3.妾
◇
月と名のつく大地の終わりを願った者の正体は何なのだろう。
得体の知れない力の片鱗は、今も蝶の手の中に握られている。
月は蝶から聖剣を受け取ると、そのペンダントを手放させ、あっさりとそれを粉々にしてしまった。
途端、ペンダントより黒い影が抜け出し、食虫花の元へと流れるように逃れていく。あれが、蝶の言っていた蝕というものなのだろう。
では、その蝕を纏わりつかせながら佇む魔女は一体何者なのか。わたしにとっては恐ろしい存在。ささやかな平穏すら許してくれない理不尽な悪人でしかなかった。蝶を傷つけ、月を追い詰める死神のような人だった。
しかし、そんな魔女を見つめる月の眼差しは、どういうわけか非常に落ち着いたものだった。
「食虫花」
名もなき花の魔女を呼び、月は聖剣をそちらへ向ける。
「来い。私はまだ戦えるぞ」
壁に囚われていた時の弱々しい姿はそこにはない。
暗闇を振り払った女神の姿は、どんなに手を伸ばしても届かないくらい遠い存在に思えた。
ああ、月。
これがこの大地の女神の姿なのかしら。
残された時間はあとほんの少し。貴女は月として完成して、たった一人の跡継ぎを産んでわたしと蝶の前から去ってしまうという。でも今は、その残酷な現実なんて忘れて、わたしはただ感動していた。美しい月の輝き。全てを優しく包み込むような柔らかなその光があまりにも綺麗だった。
そんな神秘的な月の姿にも、食虫花の氷のような印象は少しも溶ける様子を見せない。蝕を漂わせたまま、蔓を蛇のように蠢かせ、花特有の美しい容姿に冷たい微笑をそっと浮かべて静かに、そして丁寧にお辞儀をしてみせた。
「お手柔らかに、女神様」
まるで人間の淑女のように、食虫花は優雅な口調でそう言った。
二人が戦い始める。
この決着が、すべてを決めてしまう。
蝶に抱きしめられながら、わたしは震えていた。この震えは痛みだけではない。どうか、どうか、月に勝利を。そんな切実な思いを込めて、わたしは月の勇姿を見守った。
「大丈夫。大丈夫よ、華」
蝶が必死に慰めてくる。怯えているのは彼女も同じだ。大好きな月が脅威にさらされている。それだけで、震えが止まらないほど恐ろしい。
蔓を向かわせる食虫花と、それを掻い潜りながら聖剣をぶつけようとする月。恐ろしいけれど、この戦いから目を背けることは出来なかった。
怒声と共に戦う二人の姿が断片的にこの瞳に飛び込んでくる。
月の花となって以来、ああして必死に戦う月の姿は何度も見てきた。その度に、わたしは恐ろしさを感じながら見守ってきた。暴力というものは、これまでずっと無縁だった。わたしに約束されているのは癒し。人々の癒しとなり、生活に彩と華やかさをもたらすべくして生まれてきたわたしにとって、聖剣を手に平穏を勝ち取ろうとする月の姿は、あまりにも逞しくて恐ろしいものでもあった。
けれど今は違った。
ここまで美しく戦う姿を、わたしは見たことがあっただろうか。命を狙ってくる食虫花を前に、ここまで落ち着いた表情で戦う月は、本当に女神以外の何者でもなかった。
まるで光と闇の戦いのよう。
その力の程度は五分と五分。蔓をかわし懸命に追い込もうとする月の攻撃を、食虫花もまたさらりとかわしてしまう。
戦い続ける二人。
このまま時間が経って、先に膝をつく者はどちらなのか。その様子を見て、立ち上がる者がいた。
少年だ。
さっきまで傍にいたのに、いつの間にか、戦う二人にそっと忍び寄っていた。その姿を見つけた時、思わず息を飲んだ。彼だって花。力のない白い花。それなのに、人間の少年のように、彼は彼で月の助けになるべくその身を投じて勝利をつかみにいっていたのだ。
