3.微笑
◇
食虫花が微笑を浮かべる。薄暗い影を帯びた笑みが凍りつくように美しかった。
いつからそこに居たのかは分からない。亡霊のように現れた彼女は、素直に従った鳳の腕を掴んで乱暴に退けさせると、そのままじっと私ではなく大紫へと視線を向けた。
「鳳のお姉さん。本当ならお前とこの子は離ればなれにならないはずだったわ。それを台無しにしたのは誰だったかしら」
大紫が震えている。
聖剣を構え、私は食虫花に向かった。しかし、矛先は蔓によって弾かれた。
「分かっているのでしょう、大紫」
食虫花は黙らない。私の相手をしながらも、その目はまだ大紫に向いていた。
「その名前をくれた人と私。対立し続ければお前達は一つに戻れない。絡新婦を殺せばお前は死に、私を殺せばこの子は死ぬ。けれど、大紫。お前達が一つになる方法はまだ残っているのよ」
絶望の中に突如舞い込んできた光。
その光が偽りだとも気付かないのか、大紫はじっと食虫花を見つめていた。
「聞いちゃ駄目だ、大紫」
そうは言ったものの、彼女の耳にはやはり届かないようだ。
彼女の意識を握っているのは食虫花。怪しげな魔女の術中にいるようだった。
「絡新婦。あの子がもしも私の隷属になったならば、彼女の隷属であるお前たちも私の物となる。そうなれば、姉妹はずっと仲良く此処で暮らせるの。どう? いい話でしょう?」
「絡新婦様は隷属になんかならないわ。そんなこと、あるわけがない」
言い返すその声に力が入っていなかった。
不安な姿だった。きっと彼女の中では天秤が動いているだろう。私の味方をし続けることと、探し求めた妹との未来のことを。
「そうね、あり得ないわね」
食虫花が笑っている。隙を見つけては斬りかかろうと狙ってみるも、蔓は目ざとく盾となり、私の聖剣を弾き返す。
そうしながら、食虫花はなおも大紫から目を離していなかった。
「でも、絡新婦にも弱点があるわね。そうでしょう、大紫。貴女の存在が無価値なものだなんて、仮にも魔女の端くれのあの子が言えるかしら」
大紫を人質に絡新婦を脅すと言うのだろうか。
「食虫花、お前は……」
おぞましい。何処までも残酷なことが出来るこの魔女が怖かった。
震えた声で剣を向けると、食虫花はやっと私に目を向け、非常にあっさりとした動作で蔓を伸ばした。慌てて離れる私を、蔓の先が狙う。もしも当たれば容赦なく身体を貫かれてしまうかもしれない。
かつて受けた右肩の傷を思い出し、若干の怯えが生じた。
「私を怖がっているの、月?」
食虫花が微笑みながら私を見つめる。
「可愛いわね。強がっていても、月が満ちようとしても、やっぱり貴女は五歳の時とあまり変わらない。怖がらないでおいでなさい。痛いのはほんの一瞬よ。太陽に使い捨てられるくらいなら、私の中で永遠に輝き続けなさいな」
一歩、彼女が近づいた瞬間、背筋が凍りついた。
「来るな。食虫花!」
恫喝するような思いで叫ぶと、食虫花はじっと立ち止まり、静かに目を細めた。
「大紫、御覧なさい。貴女達が信じている女神は私を怖がっている。その輝きを御覧なさい。もうじきよ。もうじき、その人は消えてしまう。たった一人の娘を産んで、消えてしまうの。せっかく女神として完成しても、死んでしまっては意味がない」
亡霊にでも取りつかれたかのように、食虫花は虚ろな様子でそう言った。伸ばされた蔓が私へと襲いかかる。それらを聖剣で弾き返しながら、私は必死に威嚇した。
「来るな!」
接近されるのが怖かった。
太陽の力を信じていても、やはり、殺されかけた記憶が鮮明に甦って来る。
「でも、今の私なら」
食虫花は言う。
「私ならその輝きを永遠のものに出来る。おいで、月。女神なんて辞めて、その心臓を差し出しなさい」
やはりこの魔女は狂っている。
この大地に居ながら、当り前の食虫花としての生き方を拒んだ女。何が目的なのか、何が理由なのか、私には分からない。ただ、分かっていることは一つだけ。
この女は罪を犯している。
私にとって許しがたい罪を。
「蝶は何処だ」
聖剣を構えたまま、私は問いただす。
「蝶は何処に居る」
愛しいあの子は影すら見えない。
鳳が口走ったことがさっきからずっと引っかかり続けていた。
帰ろうとしたから何なのだ。帰ろうとしたから、どうしたというのだ。全てはこの女が握っている。食虫花が握りしめている。
