5.反逆
◇
必死に瞼を開けたまま、私は状況を見守った。
聖剣が妙に温かく感じる。
しかし、それを動かす手は蔓に縛られ、血の流れが止まってしまいそうなくらい締めつけられていた。私の身体を壁に抑えこむ蔓の力は非常に強く、それに抗う力も、蜜の香りに紛らわされるうちに失われていく。
それでも、食虫花は、それ以上は何もする事が出来ないままだった。
理由は妨害されているから。特に、一見頼りなさそうなナイフを片手に迫る少年。彼の勇ましさは食虫花の注意を一身に引きつけるくらいのものだった。
だが、大紫も同じく、抗い続けていた。実の妹に止められながらも、それを振り払って少年と共に食虫花へと立ち向かおうとしている。
野生花と胡蝶では、食虫花には敵わない。
それでも、諦めようとしない二人の存在は、食虫花にとって煩わしいことこの上ないようだった。
「――鳳」
部屋の隅で怯えている鳳に、食虫花が冷たく命じる。
「貴女の頼みは聞いてあげられないかもしれないわ」
「食虫花様……!」
小さな悲鳴があがり、鳳も動きだした。
向かうのは大紫の元だ。言葉だけで鳳は食虫花の思うままに行動してしまう。鳳は間違いなく食虫花の隷属なのだろうけれど、心の全てを失っているわけではないのだ。大紫の妹であることは変わらない。
大紫は鳳を取り返したいと言っていた。それは、そんなに前の事ではない。
「姉さん、お願いだから、やめて――」
大紫だけを捕まえて、引っ張る鳳の姿が見えた時、再び視界がぐらつき始めた。
甘い蜜が私の脳をまさぐり、思考を歪めて視界を奪いはじめる。蝕と名乗った黒い影が食虫花の身体から離れ、じわじわと私の耳元で囁きだす。
『降伏しろ』
男なのか女なのか分からない声で、蝕は言う。
『お前が降伏しなければ、戦いは終わらない。罪なき姉妹は引き裂かれ、お前を慕う愛娘たちの身も危ういものとなるだろう』
絡新婦達と一緒にいるはずの華。そして、今も何処かで囚われているかもしれない蝶。二人の顔が頭を過ぎっていく。
「――そんなの嫌だ……」
『大人しくお前がこの女のものになるといい。この女を器とし、私に従うと誓えば、お前が守りたい者たちは全て壊さないでやろう』
「それは、取引なのか……」
太陽を裏切る取引。
女神として生まれてきたこの責任の全てを投げ出し、蝕に支配されるだけの存在へと成り果てるという契約。聖剣という牙を与えられ、抗う術を与えられているはずの私に向かって、その力を手放せと言っているのだろうか。
そんなこと出来るわけもない。
月の大地に生まれた者ならば、誰もが月を信じてそこにいる。跡継ぎなくして自分が死ねばそれだけで重大な罪になる。太陽の定めた通りに三十年きっちりと生きて、たった一人の娘を残して死ぬことが私の役目。
それならば、みすみす自分を狙う者の巣窟に足を踏み入れることもない。けれど、それでは蝶を失ってしまう。この戦いは、いわば、残すところきっと一年と少ししかないだろう私の最期で最大の我がままでもあるのだ。
そんな私にも関わらず、味方をしてくれる者たちがいる。それは何故か。皆、私の事を信じているからだ。月の女神というもののことを信じて戦っている。そんな彼らを信じずに降伏するなんて、どうして出来るだろうか。
――そう、私は負けるわけにはいかない。
その時、遠ざかっていた意識が、少しだけ盛り返した気がした。
「食虫花……」
その声を出すのは苦しかった。
必死に生み出したその声が向かった先は、得体の知れない影の方ではなく、私を捕えながらも、抗おうとする花と胡蝶という儚げな存在に牙を向こうとしている食虫花の方だった。
私の声を聞いてか、幼い頃に見た記憶に断片的に残っているものと同じ輝きの目が、私をじっと振り返ってきた。
その目を恐れずに、私は訊ねた。
「お前は何も気付いていないのか……」
今いる自分が何をしているのか。ただの魔女が化け物になってしまったのはどうしてなのか。そして、自分の身体にまとわりつく影は何者であるのか。
私の問いを受けて、食虫花の鎖骨に収まる黒い石が歪んだ輝きをみせる。