思わず声をあげそうになって、わたしは必死に唇を噛んだ。
月は多分気づいている。気づいた上で戦っているのだろう。ならば、食虫花はどうだろう。
よく動いて戦う月に対して、食虫花はあまり動かない。
この戦い方の違いが、二人の間に差を生んでいた。
たくさんの蔓を操り、月の動きを少しずつ追い込んでいく。そして逃げ道を失ったところを捕らえるべく、とどめの一撃を放とうとした。
しかし、それを見て少年が動き出した。
月を狙う蔓をナイフで切り落とし、退路を作って叫んでいた。
「月様、こっちです!」
それに従おうとした月だが、すぐにその顔が青ざめる。
「後ろだ。逃げろ!」
こちらもいつの間にか、だった。
ずっと見ていたわたしも気づかないうちに、彼は少年の真後ろに忍び寄っていたのだ。
蝙蝠の男だ。
あの包囲を掻い潜って此処まで来たのだ。
では、彼を相手に戦っていた人たちはどうなってしまったのだろう。怪我ひとつない蝙蝠の男が、少年を襲おうとする。
しかしその前に、今度は違う者が乱入してきた。
張り巡らされる糸。そして、刃を手に突っ込んでくる胡蝶の青年蚕と蝙蝠の女。遅れて現れたのは、花狩人の人間たち。
「女神様、ご無事ですかっ!」
蝙蝠の男を追いかけてきたのだろう。
少年や花狩人たちが月の退路を守りつつ、蚕と蝙蝠の女が食虫花や蝙蝠の男らの相手を担う。どうやら、相手には他に戦えるような手下もいないらしい。いたとしてもそれは、食虫花の力で動く弱き存在だけなのだろう。
蚕と蝙蝠の女、そして離れた場所から糸を操る絡新婦に追われてじりじりと後退し、蝙蝠の男が食虫花の傍へと寄り、そっと何かのやり取りをする。
それを見て、月は振り返った。
「皆、蝶と華を頼む」
少年や人間たちにそう命じると、彼女は再び聖剣と共に食虫花の方へと戻っていってしまった。
「月様っ」
少年が叫んだ時、蝙蝠の男が怪しげな術を唱えた。
現れたのは大量の羽虫。視界を遮るように此方へと襲いかかってきた。蝗のような彼らの動き。花狩人たちや少年が剣で薙ぎ払い、絡新婦が糸を使ってわたし達を守ってくれた。
だが、糸に守られながら、わたしは目撃した。
蝙蝠の男に促され食虫花が後ろめたさを見せながらもこの部屋から出ていくのを。そして、動けない蚕や蝙蝠の女を置き去りにして、月がその後を追っていくのを。
「月……月、待って!」
叫んでみても、羽虫の騒音でわたしの声は響かなかった。
逃げる食虫花を追いかける月。まるで誘い込まれてしまったかのように、彼女はまんまと一人きりで部屋を出て行ってしまった。
◇
羽虫の攻撃が治まってくると、蚕と蝙蝠の女、そして絡新婦がすぐさま月たちの後を追った。とはいえ、完全に見失っているだろう。捜索しているといったほうがいいかもしれない。
一方、わたしと蝶、そして花狩人や少年たちはこの場にとどまっていた。わたしも追いかけたかったけれど、立ち上がるのを蝶が許してはくれなかった。
「駄目よ、華。動いては駄目」
「……蝶、わたしはもう平気よ。ちっとも痛くない。太陽の加護がきっと傷を治してくれるもの」
半分は強がりだった。
痛みはまだあるし、寒気すらする。それでも、嘘をついてでも、わたしは月の後を追いたかったのだ。
金で買われた身であっても、月はわたしを大切にしてくれた。月はわたしに愛をくれた。そんな彼女の戦いを、隠れて観ないでいるなんて出来ない。
そんなわたしを諭すように、少年は膝をついてそっと窺ってきた。
