4.剣
◇
剣と蔓。二つの凶器が向かい合っている。
食虫花の蔓は鎌首をもたげる蛇のように月を狙っていた。
わたしには果てしないくらい長い間、あの花の魔女は月の命を欲してきたのだという。月はこの大地そのものの命。一体なんの理由があってそんな月のことを狙っているのか、わたしにはどうしても分からない。どんな理由を教えられたとしても、納得することは出来ないだろう。
月に残された時間はあとわずか。
三十年という寿命が本当なら、あと一年と少ししか残されていないということになる。考えれば考えるほど、時間はとても貴重なものに思えるというのに、安息すら許してくれないなんて。
日が経つにつれ、神々しくなっていく月。
この先、彼女に何が起きてしまうのか。わたしや蝶は何に直面するのか、まだまだ分からないことだらけだ。しかし、その現実がどんなものだとしても、食虫花の脅威が去らなければ、その貴重な時間さえも無慈悲な形で過ぎ去ってしまう。
平和を取り戻しましょうと蝶は言った。
月が目覚めた今、その平和は月自身の手に委ねられている。
食虫花が求めているのは何なのか。その背後にいる蝕とかいうものが狙っていることは何なのか。
蝶が命がけで奪った石のペンダントは、月の聖剣によって粉々に打ち砕かれた。それにもかかわらず、蝕はまだ食虫花の身体に付きまとい、守っているかのようだった。
もはやあの魔女と影は切っても切り離せない関係なのかもしれない。
だとしたら、月に出来ることはただ一つ。花の魔女の命を聖剣で刈り取って、そして――。
「鳳……か」
蝙蝠の男の魔術で近づけない戦いの場。その向こうで己の命を握る女主人の戦いの行く末をじっと見守っている鳳の姿を、大紫もまた静かに見つめていた。
「もう、戻れないのね……」
虚ろな表情。虚ろな目。震える唇から零れ落ちたその言葉は、過去を思い出して哀しげに恋しがるように見えた。
鳳。そして、名もなき蝙蝠の男。
二人だけではなく、この屋敷には食虫花と運命を共にする生き物たちがたくさんいる。蝶の閉じ込められていた地下牢にも、たくさんの人たちが閉じ込められていた。胡蝶の女性だけではない。別の檻には男性もいたし、他種族の者もいた。
皆、運が悪かったのだ。
ともに月の味方として立ち上がってくれた蝙蝠の女や花の子だって、この場所に囚われながらなんとか逃げ出せたのだと言っていた。二人は運がよかった。隷属になる前に逃げ出せたのだから。けれど、他の人たちはどうだろう。
命が惜しくて魔女の隷属に下ってしまうことは罪なのだろうか。
女神の聖剣に裁かれなければならないほどのことなのだろうか。
月に勝ってほしい。月に負けてほしくない。食虫花は悪だと思ってきた。蝶を奪ったこと、傷つけたこと、今も体に残る古傷をわたしは知っている。そのことを許しはしない。許したくはない。
けれど、その食虫花が、大勢の命を繋ぐ存在でもあるなんて。
月は、どうするつもりなのだろう。
この戦いの中、激しい攻防の中で、何を考えながら聖剣を魔女に向けているのだろうか。太陽の光を得て輝く月と、蝕という名の影をまといながら戦う食虫花。食虫花が狙っているのは、月の心臓だ。
では、月は何を狙って戦っているのか。
「華、大丈夫かい?」
柔らかな甘い香りと共に、少年がわたしの手をそっと握ってくれた。蝶の傍で震えるわたしを心配したのだろう。同時に、蝶も窺ってきた。
「大丈夫。わたしは、わたしは大丈夫よ……」
