婦の隷属である蚕だってそうだし、名も知らぬ新しい隷属も同じだろう。
魔女は隷属を見捨てられない。隷属も魔女を裏切れない。
しかしそれは崇高な絆ではなく、魔術による頑なな契約なのだ。
その関係が哀れだから、あたしは絡新婦の妾になるのを拒んだ。そうなるくらいなら、殺された方がましだと思った。けれど、殺されるくらいならどんな形でも生きていたい人だっているだろう。
鳳だって言っていた。喰い殺さずに生きる道をくれた事に感謝していると。非常食と言われても仕方ない立場にいるにも関わらず、食虫花を恨む様子すら見せていない。
彼女がされていることを想像すればするほど哀れだった。かつてここに囚われた時の自分を思い出すからだ。生死の境を彷徨いながら、時折、息を吐かせてくれる食虫花がまるで女神か何かにようにすら思えてきたあの異常な記憶が甦って、怖かったのだ。
一応は鳳も自分の隷属なのだから、あたしの時よりも手は抜いているかもしれない。けれど、その分、残酷なことをされている。
「だって、わたし、自分が何をされても、食虫花様の事が……」
そこまで言って、鳳は口ごもった。
ああ、なんてことだろう。まだ絡新婦と胡蝶の恋愛の方がましだ。絡新婦は胡蝶を大切にしようと努めている。女郎蜘蛛としての本能と戦い、時には失敗しているようだけれど、隷属となった胡蝶を傷つけるようなことはしない。
でも、食虫花は違う。鳳が仮に嫌がっても、抵抗しても、彼女は自分の欲を満たすだろう。魔女と隷属という契約に縛られながらも、そのぎりぎりの範囲で鳳を傷つけ続けるだろう。それなのに、鳳はそんな相手を愛してしまっているのだ。
「取り乱してしまいました。失礼します」
鳳はそうとだけ言って、着替えを残して行ってしまった。
扉を閉められ、去っていく足音を耳にしながら、あたしはふとある事に気付いた。
――もしかして……。
音を立てないように立ち上がって、そっと扉へと近づいてみた。外から施錠する音が響かなかったのだ。半信半疑でドアノブに手をかけてみれば、思っていたよりもあっさりと扉は開いてしまった。
戸惑いと恐れが一気に強まった。けれど、扉の隙間から廊下を眺めてみても、誰かの気配すらしない。
――もしかして、逃げられるのでは。
緊張と共に部屋を抜け出すあたしを、やけにぴりぴりする風が迎え入れる。人間の造ったのだろう古ぼけた絨毯が敷かれる屋敷の廊下を歩みながら、ちょっとした物音に怯えつつ、あたしは分からないなりに屋敷をさまよった。
かつて、月と出会うよりも昔、あたしはこの屋敷から外へと逃げ出した。その時のことをはっきりと思い出すのは難しい。食虫花に囚われていた部屋が何処かもよく思い出せない。覚えているのは何処までも優しげにあたしを寝台に連れていった食虫花の美しい姿と、その豹変した姿。そして、大地の者としてせめて女神に忠誠を誓おうと、ぼろぼろの身体を酷使して逃げ出したその必死さと、暗闇から呼びかけてくる蝙蝠の男の声だった。
あとは、自分の血に染まる寝台くらいのものだろう。
何処をどう逃げて外まで辿りつけたのか、もはや思い出せない。窓を開けて逃れることは出来るだろうか。どれも勝手に開けられるわけではないらしい。鳳が時折、あたしに与えられた部屋の窓を開けていくけれど、あたしには開けられなかった。近づくだけで、食虫花の蔓が邪魔をするのだ。
――それでも、何処かに出口はあるはず。
こんなに広い屋敷なのだ。出入り口は一つじゃないだろう。階段を降りていき、此処が何階かも分からないまま進んでいくにつれ、力無き食虫花の隷属たちの何人かとすれ違う。蝙蝠や鳳とは違って、彼らは物も言わず、あたしの姿に疑問も持たない。
ただそこにいるだけのようだ。そういう存在が此処には沢山いるらしい。皆、食虫花に喰われるのを恐れて下った者ばかり。
せめて、彼らが食虫花に告げ口しないことを願うしかない。
