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月食み  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
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5.救


 食虫花に取り付く影を聖剣が貫いたその時、眩い光がわたしの目を奪った。

 何もかもが白い光に包まれるより前に、わたしの瞳が捉えたのは、光の矢のように美しい月が、実体のない悪魔のような生き物の身体を貫いていく光景だった。それはまるで幼い頃に聞かされたおとぎ話のように美しく、幻想的な瞬間でもあった。

 光輝くなかで禍々しい叫び声が聞こえた気がした。


 月のものではもちろんない。だが、食虫花のものでもなかった。男のものにも聞こえたし、女のものにも聞こえた。年老いているようにも思えたし、若いようにも思えた。あるいは、そのどれでもないようにも聞こえた。

 あれは何の声だろう。

 答えは光の弱まった世界にも残されてはいなかった。


 光の弱まる戦いの場。立ち尽くしているのは月で、座り続け俯いているのは食虫花。聖剣は床に向けられ、何者かを斬った月の視線は食虫花とは違う場所に向けられたままだった。

 誰もがその二人を見つめたまま惚けていた。

 黙ったまま、息をするのも忘れるくらい静かに、月と食虫花を見つめていた。

 その沈黙を破ったのは、食虫花の呻く声だった。苦しそうに胸を押さえ、床に伏せたまま咽ている。ついに耐え切れず床に伏せる彼女へと鳳が真っ先に駆け寄った。


「すまない」


 月はそんな食虫花は直視せず、ただじっと切りつけたものが消えた場所を見つめていた。


「こうするしかなかった。すまない、皆」


 月のそれは共に戦った者たち全てへの言葉のようだった。

 食虫花が苦しんでいる。

 そんな魔女を鳳が抱きしめ、そして、蝙蝠の男が見つめている。どんなに主人が苦しんでいても、その隷属である二人に異変は感じられない。それは何故なのか、何が起こっているのか。

 見つめているうちに、やがてその変化は訪れた。


「食虫花様……」


 抱きしめる鳳の手の中で、食虫花の身体が光に包まれていく。柔らかな月の光のようだった。美しい白に包まれながら、食虫花の身体はどんどん縮んでいった。そうして彼女はゆっくりと変わっていく。美しい人間の女性のようだった姿から、美しい花をつける物言わぬ植物の姿へと少しずつ変わっていく。

 鳳の見つめる目の前で、食虫花は動かなくなっていく。そんな自分を抱きしめる妾の姿を、食虫花もまた見つめていた。

 その口が微かに動く。しかし、何を言っているのか、その言葉はわたしには聞き取れなかった。

 そうして、食虫花は完全に花へと変わってしまった。物言わぬ花へ。わたし達花でしか言葉も解せないような存在へと変化してしまった。かつての魔法も使えなければ、移動することも出来ないだろう。

 ただ一つの美しく大きな花として、この場所で咲き続ける存在へと変わってしまった。


「食虫花」


 月は言った。


「お前は必要以上に死と絶望を振りまいた。これ以上、我が森を荒らす前にお前からはその力と、有害な後ろ盾を奪おう。その姿でこの場所でひっそりと咲き続けるといい。月がこの地にいる限り、もうお前の心を侵す不届き者は現れないだろう」


 そして、月は息を吐く。


「私と太陽を害そうとする蝕はもういない。お前と私が敵対してぶつかる日々も終わった」


 それはつまり、戦いが終わったということ。

 鳳も蝙蝠の男も、そしてその他の屋敷に隠れ住む全ての者たちも、死なずにすむということ。


「これが、私と太陽――私の主人の裁きだ」


 女神は言った。一切の暗闇を晴らす光のように、そう言い放った。生まれ落ちた時より崇拝する女神にそう言われ、誰が反論できるだろうか。

 食虫花は恐ろしい魔女だった。その犠牲になった者は少なくなく、虫たちだけではなく、花や人間たちを含めたケモノだって同じだっただろう。それでも、邪まな存在が掃われ、死の花がただの有り触れた花へと変わってしまった以上、もう誰も彼女を責めることは出来ないのだ。


 枯らしてやると花狩人達は言っていた。

 月を害する存在として、人間たちに手を出した化け物として、同胞を傷つけた罪人として、彼らは食虫花を討伐するために此処まで来た。その意気込み、怒り、勢い、そして恐れはそう簡単に鎮まりはしないだろう。

 それでも、花狩人達は、この場にいる誰よりも先にひれ伏して女神に追従した。それに倣うように、絡新婦たちが、蝙蝠の女たちが、隣に居た少年が、膝をついて頭を下げた。


 もう誰も、鳳や蝙蝠の男の命を狙わない。そんな視線を受けながらも、鳳はただじっと物言わぬ花へと変わってしまった己の主人の花びらにそっと触れて、静かな口づけを交わすと、音もなく立ち上がり、そのままふらりと月の前へと歩みだした。