傷を負ったのはついさっきの事だ。けれど、太陽の守りの力のおかげだろうか。あんなに痛かった傷も、あんなに寒かった体も、もう何ともなかった。
それでも、身体が震えているのはどうしてなのか。
答えは簡単だ。
不安で仕方ない。怖くて仕方ない。
太陽が今も何処かで見守っている。月よりもずっと高位で、この世界のあらゆる者たちよりも長く生きてきた彼女。そんな女神様であっても、月に与えられたのは絶対的な守りではなく、抗い、打ち勝つ力だった。
対する食虫花はどうなのだろう。
彼女の蔓は太陽の加護を打ち破ってわたしの身体を傷つけた。命を奪うほどの深手を与えることはどうやらできなかったようだけれど、それでも太陽の力を一瞬でも上回ったのは事実なのだ。
わたしは月の娘。蝶に選ばれて月に買われた花。祖先をたどって行けば、少年や花の子たちと同じように、月の森で女神を讃えるために反映していた月下美人のような白い花の一族へとたどり着く。
ならば、わたしは信じなくては。
どうあっても、月の女神の勝利を信じなくては。
では、勝利ってなんだろう。敵を殺すことが勝利なのだろうか。食虫花を枯らして、この屋敷に沈黙を訪れさせることが、わたしたちの勝利の姿なのだろうか。
「蝶……わたし」
不安でたまらなくなって呟くわたしを、蝶がそっと引き寄せる。蜜吸いとは関係のないこの触れ合い。食虫花によって奪われかけたこの感触が、たまらなく好きだ。けれど、今はその心地よさすらも半減されてしまう。
月が操り、勝利を掴みにいこうとしている聖剣。太陽が与え、時折、師範についてその術を磨いているところを何度も見たことがある。
聖剣はいつだって月にとっての爪と牙であり、心強い味方であった。
しかし今は、その聖剣の方が月を操っているようにも見えてしまった。
月はこれまでもずっと私情を挟むことをあまりよく思われてはこなかった。月と名のつく大地の為、跡継ぎを産むまではどうあっても生きていなくてはならない彼女。感情を持って生まれてきたというのに、城の人間たちも、そして月を守ってきた太陽でさえも、月の気持ちなんてあまり深く考えてこなかっただろう。
月は立派でなければならない。
引き取られたばかりの時のわたしは、月が立派な女神であるということを疑うこともなかったけれど、成長した今は違う。月の城の者になって、少しずつわたしは月の弱さも知っていった。何処までも優しく、何処までも情に溢れている。人々が、そして太陽が望むのは、無感情で真に公平的な月だろう。
でも、わたし達の女神は、そうではないのだ。
皆が思っているよりも、月は生き物らしくて、とても情に厚い人なのだ。
そんな月が戦っている。無表情に戦っている。
いつもの月ならば、この状況に置いて何を感じているか。追い詰められて冷静さを欠いているわけではない。攻め込んで、冷静な判断のできる彼女は、何を感じながら戦っているのか。
皆の信じる女神は、戦いながら果敢に剣を食虫花に向けていく。その刃に斬られぬように食虫花は避け、返しに蔓で反撃している。その繰り返しだ。誰も介入せず、お互いにお互いの隙を狙っている。
食虫花は月の心臓を、そして、月は――。
「月は、何を斬ろうとしているの……?」
わたしの信じる女神とはどんな御方だっただろう。
幼い頃のわたしは、花売りの青年や母によって、生まれてきたこの大地の神話を聞かされてきた。月は大地に生まれた、あるいは、この大地に暮らす全ての者の味方で、誰もが幸せに過ごせるように見守り続けているのだと、わたしと含めた花の子たちは聞かされて育っていったのだ。
――全ての者の味方?
