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月食み  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
12/15

2.蝕


 平和を取り戻す。

 その誓いはわたしの胸に強く響いた。

 相手はわたしと同じ花でありながら、わたしとは比べるのも虚しいほど強大な力を持った魔女である。儚い胡蝶すら脅威となり得るわたし達白い花なんて、食虫花にはどう考えても恐れることが出来ないほど惨めな存在だろう。

 それでも、蝶が見せてくれた勇ましい姿は、わたしの心を奮い立たせた。


 まずは月を助けなくては。

 いつまでもわたし達の女神を苦しめさせてはいけない。どうにかあの恐ろしい魔女の蔓から解き放たねばならない。

 じりじりと睨み合う蝶と食虫花。

 いつもなら蝶なんて恐れないだろう食虫花だけれど、今だけは彼女も慎重に蝶の様子を窺っていた。恐れているのはきっと、蝶が持っている聖剣なのだろう。でも、わたしには、食虫花が蝶自身を恐れているようにも見えた。

 それは、弱肉強食の力関係さえも揺るがす、不思議な力。

 月を取り戻したい気持ちが、蝶に大き過ぎる勇気を与えている。


「鳳」


 痺れを切らしたように最初に動いたのは食虫花だった。

 傍に立つ胡蝶の娘に命じつつ、幾つもの蔓を伸ばして蝶を襲い、誘き出そうとしている。無策だなんてことはないだろう。彼女なりに策略があって、蝶を操ろうとしているだろう。いつも、わたしも蝶も、その策略によってまんまと罠に引っ掛かってきた。

 今回はちょっと違う。

 目の前にいながら、その狙いを分かっていながら、立ち向かわなくてはならない。月は助けてくれない。助けてくれる力が無い。わたし達が、月を助けなくてはならないのだ。

 その想いを一身に背負ったように、蝶もまた動きだした。

 ほぼ同時に、少年と大紫も動きだす。わたしだけが取り残されてしまった。この戸惑いは、食虫花の澄まし顔から産まれたのだろうか。それとも、その横に立つ鳳の意味ありげな悲しそうな表情によってだろうか。


 どちらにせよ、いつまでも戸惑ってばかりはいられなかった。

 三人をも相手にしなくてはならなくなって、食虫花の集中がややそちらへと傾く。蝶の勇ましい攻撃に、それを援護するような少年と大紫の動きは、いくら食虫花であっても一人きりでは相手が難しいようだった。

 主を傷つけられては堪らないのだろう。鳳とかいうあの娘も命じられるままに動いて、食虫花の盾とならんばかりに庇っていた。

 その間、忘れ去られたように月は壁に縛り付けられたまま。

 意識はある。そう少年が言っていた通り、彼女は微かに顔をあげ、今にも失いそうな光の宿った目を此方に向けた。

 目が合った途端、わたしは引っ張られるように駆けよっていった。誰も、わたしを見てはいない。気付いていたとしても、食虫花には止められない。あっという間に月の間近まで近寄って、わたしは必死にその身体に触れた。


「月、しっかりして、月……」

「……華」

「そう、華。貴女を讃える花の子よ。お願い、起きて。蝶は無事なの。一緒に御城に帰りましょう」


 けれど、月の反応は薄い。それどころか、苦しそうに両目をぐっとつぶってしまった。呻く月の身体を、何かが取り憑いている。月に触れるわたしの手を刺激し、まるで毒のようにわたしを拒絶する。

 闇。暗闇。そう表現するしかないものが、月の身体を取り巻いていた。


「これは……」


 わたしの手から腕、肩へと沁み込むように広がっていく闇。怪我をしたようにどくどくと脈打つ感触が気持ち悪くて、わたしはそのまま凍りついてしまった。


 ――これは何……?