 蝙蝠の男も同時に歩み出す。二人がのろのろと近づいて来るのを、月は冷静に見つめていた。どう出てくるとしても、月は慌てたりしないだろう。わたし達が固唾を飲んで見守る中、二人は遂に月の目の前へと到達し、そして……そして、示し合わせたようにほぼ同時に膝をついて頭を垂れたのだった。


「どうぞ、女神様」


 項を曝した状態で、蝙蝠の男が真っ先に口を開いた。


「我が主人は敗北しました。貴女の力を前に、もはやかつての魔女でもなくなってしまった。我が主人が断罪によって滅ばず、この身もまた滅ばないというのなら、我らが命を握るのは貴女様です」


 それはわたしが想像もしなかった姿だった。

 蝙蝠の男。彼はずっとわたしにとって幽霊よりも怖い存在だった。食虫花の右腕として、かつて月の城に住んでいた人工花の女性を殺したと聞いている。食虫花の傍らで、彼女を諌めることもなくずっとその悪事に加担してきた彼。

 けれど、その降参はあまりにも呆気ないものだった。

 鳳は黙ったままだった。黙ったまま蝙蝠の男に倣って項を曝していた。その姿を、月もまた黙ったまま見下ろしていた。


「蝙蝠の男」


 やがて、月はぽつりと話しかけた。呼ばれた男は小さな声で返答する。その返事を受けてから、月は言った。


「お前は昔、罪を犯した。先代の大事にしていた花を――幼き日の私が受け継いだ花を枯らした罪だ。覚えはあるか?」

「ええ、勿論。このまま罰として首を刎ねられたとしても、悔いはありません。命じたのは食虫花様。しかし実行したのは私。それは隷属など関係ない。どんなに心身を穢したとて、食虫花様に付き従おうと考えてのことでありました」


 淡々と彼は言った。

 抵抗する気配は何処にもない。本当に、このまま月の聖剣に斬られてもいいと思っているのかもしれない。

 そんな彼を月は見下ろし続けた。


「それは本心のことか。その為に、今ここで我が剣に血を吸わせることになっても構わない、と?」

「はい、女神様」


 諦めたように笑み、目を閉じる蝙蝠の男。

 魔女の隷属として、ずっとずっと食虫花の傍に付き従ってきた彼の心情なんて、わたしには想像も出来ない。ただ、今の彼は嘘をついていないように見えた。本当の、本当に、月に全てを委ねるのだろう。

 そんな蝙蝠の男を前に、月は聖剣を持つ手をすっと上げた。そして、覚悟を決めて項垂れる蝙蝠の男の目の前で、突如、月は思い切り床を突き刺したのだ。


「分かった。蝙蝠の男。そして、鳳。罰を求めるというのなら、お前たちへの刑を言おう。この場所で他の隷属達と共に主人を守り、もう二度と邪悪な者の器にならないように見張れ。何かおかしなことがあったら、我が城に伝えろ。それがお前たちに課せられる新しい役目だ」


 その言葉に、蝙蝠の男も鳳も驚いたように顔を見上げた。

 殺されるとでも思ったのだろうか。それほどの罪を犯していた自覚はあったのだろう。見上げた先にあった月の姿に、彼らはどんな印象を抱いただろう。わたし達の月は、それほどまでに神々しく輝いていた。


「女神……様……」


 驚きを隠せない様子で蝙蝠の男は呟いた。身体は小刻みに震え、目は見開かれたまま月の美しい姿に留まっている。そうして感傷に大きく揺さぶられ続けた彼は、やがてようやく両目を瞑ると、先程よりも深く丁寧に頭を下げた。

 口を開いたものの、いつものように舌は回らず、口上すらも思い浮かばないらしい。そのくらい、月の命令は彼にとって意外な事だったらしい。

 鳳もまた同じだった。月を見上げたまま、茫然としている。その美しい姿に見惚れてしまっているのだろうか。そんな鳳の視線を静かに受け止めると、月はくるりと振り返り、わたし達の方へと向き直った。


「戦いは終わりだ」


 穏やかで、落ち着いた声だった。


「城に帰ろう」


 皆の返事も待たずに歩み出す月。そんな彼女に花狩人達が真っ先に従う。蝙蝠の女や花の子も続いて行く中、大紫が立ち止まっているのに気付いて、わたしも思わずそちらに目がいった。

 大紫は妹を見つめていた。新しい役目を授けられ、これからもこの場所で生き続けることとなったその妹は、立ち去る月の姿ばかり見つめていた。そんな彼女に話しかけようか、話しかけまいか、迷っていたのだろう。