じゃあ、あの人たちはどうだろう。
命惜しさに、あるいは、無知のままに食虫花に囚われ、下って行った鳳や蝙蝠の男、そして屋敷に潜むあらゆる生き物たち。そして、蝕に囚われて心を病み、身も心も悪に染めて月を捕らえようと戦う食虫花。
彼らの事を、今の月はどう思いながら見つめているのだろう。
「月……貴女は……」
戦い続ける神々しい月の姿を見ているうちに、自然と涙がこぼれていった。
必死に戦う月だけれど、その刃は今も食虫花の肌を傷つけてはいない。しかし、狙いがそれているわけでもないし、食虫花がそこまで見事に防ぎきっているわけではない。
月が斬るのはさきほどからずっと、食虫花に痛みも感じさせない蔓ばかりだった。生み出されては消える蔓を斬り続け、さらに追い打ちをかけるように剣を首筋に向けようとはしている。
ならば、首を刎ねる気なのか。
最初はそう思った。そう信じた。魔女の首を刎ねて、たくさんの者たちの命と共に弔うつもりなのだろうと、そう思った。
食虫花の捕らえた弱き者たちの数はかなりのものだけれど、そうではない月の大地に住まう者の数は比べ物にならないほど多い。数で考えれば、この屋敷に住まう者たちの犠牲も、やむを得ないものだと割り切るしかないのだと。そう思っていた。
今だって、多くの人はそう思っているだろう。太陽も、そして太陽の授けた聖剣も、月にそうさせようと働きかけているのかもしれない。
でも、月の戦い方は、歪なものだった。加減が強い。勢いで食虫花の首を刎ねようとしているにしては、その機会を何度も失っている。でもそれは、月が未熟だからというわけではなさそうだ。
わたしには分かる。
そして、共に月に寄り添ってきた蝶や少年も分かっているだろう。
「月は女神なのよ」
隣に立つ蝶が呟いた。
「あたし達だけじゃない。この大地全てを守る女神なの」
震える声。大きな瞳が戦い続ける女神の姿を映している。
そう、わたし達を守ってきてくれたあの愛しい人は、わたし達だけの保護者などではない。女神とは、名ばかりだと月はそう言ってきたけれど、決してそんなことはないのだ。
月は女神。
大地全てを守る女神。
だから、そんな彼女が、負けるはずなんてないのだ。
「食虫花!」
戦い続けていた月が叫んだ。
「これで、最後だ!」
聖剣と共に花の魔女へと突進していく。蔓が四方からその体を捕らえようと伸びたけれど、すべてを掻い潜って月は走りぬけた。まるで矢のように、光のように、月は刃と共に食虫花へと迫っていった。
反撃、逃亡、捕獲。
防ぐ手段はすべて、封じられた。
「食虫花様!」
鳳の悲鳴のような声が響き渡った時、月の持つ聖剣の矛先がついに、食虫花の首を抑え込んだ。鋭い刃の輝きが、食虫花の白い喉元に突き付けられている。そのまま二人とも凍ったように立ち止まる。
月は刃をぴたりと止め、食虫花を睨み付けたまま言った。
「座れ」
雷鳴のように命じる月に、食虫花は大人しく従った。優雅に座り込み、恐怖の一切を感じていないような表情で月を見上げ、そして口を開いた。
「誓いの石はもうない」
赤い目に月の姿を映して、淡々と彼女は語る。
「蝕の力ももう弱い」
その眼に浮かぶのは、異様なほど穏やかな感情。
「貴女の勝ちよ、月」
微かに笑みながら、食虫花は全ての蔓を床に伏せた。
「やっぱり、貴女は女神。どんなに理不尽でも、どんなに納得がいかなくても、世界は貴女の勝利を願っていた。貴女が勝って、私は負けた。残念だけれど、私は蝕の狙い通りの器じゃなかったということね」
月を仰ぐその姿は、今まで見てきた恐ろしい魔女とは全く違って、わたしとそう変わらないただの花の女でしかなかった。
「さあ、殺しなさい」
短く、そして威圧的に、食虫花は月を煽る。
「私を殺しなさい。そうすればすべては終わる。私に賛同して、あるいは、私を恐れて貴女を裏切った人たちは皆、消えていくわ。この影が消えるかどうかは分からないけれどね」
遠くで青ざめた顔で鳳が見つめている。蝙蝠の男は無表情のままだった。
主人の敗北をどう思っているのか、どう見つめているのか。その視線を背中に浴びながら、食虫花は何を想っているのか。
「さあ、殺しなさい!」
怒りにすら近い声が、月を操ろうとしている。
魔女の最期の力が、己の死を願っているかのようだった。しかし、月はそれでも黙ったまま剣の矛先を食虫花の首に突き付け、夜の世界を宿したかのような色の目で、たくさんの命を吸い取ってきた死の花を見おろしていた。
「お前じゃない」
先ほどとは打って変わって月は非常に静かな声で言った。そして、地平の彼方までを見渡す鳥のようなその眼は、鋭い敵意を食虫花の背後へと向ける。
「滅ぼすべきはお前ではない!」
咆哮のような怒声が、月を動かしていく。
光り輝く剣より、食虫花の首をあっさりと解放して、目にも止まらぬその速さで貫く先にいるもの。
姿なき姿。肉体のない敵。
何処から何処までが食虫花と同化しているのかも分からないその悪意だけを、月は――わたし達の女神は睨み付けていた。