そう思いながら進んでいくと、ふと、自分が屋敷の一階に辿り着いたことに気付いた。ここの何処かに外への出入り口があるはずだろう。
高まる期待を胸に進もうとした時、ふと背後から声はかかった。
「いけないね。鳳もうっかりした子だ」
忘れもしないその声に、びくりとした。
振り返れば、階段の踊り場からこちらを見ている人影があった。蝙蝠の男だ。食虫花が一番頼りにしているだろう僕の男。
「鍵をかけ忘れた上に、君に外に出るなと言う忠告をしていないとはね」
にやりと笑いかける彼の姿に、怯えが生じた。
「それとも、鳳が逃げろとでもいったのだろうか。あの子も所詮は胡蝶だからね。食虫花様が胡蝶を捕える度に、寝台の中で救済を求めているらしい。おかしくもない話だ」
「ち、違うわ。あの子は関係ない。あたしが勝手に外に出ただけよ」
妙に不安になった。彼がもし食虫花に告げ口すれば、誰が一番被害を受けるのかすぐに分かったからだ。
しかし、庇ったあたしを見て、蝙蝠の男は首を傾げた。
「ほう、君もずいぶんと仲間思いだ。そのまま鳳と揃ってこの屋敷の娘にでもなったらどうだろうかね。この屋敷も鳳のおかげで生きた胡蝶だらけになってしまっているのだし。今更増えたって一緒だろう」
「胡蝶だらけに……?」
思わず蝙蝠の男の話に喰いついてしまった。
だが、彼は人差し指をそっと自分の唇にあててから、小声で呟くように言った。
「食虫花様がお気づきになる前に、お部屋にお戻り、御嬢様。もしも君が、鳳のことを少しでも可哀そうに思うのなら、あの子の好意には反応しないほうがいい。どう足掻いてもあの子は私と同じ。食虫花様の隷属をやめられないのだからね」
それは諦めにも似た言葉に思えて、あたしは思わず彼に無意識に近づいた。
「ねえ、貴方、隷属になったことを後悔しているの?」
しかし、蝙蝠の男は笑うばかり。
「まさか。私は一目見た時からあの方の虜なのですからね。後悔があるとすれば、別のところ。所詮、私は力のない蝙蝠。安い魔術しか使えない。あの方のお力を借りることしか出来ない。だから、あの方を奴からお守り出来なかった今のこの立場くらいのものだよ」
「……どういうこと? 食虫花を守れなかった?」
奴とは誰だろう。
月の事ではないとすぐに分かった。月はまだきっと城から出してもらえていない。あたしから見て、食虫花を害している存在なんて見当たらない。それなのに彼は、本当に、本当に悔しそうな表情を一瞬だけ浮かべた気がしたのだ。
「一体、何がいるの?」
あたしは蝙蝠にまっすぐ質問した。
「あの人に、何が起こっているの?」
しかし、その問いの答えを貰うより先に、急に腕を掴まれた。状況を理解するより先に、凍りつくような視線が背中をさしてくる。蜜の香りは漂わない。けれど、それが誰なのかは間違いようがなかった。
「いけない子達ね。私の知らないところで噂話だなんて」
「食虫花……」
名前なきその名を呼び捨てても、食虫花は大して力を強めず、けれど、決して逃さずにあたしの腕を引っ張った。蝙蝠の男が踊り場より此方を見下ろし、静かに一礼してみせる。それを見つめ、食虫花は一言だけ彼に告げた。
「戻りなさい。お喋りは貴方の悪い癖よ」
やや冷たげなその言葉に、蝙蝠の男は苦笑いを浮かべつつも従った。未だに嫌な印象しかない彼だが、この状況で去っていかれるのは非常に心細かった。
食虫花と二人きりだ。怯えているあたしの頬を食虫花は冷えた手でそっと撫でていった。
「お前の取り柄は好奇心のようね、蝶。その好奇心が月にいち早く私の存在を教え、逆に、私と彼女とを繋いでくれた。その他の魅力なんて、胡蝶ならば当り前に持っているものばかり。鳳とお前は変わらない。月に愛されているか、私に愛されているかの違いだけ」
「食虫花……あたしは……」
彼女の言葉なんて耳に入らなかった。
何とかして、部屋を出てしまった事を言い訳しなければという思いで一杯だった。けれど、食虫花は軽く笑っただけで、あたしの手を引っ張って上階へと歩き始める。