 しかし、そんな大紫の手を蚕がそっと握った。無言のまま、彼が主人の意を伝えると、大紫は静かに微笑みそれに従った。

 絡新婦のもとへと大紫も戻っていく。でも、わたしは取り残された鳳と蝙蝠の男、そして言葉を失い咲き続ける美しい花を見つめ続けた。


 花は美しく、凛として、それでいて何処か可憐に咲いている。

 あれが長く月を脅かしてきた魔女だったなんて、誰が信じられるだろう。

 月がもたらしたものが太陽の裁きであるのなら、きっともう彼女が動くこともないのだろう。この場所で蝙蝠の男や鳳に守られながら咲き続けるしかないのだろう。

 彼女に宿っていた蝕というもの。得体の知れないあれが、再び月を狙って現れる日はくるだろうか。来たとしても、あの二人をはじめとする隷属たちが、そして月の城や太陽が見張る以上、食虫花が今までのように暴れ回ることもないだろう。


「華」


 じっと見つめ続けていたわたしに、蝶がそっと囁きかける。少年も一緒に待ってくれていた。二人の顔を見つめると、蝶が優しくわたしの額を撫でていく。


「そろそろ行きましょう」


 その優しくて甘い声に、わたしの緊張もやっと解かれた。



 あんなにぴりぴりしていた日々が嘘のようだった。

 月の城の庭は今も日の輪に守られているけれど、去年までのように言葉に出来ない恐ろしさの漂う場所ではなくなった。


 年が明けて数週間。わたしも少年も、もう平穏な日々にどっぷりと身をつかり、特に何もないけれど幸せな日々を過ごした。新たに加わった刺激と言えば、一つ。名もなき白い花の子が遊び相手に加わったことくらいだ。

 蝙蝠の女が迎えに来るまで、白い花の子はわたし達と共に過ごしてたくさん笑う。一年前にこの城から貰われていった日精とも違う新たな友達との日々は、寂しさなんて縁遠いくらいわたしに楽しさを与えてくれる。


 日が暮れるまで三人で過ごす時間はあっという間に過ぎていく。蝙蝠の女が迎えに来る頃には、少年と二人で白い花の子を見送り、程なくしてその少年も森へと帰ってしまう。寂しいけれど、その寂しさに浸る暇を与えてくれないのが蝶の存在だった。

 皆が帰ってしまうと、わたしはまっすぐ温室へと向かう。

 そこで蝶を待つのだ。


「華、いる?」

「うん、いるよ」


 温室の中で座ってその訪れを迎え入れると、わたしの心身はもうすっかり受け入れる準備を整えている。わたしがこれまで見てきた美しい胡蝶の中でも、一際目立つ愛らしさを持っている蝶。彼女に触れられるだけで、わたしは堪らなくなって身を預ける。そして、蝶の口づけを受け取ると、わたしの身体の中で蜜が悦びと共に騒ぎ出す。

 そうして、夕餉のための蜜吸いは行われていく。

 もう月を脅かすものはいない。もうこの城を襲うものはいない。先代の月の時代までは、それが当り前だったらしいけれど、その当り前をわたし達は知らなかった。なんて幸せなのだろう。誰からの暴力も恐れなくていいなんて。

 蜜吸いが終わって寝そべるわたしを蝶は優しく労わってくれる。その温もりに存分に浸りながら、わたしは今日もとりとめもない一日のことを話した。


「白い花の子がね、言っていたの。食虫花のお屋敷は本当に静かだって。蝙蝠の男も普通の蝙蝠みたいに暮らしながら、月の言いつけを守っているんだって」

「ええ、そのようね」


 蝶は穏やかな声で答えた。


「絡新婦や蚕も言っていたわ。大紫が度々、鳳に会いに行くそうよ。食虫花は姿だけでなく心も変わったのだとか……。いいえ、もしかしたら元に戻ったのかもしれないね。昔を思い出しては、声なき声で鳳に語るんだって」


 その目はもう食虫花への怯えを感じられない。

 蝶の身体に刻まれた古傷は完全に消えたりしないけれど、その恐怖の対象は食虫花の中から何処へともなく消え去ってしまったのだろう。


「幸せね」


 蝶はぼんやりと呟いた。

 平和を取り戻しましょう。

 その誓いが守られた世界が此処にある。とても貴重で、とても大切な時間が有難かった。けれど、ふとわたしは不安に思う。この幸せはどのくらい続くのだろう。悲しみから遠ざかっていられるのは、あとどのくらいなのだろう。


 月は最近、先代の肖像画を眺めている。

 そんな月を恋しがって、わたしも絵を見つめる日が来るのだろうかと思うと、今から怖くなってしまう。

 でも、それはまだ先の事。まだまだ先の事。怖がっても、考えても、その時はいつか来てしまうのだから、せめて今はこの幸せな時間を楽しみたい。

 同じように蝶も感じていることだろう。


「蝶」


 切なげなその表情に、わたしは呼びかけた。そして、気を抜けば逃げてしまう妖精を捕えるように、蝶の身体に抱きつくと、さり気なく自分から蜜を流しこんだ。


「もうちょっとだけ、一緒に居て」


 蝶は驚いた顔をしていたけれど、その懇願に優しく笑顔を向けてくれると、ゆっくりとわたしの身体を倒し、柔らかくて温かいキスをしてくれた。

 そのキスは、とても甘くて、切なくて、心が蕩けてしまいそうな味がした。

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