5.月食み
◇
長らく寂しくなるくらいの沈黙があっただけに、その異変にはすぐに気付けた。耳を澄ませば、怒声に足音、それに激しく暴れるような音が鳴り響く。誰かと誰かが争っているのだろうとすぐに分かった。
そして、そう待たない内に、地下牢へと駆け下りてくる者達がいた。食虫花でもなければ鳳でもない。ただ、一瞬だけ、現れた人物のうちの一人は蝙蝠の男に見えた。だが、すぐに違いに気付いた。確かに黒を纏う人物ではあったけれど、髪は長く、男ではなくて女であることがすぐに分かったからだ。
蝙蝠は蝙蝠でも、違う蝙蝠。
それに、甘い香りと共に彼女が守るように従えている二人の白っぽい人物が見えたものだから、あたしは無意識に檻の隙間から身を乗り出そうとしていた。
白い二人の人物。二人の少女。片方は見知らぬ花の子だけれど、もう片方は忘れるわけもない少女だった。
「華……?」
その名を呼ぶ前から、彼女はあたしに気付いていた。
甘くて危険な香りを漂わせながら、彼女は守護者らしき蝙蝠の女の手を離れて、一人先に駆け寄ってきた。そして、あっという間にあたしの前へと辿り着くと、檻の向こうから赤い目を潤ませながら、あたしにそっと身を寄せた。
「蝶、ああ、蝶、会いたかった。怪我はしていない?」
甘い香りがあたしを包みこむ。冷たい檻に阻まれながらも、その温もりが伝わってくるなか、あたしはぼんやりと華の感触を味わっていた。
何故此処に華がいるのだろう。これは夢かしら。
「月に連れて来て貰ったのよ。どうしても、一緒に蝶を助けたかったの。よかった、無事でよかった。御免なさい、蝶。わたしのせいで――」
花狩り騒動の事を言っているのだろう。
想えば、襲われているという華を捜すために外に出たのが始まりだった。あの為に花蟷螂共々捕まってしまったのだから。
「華のせいではないわ」
この子が思いつめることはない。華こそ、無事でよかった。無事な姿をまた見られて、本当によかった。その感動に浸っている間に、華を連れてきた蝙蝠の女がいつの間にか檻の鍵を見つけ出し、手際良く開けてしまっていた。
遮るものがなくなると、華は怯えもせずに胡蝶だらけの檻のなかに踏み込んで、あたしの胸に飛び込んできた。
その光景を見て、蝙蝠の女は、目を光らせて他の胡蝶達を睨みつけた。
「やあ、皆。空腹だったら申し訳ないけれど、ここにいる花の子たちはそれぞれ持ち主が決まっているんだ。ここは開けっぱなしにするから後は好きにしていいけれど、手を出すのだけは駄目だよ。じゃないと、君たちの事も、食虫花の手先として相手しなきゃならなくなるからね」
蝙蝠にそのように睨まれて怯えない胡蝶がいるはずもない。誰もが表情をひきつらせて蝙蝠の女を見つめ、大人しくその場に留まっていた。その間に、蝙蝠の女はそっとあたしに視線を向けた。
「君が蝶だね。華から話は聞いているよ。私もこの花の子も、月様の味方だ。すぐに一緒に――」
と、彼女が言いかけた時、華とそして蝙蝠の連れている花の子がぴくりと身体を震わせた。何だろうと気を取られたのも束の間、華が小さく悲鳴をあげてからあたしに縋りついてきた。
「少年の知らせよ……」
怯えているから、よくない報せなのだろう。覚悟するあたしに、華は告げる。
「月が食虫花に囚われている。身動きが取れなくて、今にも……今にも、手を出されそうだって……」
囚われた。
その言葉が何度もこだまする。
「――月が」
牢獄の中がざわつくのを感じる。
傍にいる胡蝶達が囁き合っているのだ。
食虫花の隷属達はどう思っているだろう。彼女たちは切羽詰まった思いで食虫花の勝利を願っているのだ。そこに月の女神への願いなど無い。その雰囲気を肌で感じ、あたしはふらつきながらも立ち上がった。
縋りついていた華の手が離れる。不安そうにあたしの顔を見つめているようだけれど、あたしの目は先へと向いていた。
「場所は何処なの?」
茫然としたあたしの問いに、華ではなく蝙蝠の女の連れている花の子がそっと答える。
「分からないわ。少年からの返答が――」
「助けなきゃ……」
会話をする余裕もなかった。
ふらふらと歩くあたしに蝙蝠の女が何か言おうとした。けれど、待っている暇なんてなかった。走り出していることに気付いたのは、華の声がうんと後ろから聞こえたからだ。階段を駆け上がり、蠢く隷属もいないしんとした一階が見えてきた頃、階段の下から華があたしに向かって叫んでいた。