「囚われているのはお前の方じゃないか……」
「命乞いでもするのかと思ったら」
冷たげに食虫花は吐き捨てる。
その様子は芯から私を見下し、自分の意思で行動しているようにしか見えない。けれど、私はどうしても彼女が時折見せる茫然とした様子が忘れられなかった。
この女だって生き物なのだ。
太陽の加護すら危うくさせる化け物と呼ぶことしかできないこの存在から、ただの魔女に――食虫花に戻す事は出来ないのだろうか、と。
「私は囚われたんじゃないわ」
食虫花が私に囁く。
「私は私の決定で罪を犯しているの。貴女はどうなの月。貴女はこのまま貴女の意思でこの世を去るつもり? 私と御日様は何が違うの? たった一度の死と引き換えに貴女を永遠に輝かせてあげる私と、痛みと苦しみと死を繰り返させて貴女を満ち欠けさせるあの人。どっちが優しいのかしら」
「――あの人は……」
太陽。脳裏に浮かぶその言葉と姿に、ふと、幼い頃に感じたものが甦って来た。
食虫花という名前すら認識していなかった頃、得体の知れない悪人と同じくらい、私を支配して閉じ込める太陽という存在は憎かった。
うんと幼い頃なら違っただろう。それでも、年頃となって以降伝わってきた無視できない冷たさは、温かな太陽の日射しとは程遠いもので、母を描いた肖像画の下で睨まれるのを覚悟しながら泣いていたことだってあった。
思い出が、そして感情が溢れ、混乱しそうだった。
もしも昔の自分なら、食虫花の言葉に誘われるままに屈服してしまっていたのだろうか。けれど、今の私は昔の私ではないのだ。太陽は不滅で、月は生死を繰り返す。その成り立ちに理不尽さを覚えたことだってある。恐怖したことだってある。今だってそうだ。死にたくないし、蝶や華と共にこれからも生き続けたい。
しかし、だからといって、この大地を終わらせるわけにはいかない。祖母より、母より受け継いだ女神としての歴史を、私の身勝手な弱さで諦めるわけにはいかないのだ。
「あの人は、お前とは違うんだ!」
声を張り上げて、私は拒んだ。
太陽への反逆は月の女神としてやってはいけないこと。月の大地を守る以上、その立場は崩してはならない。そうでなければ、どうして執事や女中頭に顔向け出来るだろうか。守るべき月の大地の人間であり、育ての親でもある彼らは、私を信じて送り出してくれたというのに。
手足を拘束する蔓の力が強められる。抗う私をあざ笑うかのよう。四匹の大蛇にでも襲われてしまったかのようだ。その主人たる食虫花は、嫌悪を示す私の顔を見つめて、ほくそ笑むように服の袖で口元を隠した。
「そう。最期までその態度は変わらないのね」
彼女は言った。
「残念だけれど、私達、分かりあえそうにないようね。でも、抗うだけ無駄よ。貴女が苦しむだけ。太陽は貴女を助けられない。私は貴女以上に貴女を使いこなしてみせるわ」
逃れることは出来ないのだろうか。
どんなに力を込めても蔓の拘束は緩まない。それでも、心だけは挫かれたくなかった。
「その自信へし折ってやる。たとえ、お前に喰われたとしても」
「月様……」
絶望的な大紫の声が聞こえてきた。鳳に拘束され、振りほどくのに必死のようだ。一方、少年の姿が分からない。彼は何処に居るのか無意識に探そうとしたとき、食虫花の冷たい声が降りかかってきた。
「安心なさい、貴女の大地はただ枯れるのではないの。新しく生まれ変わるだけよ」
あげられた白い右手の動きにあわせて、複数の蔓が鎌首をもたげる。怪物にでも睨まれているような圧力を感じる。目など何処にもないはずなのに、鋭い眼光が私を見ているようだった。
蔓を睨む私に対して、食虫花は溜め息をつくように呟いた。
「全く――落ち着かないったらありゃしない!」
怒りをあらわにしながらあげた右手を真横に振りおろした。蔓は私ではなくそちらに向かい、別の者を襲い始める。直後、少年の悲鳴とも怒声ともつかない声が響いて、はっとした。見れば、蔓を相手に必死に戦う白い姿がすぐそこにあった。
食虫花が彼へと視線を向ける。
「蝙蝠はまだ人間と遊んでいるのかしら」
そう言って、蔓の相手に必死な彼に向って指を差す。