「どんな言葉で鳳を庇おうとしても無駄よ。あの子の事はよく分かっているの。悪い癖よね。嫉妬深くて、慈悲深い。でも、そこが可愛らしい。お前に嫉妬しながら、お前を必死に庇おうとしているあの子の姿が想像できるかしら。食虫花として生まれた私の本能を、情で制御しようとしているあの子の傲慢な愛しさが想像出来る?」
「鳳は関係ないの。鳳に酷い事しないで……」
引っ張られながらそう言うと、食虫花はふと振り返った。
まるで心が宿っていない人形か何かのようなその虚ろな目。黒い影が取りついているような気がして、ふとなんとなく気になった。
「お前は本当に馬鹿な子ね。庇っても無駄と言ったでしょう。庇わなくてもいいの。どうせ私はあの子を殺せない。あの子は私に殺されることを恐れ、期待しているようだけれど、私はあの子を殺さない。殺せないわ。だって彼女は――」
言いかけて、ふと食虫花はあたしから目を逸らし、そのまま口を噤んだ。
黙っていれば、彼女の恐ろしさを知らなかった時の事を思い出す。本当に優しげに、無知なあたしを蜜吸いに導いたあの時の彼女とそう変わらない美しい横顔をしている。その優しさが本物だったらどんなによかっただろう。
ああでも、そんな願望は無意味だ。彼女が残酷だったお陰で、あたしは月や華に出会うことが出来たのだもの。運命というものが本当にあるのなら、あたしとこの人は敵対すべくして敵対したのだろう。
「どうやら、お喋りなのは私も同じね」
食虫花は溜め息混じりに言った。気だるそうなその態度は、まるで時折月が見せるものにも似ていて奇妙だった。
けれど、すぐにその幻惑を振り払った。月に似ているだなんて、少しでも思った自分が腹立たしい。月とこの人は似ても似つかない。全く逆の存在じゃないか。
現に今だって、あたしと共に捕えられた花蟷螂のことを――。
「お前は他人の心配ばかりね」
ふと、食虫花が言った。
階段をゆっくり上がり、長い廊下の床を踏む音がじわりと響く。その後に静かに従う自分が何処までも下の位に落ちてしまったように思えて堪らなく悔しくなっていく。段々と与えられた部屋に近づいて行くのが、怖くなってきた。
「花蟷螂の事を考えているの?」
思考を読みとるように、食虫花は訊ねてくる。
「お前がどれだけ心配しても、あの子も救えない。あの子が助かるにはあの子自身が諦めなければならない。私があんなにチャンスを与えているのに、どうしてあんなにも頑固なのかしらね」
まだ彼女は生きているのだろうか。
悲鳴が聞こえなくなってからどれだけ経ったのだろう。生きていても、悲鳴を上げる事すら困難になってしまっているのは確かなことだ。
「生きてはいる。でもそろそろ時間切れね。このまま頑固でい続けるのなら、彼女には月の崇拝者として此方に乗りこんで来るだろう女郎蜘蛛を釣る餌になってもらう。峠は今宵。最後の選択次第で、あの子がどんな姿になるのかが決まる」
「やめて……どうして、どうして貴女はそんなに残酷なの」
堪え切れず嗚咽の漏れるあたしの手を指で撫でて、食虫花は答えた。
「さて、どうしてだったかしらね。私だって、昔はもっと……」
そう言いかけたまま、彼女は再び口を閉ざす。そのまま続きは得られぬまま、元いた部屋に辿り着いてしまった。
もっと、何だと言うのだろう。感傷に浸る食虫花の姿は、何故だか今までになく暴力性に乏しい姿に見えた。
恐らくはそう見えただけだろう。その証拠に、ふと我に返った食虫花の見せる表情は、かつてあたしを死の淵まで追いやった時となにも変わらないものとなっていた。
扉を開け、決して狭くはない部屋の内部を指差し、彼女はあたしに命じた。
「入りなさい。次は鍵が開いていたとしても、勝手に部屋を抜け出しては駄目よ」
優しげだが、その口調の後ろには、恐ろしい怪物の心が宿っている。威圧感に背中を押されながら、あたしは静かにその言葉に従った。