恐ろしい花の魔女。胡蝶の心身を甘い蜜でからめとる術に長けた彼女は、私の問いを受けて残酷に、そして愉しそうに、笑った。
「貴女の弱点も分かりやすいものね」
そう言って食虫花は優しげに指示を出して鳳を下がらせる。
「私が貴女の代わりにあの子を愛する事も出来る。貴女は永遠に私の身体の中で輝いて、あの子を肌で感じることも出来るのよ」
「そんな事は信じない」
恍惚とした魔女を睨みつけながら、私は聖剣を振るった。
「たとえそれが事実だとしても、受け入れない」
食虫花はきっと私を喰い殺しても大地が枯れないと思っているのだろう。
だが、魔女に支配されるのは御免だ。
此処は私の大地。月として生まれ、月として育った以上、そう簡単に屈服するわけにはいかない。仮にも女神なのだから。この大地の命なのだから、剣を捨てるわけにはいかないのだ。だから、私は戦う。戦うしかない。蝶を取り返して、平穏を手にして、執事と女中頭などの人間たちが待っている城に帰るのだ。
そう、約束しているのだから。
「蝶を返せ。さもなくば、お前の命はこの剣で貰わねばならない」
怒りが黒い炎となって私の心を滾らせる。今にもあの年を取らぬ女の白い首を刎ねなければ気が済まないほどだった。
それでも、食虫花は私を恐れなかった。
「物騒ね、月」
そう言って手を伸ばし、私を招こうとする。
その不可思議な動きに足を奪われそうになり、私はぐっと踏みとどまった。蔓がうねうねと動いている。まるでうろたえる蛇のような動きだが、蛇などとは比べられないほど、ずっと禍々しい。
誘われぬ私を見つめ、食虫花は軽く手を合わせた。
「さすがは女神様。そう簡単に術には囚われないのね。ああ、三年ほど前の奇跡が忘れられないわ。年が明けたからもう四年前ね。貴女の肩を貫いた時の感動が忘れられない。貴女の悲鳴が聞こえてきた時の喜びが忘れられない。ねえ、月」
暗い眼差しと共に、食虫花の身体を影が覆う。
まただ。何か変な気配がする。前にもあっただろうか。食虫花の周りで、彼女とは別の何かがまとわりついているかのようだ。
絡新婦は言っていた。食虫花の背後には何かがいるかもしれないと。それが本当で、この屋敷の何処かに潜んでいるのでなければ、その居場所はもしかして、食虫花自身の身体ではないのだろうか。
「食虫花」
私は名もなきその花を呼んだ。
「お前はどうして私を欲しがる。お前はいつから、月というものを欲しているんだ」
この女は何者なのか。
いつから存在し、かつては何者だったのか。
この女だって生き物のはず。この世に現れた時はこうではなかったはずだ。食虫花として生まれたとしても、食虫花らしく捕食し、枯らされるまで咲き続けるだけの存在だったはずなのだ。
それがどうしてこうなってしまったのか。
「食虫花、答えてくれ。《貴女》はどうして――」
「貴女のお母様――先代の月が死んだ頃からよ」
淡々と彼女は答える。
「それは、貴女が生まれた頃からでもあるわね」
初めて接触されたのは五歳のころだったと言う。私は殆ど覚えていない。覚えているのは母の遺した人工花の面影だけ。誰かについて行こうとした私を必死に庇う、勇ましげな白い女性の姿だけ。
それから二十年経つまで、私は食虫花という脅威の存在すら気付かずに育った。しかし、食虫花は――彼女は違ったのだ。
「幼き貴女を取り逃がして、ますます私は貴女を欲した。二十年経って、成長した貴女に敗れて、ますます私は飢えてしまった」
そこまで言うと深く溜め息を吐き、食虫花は額を抑える。
「分からないの。どうして貴女を欲したのか。ただ、月と呼ばれる者を食べてみたい。食べなくては。それが私の役目だと言われた。何に? そして誰に? 分からない。分かっているのは、貴女を捕えなくてはならないということだけ」
茫然としながら喋り続ける食虫花の身体を影が覆う。
聖剣を掲げ、私はその影の方を睨みつけた。
真に斬るべきはどちらなのか。本当の敵は何なのか。その判断を慎重にしながら、私は食虫花に呼びかけた。
「ならば、戦え。私を捕まえてみろ」
「……月様」
不安げな大紫の声が背後から聞こえてくる。
妹の姿への衝撃から立ち直れていない様子だ。どちらにせよ、大紫を必要以上に頼るわけにはいかない。彼女は胡蝶。絡新婦の隷属であり、その恩恵を受けているといっても、胡蝶は胡蝶。食虫花に囚われれば喰い殺されるだけの存在なのだ。
その命を散らすわけにもいかない。