――いけない。
「逃げろ!」
慌てて叫んだのとほぼ同時に、少年の背後から別の蔓が襲いかかり始めた。逃れようとする彼の逃げ道を塞ぎ、そのまま四方を鳥かごのように覆う。逃げ道を完全に失った彼の姿を見つめ、食虫花は静かに笑った。
「そこで見てなさい、白い花の子。せいぜい、これまでの謝罪の言葉でも考えておきなさいな。新しい世界でもなお反逆しようと言うのなら、貴方の用途は私の可愛い僕達の御馳走になるでしょうね。けれど、もしも貴方が高貴な花の女の子の事を本当に大切に思うのなら、よく考えて選択なさい」
「食虫花……」
恨みのこもった少年の声が響く。
蔓の檻に向かって銀のナイフで切りつけては壊そうとしている。それでも、彼を捕えている蔓は一向に壊れそうになかった。
「月様に手を出すな! やめろ!」
少年の叫びが私の頭の中にもこだまする。
絡新婦達は何処に居るだろう。もしかしたら既に、少年が花同士の言葉を使って呼びかけているのかもしれない。では、こちらに向かっているだろうか。向かえているのだろうか。彼女たちの助けを待つことしか出来ないのだろうか。
「貴女も、貴女よ」
邪魔者がいなくなって落ち着いたのか、食虫花がこちらを向いてやや穏やかともいえる口調で言った。
「貴女が反抗的な態度をとればとるほど、貴女に味方していた人たちの処遇は悪化していく。絡新婦なんかはともかく、無力な蝶や華まで絶望的な目に遭わせたいの? 貴女がどうしても大切にしたいというのなら、新しい城となるこの場所で、穢れた虫一匹あの子たちに触れさせないと約束するわ」
「あの子たちを人形にでもするつもりか……」
「あら、貴女がしていたことと何か違うかしら。貴女だってあの子たちの綺麗な肌に刺青を入れて、自分のものだって主張しているじゃない。独占欲の誇示じゃないの」
「違う、私は――」
反論しかけたところで、食虫花にまとわりつく蝕が私の身体に触れ始めた。その途端、経験した事もないような息苦しさと痛みが生じ、声がつまった。悶える私に向かって、食虫花は静かに付け加える。
「そうよね。あの子たちの命を守るためにやっているのよね」
そう言って彼女は、拒もうとする私を嘲笑うかのように手を伸ばし、額をそっと撫でていった。汗ばむ私に対照的に、彼女の手は何処までも乾いていた。
「貴女の優しい心はきっと消えないでしょうね。でもね、月、私だって此処で貴女を諦めるわけにはいかないの」
覗きこむその美しい顔を見つめながら、私は朦朧としたまま疑問を感じていた。
何がその目の奥に隠されているのだろう。どうして食虫花は、あの恐ろしい虫を食べる魔女は、こんなにも悲しげな顔をしているのだろう。
「お喋りが過ぎたようね」
真顔に戻るその姿に、背筋が凍った。
絡新婦達は間に合わないようだ。私に出来る事はなんだろう。この女に支配されないように拒むことか、逆に支配してやるくらいの気持ちを保ち続けることだろうか。
「今度こそ時間よ、おやすみなさい」
感情を押し殺した声でそう言って、食虫花は片手をあげた。
新たに蔓が生まれる。妨害出来る者は誰もいない。生じるだろう痛みに認めたくない怯えを確かに感じていたその時、ふと誰かが走ってくる音が響いているのに気付いた。
複数ではない。一人だけのようだ。
けれど、必死に走るその足音は、廊下を踏み荒らして真っ直ぐ此方へと向かっているらしかった。食虫花がちらりとそちらを振り返り、部屋の入り口を睨む。その様子からして、彼女の僕ではないようだ。
そして、《彼女》はこちらが思っていたよりも早く辿り着いた。
囚われる少年や大紫、そして私の姿を見て目を丸くして、青ざめた顔を見せる。その姿を見た瞬間、私の目からは涙がこぼれそうになった。
「月……!」
長かったとは言えないこの短時間で、もう聞けないのかと絶望さえしたその声。まさしく、彼女の――蝶の声だった。
「お願い、月を放して!」
叫ぶ彼女に向かって、食虫花が溜め息混じりに振り返る。武器もなにも持っていない、蝶に対して、虫を食らう花の魔女は紛れもない殺気を向け始めた。