「華。今、花狩人たちが食虫花の居場所を聞きだしている。だから、今はじっとしていて」
「聞き出している?」
その言葉通り、花狩人たちに取り囲まれている人が一人いた。
鳳。手負いの彼女は大紫に支えられ、荒々しく剣を向けられながらも屈服するような態度を全く見せてはいなかった。
「魔女の婢よ、お前ならば居場所が分かるだろう?」
花狩人たちに脅され、剣を突き付けられても、鳳は怯えた様子の一つも見せない。悲しげな眼をしたまま、大紫に支えられるままに、自分に突き付けられた剣を見つめていた。
「さて、どうでしょうね。わたくしは婢に過ぎませんもの。蝙蝠の彼が食虫花様を何処へ連れ出していたとしても、貴方がたにお教えするつもりもありません」
それは己のすべてを諦めきっているかのような、態度だった。このまま花狩人たちを怒らせて斬られたとしても、彼女は後悔しないのだろう。
そんな彼女の態度に、剣を持つ花狩人の男は激怒した。
「この状況下においていい度胸だな、虫けら!」
「おいよせ、月城のお嬢様方の御前だぞ」
仲間の花狩人が彼を諭している。その間も、鳳の態度は変わりそうにない。怯えてはいるみたいだけれど、剣の前に屈しようという様子は全くないようだ。
どうしてこんなにも、彼女は食虫花を庇うのだろう。これが、魔女の隷属というものなのだろうか。わたしには分からない感情が、彼女の中にあるのだろうか。
そんな不可思議な鳳に大紫は懇願するように縋り付いたのだった。
「鳳。教えて。貴女の愛する魔女は何処に向かっているの? 隷属ならば分かるはずでしょう? 人間たちは騙せても、わたしは騙せないわ。貴女には分かるはず。何処にいるのか教えなさい」
大紫の説得を受けて、鳳は項垂れる。
この期に及んでまだ庇うつもりなのだろうか。葛藤しているようにも見えた。敵陣の中に置いて行かれたにも等しいのに、どうしてそこまで肩を持つのか。蝶が言っていたように、それが魔女の妾というものなのだろうか。と、その時、蝶がわたしの身を少年と花の子に託し、ふわりと鳳の元へと近寄っていった。
「鳳。これ以上庇っても無駄よ。貴女もあの人を愛しているのなら、決着がつくとき傍にいたいと思わないの?」
「……思うわ」
観念したように鳳は答えた。そこへ蝶は囁きかける。控え目な花の心を開くように、鳳の心を揺さぶっていた。
「じゃあ、教えて。あの人たちの居場所を」
それはまるで魔術のようだった。蝶に促されるままに、鳳は大紫に支えられながらぼろぼろの身体で何とか立ち上がり、様々な形相の花狩人たちや、わたし達などの全ての顔をぐるりと見渡すと、何処ともなく空に向かって言ったのだ。
「案内いたしましょう。その場所に」
ふらふらと歩きだす彼女に、花狩人たちも半信半疑ながらついていく。それを見てわたしは少年と共に立ち上がった。傷は浅いらしい。痛みもそんなにない。けれど、立ち上がってみればくらくらとした。
「大丈夫、華?」
「大丈夫。置いてかれないように、行きましょう」
そこへ蝶が戻ってきて、そっと手を引いてくれた。蝶にわたしを任せると、少年はナイフを手に周囲を気にし始めた。食虫花の手下を警戒しているのだろう。けれど、鳳に案内されるままに歩くわたし達を妨害するような者は何処にもいなかった。誰もが委縮したように遠巻きに見つめているだけだ。
「怖がっているみたい」
そう言ったのは、共にゆっくりと進む花の子だった。
「自分たちが食虫花と一緒に滅ぶんだって恐れているみたい。食虫花が月様に殺されてしまえば、自分たちも死んでしまう。それが魔女と隷属だもの」
