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月食み  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
4/15

4.逆転


 その悲鳴は確かに聞こえた。

 かなり遠く、微かではあった。それでも、悲鳴に伴って伝わってきた感覚によって、印象はさらに強まった。


 ――絡新婦のものだ。


 そう気付いた時、私も、大紫も、そして食虫花もそちらに気を取られていた。何があったのだろうというのは同じなのだろうか。

 ただ、不安がる私や大紫とは違い、食虫花の顔に浮かぶそれは恍惚であった。

 茫然自失となったかのように立ち尽くし、彼女は呟く。


「悲しんでいるの、絡新婦?」


 嬉しそうに、楽しそうに、彼女は笑っていた。

 絡新婦の身に何があったのか分からない。魔力を放ち、空間を揺るがすほどの嘆きが何故生まれたのか、分からない。

 ただ、食虫花のその笑みを見るのは不快だった。

 蔓がうねうねと動き、食虫花と共に遠くにいるはずの絡新婦の様子を探っているようだ。今ここで戦っている私や、大紫の事なんて忘れてしまっているよう。


 ならば、忘れたままでいい。

 聖剣を手に立ち向かう私の存在を忘れていればいい。彼女の心がどうなっていようと、私の大事な蝶を奪ったこの女を捕えるのは今しかないのだから。

 太陽より受け継いだ力が湧き起こり、食虫花を前に興奮している。鼓動が早まり、気持ちが焦っているような気もした。


 絡新婦のことも気になる。

 どうして彼女は悲鳴を上げたのか。今、どうなっているのか。しかし、それらを確認するには、まずはこの女を――この屋敷の主を捕まえなくては。

 手を伸ばし、聖剣を伸ばし、私は食虫花の身体を抑え込んだ。思っていた以上に力はなく、押されるままに壁へと倒れ込む。そんな彼女の首筋に聖剣を突きつけて、私は獣のように吠えた。


「蝶の居場所を言え。言うんだ!」


 しかし、食虫花の視線はいまだ定まらないまま。

 心はまだ悲鳴をあげた絡新婦の方へと向いているらしい。


「絡新婦が泣いているわ。とても悲しそうに泣いている。何もかもすべて、この大地の女神が無力なせいだって」

「食虫花!」


 もう話は通じない。

 勝敗は決している。抗う様子もないのなら、この命は私が握っているも同然。少しでも力を込めれば、白い首筋も傷つき血を流す。かつて逃したようなことにはならないだろう。太陽の力は確実にこの魔女を枯らしてしまうはずだ。

 しかし、食虫花はそれでも恐れた様子を見せなかった。

 何が彼女をそうさせているのだ。

 疑問と共に迷いが生まれた。この女は殺していい存在なのか。月の女神として、聖剣を操る者として、命を奪っていい存在であるのか否か。

 そう迷わせるのはきっと、この女の身体に取り憑いた黒い影のせいだった。


「やるなら、確実にやりなさい」


 その時ふと、食虫花が言った。


「首を刎ねれば私も死ぬわ。御日様のお力があるのなら、前のようにはいかないでしょう。やりたければやればいい。貴女に負けるのならそれも悪くはないわね」


 果たしてこれが死にゆく者の言葉だろうか。

 首筋に剣を突きつけておきながら、私の方が追い詰められているかのようだった。思いきってしまえばいい。ここで倒してしまえばいい。蝶の居場所が分からなくても、屋敷の何処かにいるはずだ。


「月様――」


 大紫が後押しをするように囁く。

 あんなに会いたがっていた妹が見ているだろうに、その命すら握っている魔女の死を願っているらしい。

 ならば、やるしかないだろう。

 そうして、私は力を込めた。魔女の首を刎ねるために、聖剣へと心をこめて、この因縁の全てを終わらせるべき行動を取ったのだ。


「終わりだ」


 そう、それは決して難しくはないはずのことだった。

 全てが私にとって有利となっているはずの状況。刃にほぼ触れている肌をそのまま傷つけるのは簡単なはずだったのだ。しかし、その刃が、その肌が、血を流すより先に、私の予想に反する変化が現れた。


「そうね、これで終わりよ」


 食虫花が冷静に言った。恍惚とした様子もなければ、放心した様子も一切ない。喰い込ませたはずの刃は、あの黒い影によって阻まれ弾き返される。そしてバランスを失い、反射的に離れようとした私の背後には、すでに蔓の壁が出来ていた。


 まずいと思った時には遅かった。すぐに攻撃に転じても、その全てが影によって阻まれた。焦りが焦りを呼び、冷静さを蝕んでいく。そして、影は食虫花の身体から飛び出て、まるで鴉の大群か、蝙蝠の大群にでもなったように私の視界を奪っていった。

 これで怯まないなんてことは出来なかった。

 そうして、あっという間に形勢は逆転する。


「月様!」


 大紫の悲鳴が聞こえた。

 さっきまで壁に抑えつけていたのは私のはず。しかし、今は逆。抑えつけられているのが私の方だった。すぐさま逃れようともがいても、蔓がどんどん手足を縛っていく。聖剣は私の手に握られたまま。それでももう、動かす事は出来なかった。