「待って、蝶。危ないわ」
けれど、愛しいその声にも振り返ることは出来なかった。
場所は分からない。そう言ったにも関わらず、あたしはじっとしていることも出来ずに、前へと向かって走り出した。
月が危ない。食べられてしまう。そう思ったら、いつ届くかも分からない情報を待っていることなんて出来なかった。月が華だったならば、蜜の香りを辿れただろうに。それでも、あたしは勘で走り続け、そしてあっという間に正面玄関へと辿り着いていた。
此処から、何処に進むべきか。
階段を上るか、まっすぐ廊下へと進むかで迷っているところへ、声がかかった。
「蝶?」
蚕だ。剣を構えたまま、彼は吹き抜けの二階からあたしを見下ろしていた。間を置かず、絡新婦の姿も見えた。あたしの姿を見て、目を丸くしていた。
「蝶……君は無事だったんだね」
力の抜けるようなその声。「君は」という言葉と、絡新婦のその悲しげな表情に、何があったのかを察した。花蟷螂は一緒ではなかった。友だと聞いている。きっと、彼女の事も助けようとしていただろうけれど、一緒にはいなかった。それがどういうことなのか、今だけはあまり深く考えたくなかった。
蚕は絡新婦を気遣うように見守りつつ、あたしへと一瞥をくれた。
「おいで、蝶。仲間から緊急の合図が来たんだ。月様が危ないらしい」
二人は場所を分かっているらしい。それが僅かばかりの光だった。けれど、急がなくては。急がなくては、間に合わない。全てが終わってしまう前に、まだあたしにだって出来ることがある。
出来るならば、あたしが辿り着くまで少年が、そして絡新婦達の仲間が、時間を稼いで居て欲しい。どうにか、月の命を守っていて欲しい。
切実な思いを抱きながら、あたしは二人と共にその場を目指した。
◇
「あの場所だ」
絡新婦が震えた声で教えてくれたのは、二階の廊下の突き当たりにある大広間の入り口だった。傍では蝙蝠の男と人間たちが戦っているのが見えた。きっと、あの人間たちは月の味方なのだろう。彼らに気付かれないようにと絡新婦たちが気をつける中、あたしだけは一人何も気にせず駆けだした。
部屋が分かってしまえば、共に向かう必要はない。
「ま、待って、蝶!」
絡新婦が呼びかけてきたけれど、返事もおろそかにあたしは進んだ。
蝙蝠に気付かれたとしても、それよりも早く部屋へと飛び込んでしまえばそれでいい。決して弱くはなさそうな人間たちの相手をしているのだから、そう簡単に阻まれることはないはずだ。
強気な行動もあって、絡新婦たちよりも早く、あたしは走ってその場所へと踏み込んだ。
華たちに教えてくれたのは少年。そして絡新婦たちに報せてくれた仲間とはそこにいた胡蝶の娘のことだろう。二人とも無事ではあった。しかし、無事なだけだった。絶望的な状況は変わらない。少年は蔓の檻に囚われ、胡蝶の娘は鳳に取り押さえられていた。
そして、もう一人。あたしの目は壁に抑えこまれている弱りかけた人物から離れなかった。日に日に神々しくなっていく彼女。女神としての完成も間近と迫ったその人物は、他ならぬ食虫花によって囚われていた。
「月……!」
その名を呼ぶと、月の目がはっきりとあたしを捉えた。
彼女の無事を確かめつつ、あたしはこの場を支配しているたった一人の魔女に向かって大きな声で叫んだ。
「お願い、月を放して!」
食虫花の溜め息が聞こえてきた。
月が女神ならば、彼女はきっと女王とでも呼ぶべきだろう。
過去に対する思いも、願いも、何もかもあたしが把握し尽くせないことばかり。それでも、食虫花は何処までも悪人でいた。振り返り、華のものよりも攻撃的な赤を宿すその目が、あたしの姿を鋭く捉える。
「思ったよりも、早かったわね」
冷めた声でそう言うと、新たに蔓を呼びだして床を叩きつける。強烈な音であたしを脅そうとしたようだけれど、あたしは怯まずに食虫花を睨み返した。
「月を放して」
武器なんて持っていない。普通に考えて、胡蝶が敵う相手ではない。それでも、食虫花は月を喰い殺そうとしているのだ。許せるはずもなかった。囚われて、弱っている月の姿を見た途端、沸き起こったのは、怒りだった。
そんなあたしを見て、食虫花は目を細めた。
「止められるものなら、止めてみなさい」
そう言って食虫花は再び背中を向ける。
いけない。月が殺されてしまう。そう思ったあたしは、丸腰のまま食虫花に飛び掛かっていた。太陽の加護は何処まであたしを守ってくれるのだろう。そして食虫花は、何処まで手を出せないと思っているのだろう。