「大紫、君は絡新婦に知らせてくるんだ。此処に屋敷の主人がいると」
「でも――」
「不可能ならば、少年と共に花狩人達を援護するんだ」
そうとだけ言い残して、私は食虫花に襲いかかった。
太陽は何処かで見ているのだろうか。私のこの不器用な戦い方を見て、憐れんでいるのだろうか。絶対的なあの女神ならば、食虫花なんて簡単に倒せるのかもしれない。私とは比べ物にならないほど長く存在している彼女ならば、もっと頭のいい方法で食虫花に対抗する事が出来るのかもしれない。
私は太陽ではない。持っている力は彼女から授かったものばかり。この聖剣だってそうだ。でも、与えられているのは私。使いこなせると信じて与えられているのだとしたら、自信を持たずして何になる。
「覚悟しろ、食虫花!」
聖剣を手に吠える私を、食虫花の蔓が防ぐ。
彼女自身はまだ額に手を当てたまま。苦しそうに呻いているのは何故か。その理由とでも主張するように、黒い影は彼女の身体に取り憑いている。
異変を感じて距離を取る私を、刺すような食虫花の視線が睨みつける。
捻り出すように食虫花が言葉を放つ。
「覚悟するのは貴女の方よ」
その直後、食虫花の身体より四方に向かって蔓が伸びていった。私を捕えようと動く蔓。しかしその動きにばかり気を取られていてはいけない。食虫花は魔女だ。距離を取っていても、蔓以外のものを操って襲いかかってきても不思議ではない。
全てを叩き潰すには身体を斬りつけるしかないだろう。
荒々しい思考と共に走り出せば、食虫花を守るように蔓が動きだす。私もそうだが、奴も何処か必死だった。
――苦しんでいるのか、食虫花。
狂っているようだと知ったのは、初めて彼女と敵として認識した時からだった。この大地に暮らしていながら私の命を狙うなんてあり得ない。それでも、彼女は確かに存在した。私の敵として、延いては、太陽の敵として存在していたのだ。
ただの食虫花のはずだったのに。
――どうして。何故。
そんな私の疑問に全て答えられる者なんているだろうか。太陽ですら分からないかもしれないのに。
何が正しくて、何が間違っているのか。
分からないまま、私は戦っている。それは混乱を呼びこみかねないことでもあった。敵を知らねば力は出せない。私に剣術を授けた師範はそう言った。それはきっと確かなことなのだろう。
「迷っているわね、月」
蔓に守られながら、食虫花が口を開く。
滑らかな指が私を差すと、蔓の幾つかが私に向かって飛び掛かってくる。蛇のように動くそれを剣で斬りつけたとしても、食虫花は少しも動じない。
「そのまま考え続けなさい」
食虫花は言う。
「闇雲に私を殺すのが正しいのか。私に敗北したら、どうするのか」
「敗北なんてあり得ない」
蔓を斬りつけながら、私は言い返す。
「私は女神でお前は魔女だ。蝶を返せ。どうしても返さないのなら、真の反逆者としてお前を滅ぼさねばならない。まだ私を支配するというのなら、太陽より授かったこの力で、お前を隷属達の命と共に燃やし尽くさねばならなくなるのだぞ」
大紫はどんな顔をしているのだろう。
隷属になってしまった以上、それがどれほど強固な契約となるのか、絡新婦の隷属である大紫にならよく分かるだろう。だからこそ、彼女は消沈してしまった。ずっと探していた妹が敵の隷属となってしまっている事実に絶望してしまった。
彼女はどんな顔をしているのだろう。
そして、どんな判断を下すのだろう。
「――月様」
泣き出しそうな大紫の声が背後より聞こえてきた。振り返っている余裕のない私の背を支えるように、彼女は言う。
「絡新婦様の隷属として、私は貴女様に全てを託します」
その直後、大紫が力を放った。糸のような光だ。弱々しくも見えるが、むやみに当たってはいけないとすぐに理解出来る。
きっと隷属として主人の絡新婦より受け取った魔力だろう。魔女の弟子となって引き継いだものというには物足りない。そもそも日の輪をくぐれる程度にしか魔力を持ってはいないだろうから。
それでも、大紫の力は有難いものだった。
食虫花の集中を逸らすには十分過ぎるほどだった。
「忌々しい!」
苛立ちながら大紫の魔術を避け、慌てたように蔓を操る。体勢は既に崩れ始めている。鳳に戦う力が無く、蝙蝠の男を人間たちが引き受けている以上、勝機はいつしかこちらに舞い込んで来るはずだ。
光は射している――はずだった。