 一瞬にして頭の中が真っ白になった。

 動こうとしても動けない。絶望が押し寄せて、闘志の炎が自分の心の中で弱まっていくのを感じた。

 駄目だ。いけない。屈服してはいけない。

 それでも、冷たい眼差しで私の顔を覗きこむ食虫花の美しい顔を目にしていると、段々と意識が遠ざかるような気さえしてきた。


「貴女を食べれば全ては終わる」


 その手が私の鼓動を確かめている。


「全てが終わって、私はやっと解放されるの」


 黒い影が食虫花の身体の周りで蠢く。

 あれはなんだ。その影は何なのだろう。何故、食虫花に味方している。魔女の力の一つなのか。私の手足を縛る蔓と同じなのだろうか。ああ、でも何だとしても、この拘束は外れない。外せない。私だけでは、逃れることは不可能だ。


「命乞いをしなさい」


 食虫花が囁く。蔓が更に現れて、私の身体をなぞっていく。右肩を突き刺された記憶が過ぎり、寒気がした。もたらされるのは、あの時以上の痛みだろう。


「さあ、命乞いをするのよ」


 蔓が私の服の上でさまよっている。突き刺すつもりだろう。その前に、存分に恐怖を与えようとしているのだ。そして、情けない事に、その狙いは的確だった。痛みが、屈辱が、絶望が、私の心を蝕んでいく。

 まるで、光を覆う暗闇のように。


「おのれ、食虫花!」


 大紫の絶叫が聞こえた。その姿が食虫花の後ろに少しだけ見える。

 食虫花は微笑みこそしたが振り向かない。大紫は背後から魔女を襲うつもりのようだ。阻もうとする鳳との争いを避け、絡新婦から譲り受けた全ての力を使ってでも、この状況を変えようと必死だった。


 ――駄目だ、大紫。


 振り返らずともこの女は分かっている。大紫が胡蝶であるから舐めているのだ。そしてこいつは、その油断よって墓穴を掘るような弱き魔女じゃない。

 大紫が力を放つ。魔女と呼ぶには弱過ぎる熱がそれでも食虫花を枯らそうと襲う。しかし、その熱波は当たりもしなかった。彼女を守ったのは蔓。そして、私の攻撃も阻んだ無数の影。大紫の魔術をそのまま跳ね返してしまった。

 自分の力に突き飛ばされる大紫の悲鳴と姿がちらりと見える中、次第に私の視界が虫にでも喰われるように暗くなっていく。


 ――意識が……。


 強く縛られているせいなのか、食虫花の甘い蜜のせいなのか。


「月様、ああ、放して……お願いよ、放して!」


 大紫の悲鳴が聞こえる。


「だめよ、放さないわ、姉さん。お願いだから、もうやめて。食虫花様、どうか、姉さんは殺さないで――姉さんだけは……」


 鳳の叫びが聞こえる。

 薄れゆく視界の中で、目の前に居る食虫花が私から目を逸らし、興味深そうに胡蝶の姉妹を見つめている。刎ねるはずだった首筋を曝したまま、私の前で、動けない私の前で、油断した姿を見せている。