全てが不安だったけれど、月に手を出されるのはもっと嫌だった。
「蝶……逃げて……」
苦しそうに月がそう言ったのが聞こえた気がしたけれど、その時にはもう既に、食虫花の身体に掴みかかっている最中だった。食虫花はうろたえない。あたしの覚悟も行動も、全て見通していたのだろう。
そして、彼女には武器がある。胡蝶相手ならば、傷つけずに黙らせることができるものを持っている。それはこの部屋に甘い香りを充満させている蜜だ。
「檻から出してくれたのは誰? 大好きな華かしら? それとも、友を失って消沈している絡新婦かしら?」
ただでさえ、力では敵わない。その上、濃すぎる蜜を流し込まれてしまえば、身体は痺れはじめてしまう。それでも、あたしは必死に耐えた。時間を稼げば絡新婦も来てくれる。更にはあの蝙蝠の女も駆けつけてくれるだろう。
その前にあたしが出来る事は、食虫花を月から引き離すことだった。
「蝶……」
泣き出しそうな月の声を感じながら、あたしは蜜の味を耐え続けて食虫花の身体を必死に押し続けた。始めは余裕そうに相手をしていた彼女も、次第に苛立ち始めながら相手をして来るようになった。蜜の量は増えていき、どうして自分が堪えられるのか分からないくらいの香りが充満する。
それでも、あたしの力は食虫花を一瞬だけ上回った。月と食虫花の間に割り込むことに成功すると、そのまま食虫花の身体を勢いよく突き飛ばして、その場に蹲った。立ち上がれたら、月を捕えている蔓を引きはがそう。そう思いはするものの、一度座ってしまうとなかなか立ち上がれなくなってしまった。
「大したものね」
突き飛ばされた食虫花があたしを見ながら言う。
「お前の頑張りは褒めてあげる。でも、もう限界でしょう? 諦めなさい。無駄に苦しんでも、不幸になるだけよ。今日邪魔した事は、忘れないでおくわ。いつかお前にかけられた守りの呪いが切れる時を楽しみにしておきなさいな」
諦めてなるものか。
蜜の魔力に抗いながら、あたしはどうにか再び立ち上がった。
絡新婦たちはまだ来ない。蝙蝠の男に見つかってしまったのだろうか。どちらにしても、他人なんか頼れない。月はあたしの大切な人。あたしの幸せはあたし自身がこの手で取り戻さなくては。背後より感じる月の微かな視線を支えに、あたしは立ち尽くした。
闘志を込めて見つめるあたしを食虫花は軽く手招きながら言った。
「そう、諦めないのね。本当に馬鹿な子」
太陽の加護がこの身にあろうとなかろうと、この瞬間だけは、あたしもきっと恐れなかっただろう。
月を守らなくては。
単純でありながら果てしなく大きい願いと共に、あたしは素早く振り返り、動けない月の手から聖剣を奪った。今は朦朧としているけれどあたしだと分かっているのだろう。月はあっさりと聖剣を手放し、あたしにくれた。
初めて握りしめる胡蝶には重たすぎる武器。何かを傷つけるためだけのもの。それを手に振り返ってみれば、食虫花は冷たい視線をこちらに向けてきた。
「聖剣は女神のもの。本来ならお前のような虫けらに持てるものでもない。月の印を持つ程度のお前であっても、藁一本切るくらいしか出来ないわ」
そうかもしれない。でも、そうだとしても、その藁一本切れるくらいの力があたしには必要だった。聖剣を手に恐れずに動くあたしを、食虫花は警戒する。女神とは比べ物にならなくても、この剣が怖いのは変わらないのだろう。
そう、藁一本切れないのではない。
藁一本くらいならば切れる程度の力があたしにもあるのだ。
「来るなら来なさい。でも、後悔しても知らないわ。命を奪わずとも、お前を苦しめる事は出来るのだから」
食虫花が蔓で挑発する。
もしも猛々しい血を受け継いだケモノだったならば、あたしはきっと取り返したい大切な人の為に怒り狂って飛び込んでしまっていただろう。けれど、あたしは本来か弱き者。月よりも、そして太陽よりもずっと高位の神々によって、あらゆる存在の糧となるよう作られた弱き胡蝶に過ぎない。
そんなあたしを誘い込めるとでも思っているのだろうか。ああ、思っているのだろうこの人は。食虫花だってあたしの事をよく知っている。もはやそんなに短い付き合いでもないのだから、今更知らないなんてことはないだろう。