 頭の中で声が響いたような気がした。けれど、何を言っているかは分からない。ただ、ざわざわという複数の人間の話声のような雑音が何重にも響き渡っていて、心細さを掻き立ててくる。

 怪しげな魔術というにはあまりにも具体的で、何かの生き物だというにはあまりにも抽象的な力。


「触れては駄目だ……華」


 その時、ややしっかりとした月の声が聞こえてきた。

 意識は朦朧としたままのよう。けれど、確かにわたしの存在を認識していて、他ならぬわたしに話しかけている。


「月、でも――」

「逃げろ……後ろに――」


 飛び飛びの意識で必死に訴えかけてきたその事。わたしは慌ててその場から横へと避けた。殆ど直感に近い動きだったけれど、どうにか免れる事が出来た。

 いつの間に、だろう。わたしの後ろからは鳳が忍び寄っていたのだ。取り逃してしまったわたしを、冷たい表情のまま見つめてくる。


「おいで、可愛い子さん」


 手を伸ばし、鳳はわたしをじっと見つめる。

 吸い込まれそうなその目は、蝶とはまた違う胡蝶特有の魔力を有していた。食虫花の力を得ているのだろうか。どう考えても行ってはいけないと分かっているのに、体中の蜜が鳳に従いたがってしまった。


「貴女の蜜を頂戴」


 その口から飛び出す言葉は、魔法のように甘くて魅力的なものに思えてしまう。震えながら後退りするわたしと、迫る鳳。その状況にようやく気付いたのは、大紫だった。


「華!」


 抱え込むようにわたしを抱きしめ、大紫は鳳を強く睨みつけた。


「渡しはしないわ。この子は月の女神様の花。ただの胡蝶が手を出していいような子じゃないのよ」


 そう言って、絡新婦から受け継いだらしい魔法を鳳に向かって放つ。しかし、その力は鳳に当たる前に消えてしまった。鳳は瞬きをしただけ。食虫花から貰った力なのだとしたら、相手は思っている以上に厄介な存在だ。

 けれど、大紫は少しも怯まなかった。

 そんな彼女を鳳は寂しげに見つめていた。


「姉さん」


 大紫から目を逸らさずに、鳳は言う。


「お互いに、もう戻れないのね」


 ――姉さん?


 疑問を浮かべるわたしの目の前で、鳳は素早く動きだした。

 襲いかかってきたのではなく、その場から逃れたのだ。

 直後、わたしと共にこの部屋に向かっていたあの白い花の子の姿が見えた。無謀にも鳳を背後から捕えようとしていたのだ。そんな花の子を振り返って、鳳は冷たげに呟いた。


「お久しぶりね、お姫様」

「鳳、もういいわ。こっちに戻ってきなさい」


 かぶさるように食虫花の命令が響いて、鳳はその通りに動く。白い花の子はその隙に、わたしと大紫の傍にくっついた。


「まだ皆、蝙蝠の男に苦戦しているみたいなの」


 白い花の子がそう教えてくれた。蝶と少年もじりじりと後退りする形でわたし達の傍へと下がってきた。

 最初見た光景と逆だ。

 月を阻むようにわたし達は食虫花達と向かい合っている。けれど、まだ取り返せたわけではない。蔓を斬ってしまえばいいだけのはずなのに、食虫花はそれを全く恐れていなかった。その理由と思しきことを蝶が教えてくれた。


「食虫花の首元にある黒い石を見て」


 仲間全てに彼女は言った。


「あれが蝕の本体。食虫花に力を与えているものよ。あれを壊してしまえば、食虫花もただの花の魔女に戻るはず」

「蝕……」


 その言葉を無意識に繰り返した。言葉の響きが妙に不吉に思えて、怖かった。けれど、怯える私を勇気づけるように、少年がわたしの手をそっと握った。


「華。大丈夫。大丈夫だよ。僕達だって力を合わせれば、悪しき力になんて負けない! だから、君はその花の子と一緒にここにいて。ここで月様を守っていて。蝶の事は僕が守ってみせるから!」


 そう言って、わたしの手から彼は離れていく。

 それはまるで光そのもののように輝いた姿だった。月にしか扱えないはずの聖剣を手に呪われた食虫花を睨む蝶。その蝶に寄り添うように立って、護身用でしかないはずのナイフを手に構える少年。二人とも、食虫花と対等に戦うにはあまりにも頼りない。それなのに、二人の姿はあまりにも神々しくて、涙が出てきそうなくらいだった。