 閉じかける瞼を必死に開けて、私は目の前の敵を見つめた。

 首筋。白い肌。その白に映えるペンダント。魔力でも宿っていそうな黒い石が、私にもたらす死を象徴するように輝いていた。

 黒。輝き。まるで生きているように、何かが蠢いている。


「鳳、泣くのはおよし」


 食虫花の声が響いて聞こえる。


「この部屋から――邪魔されないよう――なさい」


 意識が狂い始める。

 ああ、蔓だ。蔓のせいだ。全身が痺れ、呼吸すら苦しい。意識を保っているだけで精一杯の私を、食虫花は視線すらくれない。

 しかし、彼女にまとわりついている黒い影が、私の身体にそっと触れてきた。

 人の姿もしていなければ、獣の姿もしておらず、植物の姿すらしていない。いかなる命あるものの姿もしていないそれは、だが、私の耳元に触れると確かに声を放ったのだ。


『まだ抗うのか、月』


 得体の知れない声だった。男のようでもあるし、女のようでもある。ただ非常に長い時を過ごしているような声だった。


『すでに勝敗は決した。お前は負けたのだ。大人しく物言わぬ星となり、新たな器の中で輝くものとなれ』


 こいつは何者なのだろう。

 声を聞くだけで不安になる。まるでこの世界に私とこいつしかいないかのようにすら思えてきた。視界も殆どなくなり、すぐそばに食虫花がいることすら忘れてしまう。


『不滅のものなど存在しない。お前の代でこの大地は変わる。いつまでも太陽の好きにさせてはならない。月よ、お前を太陽の妾という立場から解放してやろう』

「何が目的だろうと、余計な事だ」


 話す事は出来た。呼吸は苦しいままだが、声は出る。


「頼んだ覚えもなければ、願った覚えもない」


 何処が顔かも分からない影を睨みつけ、私は問いただした。


「お前が食虫花を操っているのか? 幼い私を襲わせ、我が森を狂わせるよう行動したのは全てお前の指示なのか?」

『命令したのではない。私は力を与えただけだ。全てはこの女の願い。自分が神となり、秩序を産むのがこの花の願い。だから私は協力した。それだけのこと』


 影は蠢き、感情がないかのように語る。


「お前が力を与えなければ、食虫花は化け物にならなかったのではないのか。お前は何者だ。何のために存在し、何のためにいるんだ」


 生き物でないのなら、神であるとでもいうのだろうか。

 実体をもたない神ならば、ひっそりと生まれてひっそりと存在し、ひっそりと世界を狂わせることだってあるかもしれない。だが、何のために、どうして、私を襲うのか。そして、どうして太陽を憎んでいるのか、分からない。


『私の名前は蝕』


 影の声が私の耳の中で響く。


『太陽と月の大地を枯らす者。そして、全てを無に帰すものである』


 ――蝕。


 聞いたこともない敵が、此処に居た。

 太陽。もしかしたら彼女も知らない敵かもしれない。そして、真の目的は彼女なのかもしれない。私を壊し、月の大地を滅ぼした後、太陽の支配する大地を枯らしていくのが目的なのだろうか。

 ならば、それは何故行われるのか。


「やめるんだ。どうして、私達の大地を枯らそうとするんだ」

『それが私の役目。生まれた意味だからだ。今ある土地を枯らして、新しい世界を作るのが私の役目。お前たちの命で成り立つ不完全な大地を死なせ、私の支配する完全なる大地を生みだすために、お前たちを手に入れに来た』


 一体何者なのだろう。

 こんな存在、聞いたこともない。

 現実味のない空間の中で、私と蝕だけがいるようだった。ここが戦いの最中であることすら忘れてしまいそうだ。


 ――いけない。


 視界が狭まるのを感じて、私は慌てて瞼を開くことを意識した。途端に影と私の二人だけのように見えていた空間が広がり、本来の光景が甦って来る。

 食虫花の蜜の香りを感じる中、暗闇が音もなく晴れていき、埃っぽい屋敷のない層が目に映る。見えてきたのは食虫花の背中だ。蝕と名乗ったあの影をまといながら、彼女はじっと私以外の者を見ている。

 いつの間にか気を失っていたのだろうか。


「無駄よ」


 雷鳴のような彼女の声が耳に届く。


「月は負けた。お前たちに残された道は降伏のみ。新たな時代を共に生きるか、ここで朽ちはて過去の者となるか、真面目に考えなさい」


 ぼやけた視界の中、厳しく命じる食虫花を絶望的な目で見ている人物が三人ほど見えた。そこに花狩人の人間たちはいない。怒声が聞こえるから、きっとまだ蝙蝠の男と戦っているのだろう。

 しかし、その代わり、先程はいなかった顔が見えた。


「冗談じゃない。お前なんかに従うものか!」


 声を張り上げて銀色に輝くナイフを此方に向けるのは、随分と勇ましく成長した野生花の少年の姿。華によく似ているけれど、年々、少年と少女という違いがはっきりと出てきている。美しく、儚くも、それでいて力強さがある姿。しかし、その勇ましさは花であるという身の上、この世界の殆どの者に対して無力なもの。


「だ……め……」


 彼に何かあれば、華の心が酷く傷つくだろう。私も嫌だ。彼もまた私の足元で咲く白い花の一人なのだから。


「嫌なら抗ってみなさい、名もなき花の少年」


 先程とは打って変わって、食虫花は優しげにそう言った。


「お前は華とは違う。月の森で生まれ、月の森で育った白い花。お前たちの態度は重要なものよ。これからは私の為に咲きなさい」

「傲慢な魔女め。お前の為に咲くものか。僕達は月様の為の花だ。代々の月様と共に紡がれた歴史をそう簡単に潰されてなるものか!」


 勇ましい。けれど、危なっかしくて怖かった。

 声は出そうにない。毒でも盛られたように身体が辛かった。甘い香りがずっと私の周りで漂い、黒い影が時折、私をからかうように接触している。

 ああこれは、食虫花に囚われたあらゆる虫達の経験してきたことなのだろうか。

 だとしたら、なんて恐ろしいのだろう。


 ――蝶、君は何処に居るんだ。何処でどうしているんだ。


 せめて太陽の加護が彼女を守りきっていると信じるほかなかった。この屋敷の何処かで私の迎えを待っているはずなのだ。


 ――行かなきゃ、でも、どうやって……。


 手を伸ばしながらもがこうとすれば、すぐに蔓が私の立場を思い知らせようと縛りつけてくる。意識を保っているのは奇跡だった。気を抜けばまた、蝕と二人きりの闇の世界に呑まれてしまいそうだった。


 ――ああ、蝶。


 殆ど身動きすら取れない中、私はただ絶望と共に愛するその娘を求めた。


 ――もう一度、君に触れたい。


 この声を向ける先は、一体何処なのだろう。

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