すると、蝶も小さな声で言った。
「この屋敷の人は薄々そう思っているみたい。自分たちのご主人様の勝利なんて信じていない。地下に閉じ込められていた胡蝶たちもそうだったわ。きっと、あの人――鳳も本当は同じなのでしょうね」
食虫花が死ねば、食虫花の隷属も死んでしまう。
この屋敷にはそんな人たちがいっぱいいる。今、案内している鳳も、幾度となくわたし達を追い詰めてきた蝙蝠の男も、食虫花が死んでしまえば皆死んでしまう。実感はわかない。けれど、鳳が歩みを進めれば進めるほど、何とも言えない不安がわたしの胸を占めていった。
食虫花。月を苦しめようとする魔女。わたしにとってその存在は悪であり、ささやかな平穏を壊す恐ろしいものでしかなかった。彼女たちがいなくなることは、この上ないことのはずなのだ。
それなのに、何故、こんなにもすっきりしないのだろう。
思い出すのは月の表情。蔓から解放され、蝕からも解放されて目覚めた月。食虫花を見つめる女神の眼差しは、憐みに近いものが浮かんでいた。
どうしてだろう。分からない。分からないだけに、不安だった。
愛しているのなら決着がつくとき傍にいたいはず。
蝶が鳳を説得したその言葉がわたしの胸にも響いた。月は負けないだろう。女神が負けるなんてことはないだろう。今も命の灯を与えてくれる太陽の加護を感じながら、わたしはそう信じていた。信じているだけに、気が急いた。
そうして半信半疑のまま鳳の後を追い続けてやっと、その場所にたどり着いた。そこは、数年前のあの場所。蝶が囚われ、月までも囚われそうになっていた、あの大広間だった。
開けっ放しの扉の向こうで、月と食虫花、そして蝙蝠の男が睨み合っている。絡新婦や蚕、そして蝙蝠の女も一緒だった。数で見れば追い詰められているのは食虫花たちの方だろう。けれど、二人の様子はまるで敵が増えても怯える様子を見せてはこない。
新たに現れたわたし達の姿を見て、食虫花は冷たげな視線を送ってきた。
「鳳」
その名を愛しげに呼ぶと、片手をすっとあげた。
「此方へ」
途端に、蔓が現れて鳳を取り囲んでいた花狩人たちを追い払う。その間に、鳳は駆け出して食虫花の方へと行ってしまった。
「二人とも御下がりなさい。これは私と月の戦いよ」
食虫花がそう言うと、その言葉通り蝙蝠の男と鳳は大人しく後ろへと下がった。それを見て、月もまた聖剣を構えたまま唸るように言った。
「皆、下がっていてくれ。こいつは……この聖剣で――」
力強い言葉に、誰も反論が出来ない。
皆、この地に生まれた時から月の女神を信じる民なのだから、当然だ。同時に、不安も当然ある。信じたい反面、どうしても恐れてしまうことは一つ。月はあの得体の知れない魔女に勝てるのか。その魔女の背後に潜む影に勝てるのか。
「月様、どうぞ私共を盾に!」
わたしと同じく、いや、わたし以上に信仰深くて不安げな人間の花狩人の一人が、まっさきにそう言って走り出そうとした。けれど、そんな彼の行為を蝙蝠の男が許すはずもない。食虫花の背後で透かさず手を伸ばし、怪しげな音波をこちらに向ける。風圧、見えざる手、なんとでも表現できる力が、わたしたちの動きを止める。向かい合う月と食虫花に近づけないように魔術を使ったのだ。
「無粋な真似はしないほうがいい。力なき者は黙ってそこで見ていなさい」
その代り、蝙蝠の男も、鳳も動かない。動くつもりもないのかもしれない。この部屋にはいないそのほかの力ない隷属たちも同じだ。きっとこの屋敷のいたるところで震えながら時を待っているのだろう。
月と食虫花。全てはこの二人に委ねられた。