 そんな二人を前に、影をまとう食虫花は非常に冷めきった眼差しを送る。ほんの小さな声で鳳を下がらせると、蔓を操り二人を牽制した。

 それでも二人は怯えない。本来持っているはずの恐怖と言う大切な感覚を忘れ、食虫花の蔓に誘われるようにほぼ同時に飛び出していった。


「……蝶!」


 堪らずわたしも飛び出しそうになって、慌てた花の子と大紫に手を掴まれた。


「駄目よ。貴女は武器を持っていない。今はあの二人に任せて――」


 大紫に言われ、わたしは振り返る。


「でも……」


 たとえ、この身体が蔓に貫かれようとも、それで蝶たちの囮になれるのなら構わないくらいだ。けれど、名もなき花の子までも言った。


「駄目。行っては駄目。貴女の身は貴女が思っている以上に尊いはず。彼の言ったように、此処で女神様をお守りしましょう」


 花の子の言葉が重たくのしかかる。助けなくてはという気持ちは大切だけれど、力が伴わなくては足手まといにしかならない。せめて、武器でも扱えたら。

 と、その時だった。


「そうよ。貴女たちは美を纏う花の娘。わざわざその身を危険にさらす事はないわ」


 いつの間にか、鳳が再びわたし達のすぐ前まで迫ってきていた。

 動けない月を守ろうとするわたし達を、全身の蜜がうずきだす胡蝶特有の魔性の力の宿った目でこちらを見つめていた。

 そんな鳳を睨みつけ、大紫が前へと出る。


「まだ決着がついてなかったわね、鳳。貴女の相手は私よ」

「そうね、姉さん。いいえ、絡新婦のお人形さん。運命の女神がどちらに微笑むのか、わたし達でも確かめてみましょうか」


 睨み合う二人。姉さん、そして妹。鳳というあの人こそが、大紫の探してきた妹だったのだろうか。わたしにはよく分からない。よく分からないけれど、今から繰り広げられる戦いが不安で仕方なかった。

 だって二人とも、本当は戦いたくないような顔をしているのだもの。


「待って、大紫! 鳳もお願い、考え直して!」


 隣では花の子が必死に二人に声をかけている。

 それでも、その声が二人の耳に届く気配はない。


「待って……待って、お願い!」


 力と力をぶつけ合う胡蝶たち。どんなに儚くみえる彼女たちであっても、わたし達のような花にとっては強者に変わりない。そんな強者の魔術がぶつかり合うその中へ、どうしてあの花の子は飛び込んでしまったのだろう。

 悲鳴を噛み殺した時にはすでに、花の子は鳳と大紫の戦う場所へと飛び出してしまっていた。しかし、その瞬間、わたしは確かに見たのだ。互いに相手を狙う魔力にぶつかりそうになる花の子を見て、釣られるように飛び出して言った人物がいたこと。


 鳳。

 食虫花の妾であるはずの彼女は、食虫花から譲り受けたと思われるその力に花の子がぶつからないように盾となり、そのまま、大紫の放った糸の力の餌食となった。鋭い針のような糸が複数刺さり、彼女の動きは完全に止められる。

 庇われた花の子が目を丸くしているのが見える。力を放った大紫も同じだった。震えたまま立ち尽くし、糸の力に屈する妹の姿を見つめている。

 しかし、そんな二人よりもずっとこの光景に注意を奪われた者がいた。


「鳳!」


 食虫花だ。

 恐ろしいあの魔女の、あの顔。青ざめた顔色に怯えを含んだその表情。一目見ただけでその顔。立ち向かう蝶や少年などもう彼女には見えていない。彼女の目に映るのは、この場にいない絡新婦の力に囚われる自分の妾の姿のみ。


「鳳! ああ、鳳……!」


 あんなに狼狽える魔女の姿をどうして予想できただろうか。勇ましく立ち向かう少年ですら、食虫花の狼狽した様子に驚いているというのに。

 けれど……ああ、けれど、蝶だけは違った。

 この状況においても、蝶の視線は食虫花だけに向いていた。正確には、食虫花の首元で輝く禍々しい黒の石に。


 ――蝶……。


 何かに取り憑かれたように、月の聖剣を構えて目にも止まらぬ速さで飛び込んでいく。その姿はまるで、胡蝶ではなく人間の戦士のようだった。

 けれど、蝶、わたしは怖いだけだった。

 大切な存在を傷つけられ、悲しみと怯えと怒りを同時に宿した食虫花の敵意が、そのまま力と転じていく気がして、蝶がその力の餌食になってしまいそうで、とても不安だった。

 だから、わたしは走った。


 蝶の持つ聖剣が、月が持たねばただの剣でしかないその得物が、食虫花の首元から禍々しく輝く石のペンダントを引き剥がすその瞬間、わたしは走って少しでも蝶の傍へと近づこうとした。

 言葉らしき言葉もなく食虫花から石を奪う蝶と、その蝶を血走った赤い目で見つめる食虫花。その力が、その蔓が、食虫花の周りで動き出す。


「お前も……」


 石を奪って離れようとする蝶を、食虫花は見逃さない。


「お前も同じ目に!」


 風を斬るような速さで動くその蔓から、太陽の加護は蝶を守ることが出来るのか。そんな目に見えぬ信仰を、わたしは守りきれなかった。

 名もなき花の子は言った。

 わたしの身はわたしが思っている以上に尊いはずだと。

 そうかもしれない。青年はそう言って育ててくれた。月だってそうだった。蝶も同じ。その愛はしっかりわかっているし、自分を粗末にしてそれを裏切るような真似はしたくない。

 それは偽りのないわたしの心。

 けれど、太陽の加護ごと貫かんと言わんばかりの食虫花の形相と、それを前にペンダントを握ったまま動けなくなっている蝶を見れば、じっとしてなんていられなかった。


「蝶……!」


 運命の女神とは、気まぐれな御方なのかしら。

 月の女神と得体の知れない力の戦い。この勝敗がどちらに傾くのか、世界はどちらを望んでいるのか、わたしにはよく分からない。

 けれど、この時だけは、わたしは女神に感謝した。

 間に合った。蝶が蔓に貫かれる前に、わたしは間に合った。太陽の加護すら突き破りそうだったその蔓が、大好きな蝶を奪っていく前に――。

 わたしは、間に合った。


「……あ、ああ」


 声が口から抜け出ていく。

 この感覚。この刺激。

 なんと表現したらいいのだろう。

 蔓はうねうねと動き、あっけなく引き抜かれていく。何処から。その具体的な位置を、目で確認するのは怖かった。ただ、熱い。熱くて、寒かった。

 膝から下の感覚が抜け落ち、床に倒れ込みそうだったのに、倒れ込むことも出来ない。わたしの視界に映るのは、ペンダントと聖剣を手に立ち尽くしていた蝶の姿。その眼はわたしを見つめていた。その驚いた様子。傷一つない彼女の姿だけが、わたしの心を支えてくれた。


「そんな、華……」


 蝶がわたしの名を呼んだ時、吊るされているような不快感はすっかりなくなった。床に倒れるわたしに代わりにもたらされるのは、身を焼かれるかのような苦しみだった。これが痛み。激しい痛み。


 ――痛い。


「華、しっかりして……」


 床に伏せながら震えるわたしを蝶の腕が包み込んでいる。

 こんなわたしの姿はきっと、花弁が無残に食い荒らされたように非常に惨めなものだろう。蝶の温もりと、体の内側から感じられる陽だまりのような温かみが、冷えるわたしの身体を守ってくれていた。

 しかし、これでは駄目だ。蝶がペンダントを奪っても、食虫花の脅威は過ぎ去らない。

 逃げて、蝶。

 そう言いたいのに、口が震えて言葉が出なかった。お腹に力が入らない。絶望と混乱、そして敗北感がわたし達に襲いかかってくる。


 太陽はこの状況を何処かで見つめているのだろうか。ああ、だったらせめて、月を助ける力をわたし達に下さい。

 もはや願うしかない、そんな時だった。


 わたし達を睥睨し、怒りにまかせて手加減も何もない一撃をこちらに向けてこようとしていた食虫花が、突如小さく呻いて立ち止まったのだ。

 振り返るその姿に釣られ、わたしと蝶もその光景を目の当たりにする。

 蝕という得体の知れない存在。その核となっていたペンダント。今も蝶の手の中で妖しく蠢くその黒い影。少し前まで、月はその侵食に苦しめられていた。しかし、今は違う。

 それはあまりに神々しい姿だった。

 蔓の拘束も、闇の侵食も、何もかも振り払って、月は立っていた。深い夜闇のような双眸で、怒りに満ちた食虫花を静かに見つめている。

 一歩、また一歩、確かに床を踏みしめると、月はやっと口を開いた。


「蝶、華」


 震えることのない、しっかりとした口調だった。


「聖剣を私に」


 待ち望んだ、女神の姿だった。

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