貧弱な肉体、脆い精神。強さの片鱗すらないはずのあたしなのに、大切な存在のこととなれば、猛獣並みの闘志だって芽生える。あたしが力に簡単に屈するような者でしかなかったならば、そもそも月とも出会えないまま、食虫花に喰い殺されていたのだから。
あたしは支配されるものではない。
けれど、この世の理を無視できるほど強いわけでもない。
ならば、今、あたしに出来ることは何か。
聖剣を握って構えるあたしを食虫花が蔓で攻撃する。その攻撃を避けるように、あたしは月の傍を離れた。食虫花がさり気なく壁に囚われる月の前へと移動する。彼女にしてみれば、欲しいのは月だけ。絡新婦などならまだしも、まさかあたしに負けるとは思わないだろう。けれど、油断は絶対にしないはず。
慎重にあたしの動きを見つめ、少しも手を抜かずに蔓で襲ってくる。ここで囚われれば、あとの望みは絡新婦達ばかりになってしまう。囚われないように気を付けながら、あたしは蔓を避け続けて慣れない聖剣の重みをどうにか堪えながら野生花の少年の囚われている鳥かごのような檻の辺りまで近づいていた。
「蝶、離れて!」
少年が中から声をかけてくる。
「この檻は生きている。蝶を捕まえようとするかもしれないよ!」
勇ましく立派な青年になろうとしている少年だけれど、まだまだ華に似て可憐な花の子である彼をちらりと見れば、薄紅色の目一杯に心配を浮かべているようだった。そんな彼に微笑みかけ、あたしは動いている蔓の全てに気を配った。持てる力の存分に。そんな思いを込めて、食虫花の攻撃を見計らって、あたしは避けると同時に少年に答えた。
「じっとしていて!」
あたしの行動。それを果たして、食虫花も予想していただろうか。
食虫花の攻撃を避ける振りをして、少年の囚われた檻を壊すあたしを。そして、生きた蔓で出来た檻を壊してしまえたあたしの力を、食虫花は予想できたのだろうか。
少年は気の聡い子だった。あたしの行動の真意を素早く読みとると、聖剣の動きを見つめて避け、壊された檻が再び修復されるより先に外へとするりと抜け出していた。お陰で、そつなく檻を壊せたあたしはその場を逃げる事に専念できた。
すぐそばを鋭く動く蔓が通ると同時に、あたしの耳には食虫花の苛立つ声が届いていた。
「本当に、本当に面倒臭い子ね」
そして、次にあたしが向かう先を見抜くと、蔓を向かわせながら叫んだ。
「鳳、こっちに来なさい」
雷鳴のような声に、鳳は震える。彼女が捕えているのは同じ胡蝶の娘。何処となく方によく似ているが、名も知らぬその娘はきっと絡新婦の隷属だろう。迷いを表情に浮かべる鳳に、食虫花は冷たく命じた。
「絡新婦のお人形は放していいわ。蝶を見くびっては駄目。その手に握られているのは聖剣。お前を傷つけられたら、私も困るのよ」
そこでようやく鳳はあたしの狙いに気付いたらしい。
それでも、あたしは止まらなかった。狙いは鳳だけだ。同じ胡蝶として哀れみはあるけれど、食虫花に勝つにはこれしかないと思っていた。力の弱い胡蝶同士、それも、女同士ならば、対等に戦えるはず。彼女を取り押さえてしまえば、食虫花とも対等に渡り合える力を手に出来るのだ。
それが、魔女と隷属という関係の弱点。
しかし、その真意を食虫花によって知らされた鳳は、命ぜられる通りにあたしを避けた。捕まえていた胡蝶の娘が逃れるのに目もくれず、あたしの持っていた聖剣を避けて、そのまま食虫花の蔓が守ってくれる場所へと逃れたのだ。
彼女は食虫花の宝物。一生取り消せない契約の元、あの蔓で出来た檻から逃れることも出来ない存在。そんなお人形のような鳳を、今しがた助けた胡蝶の娘は、あたしの横で名残惜しそうに見つめていた。
「ああ……もうどうしても駄目なのね。貴女は一生食虫花の――」
「大紫……」
少年が慰めるようにその名を呼んだ。
大紫。その名は絡新婦に貰ったのだろうか。その名に相応しい雅な風貌の娘。あたしよりも年下だろうけれど、何処かしっかりとした印象を持つ彼女は、鳳の立場を見せつけられて悲しんでいた。
それを見て、ああそうだ、と思い出した。
鳳の生い立ちは聞かされている。食虫花が蛹を見つけ、屋敷へと連れ去った為に彼女は隷属となった。けれど、蛹は二つあって、その内の一つは絡新婦が奪って行ったのだと。一つは食虫花が。一つは絡新婦が。
――そう、だから、この二人は……。
泣きながら大紫は嘆く。
「もう、貴女の事は諦める。『鳳』だったわね。食虫花の手下として、此処で朽ち果てなさい。姉として貴女の命は誰にも渡さないわ」
それは紛れもない宣戦布告だった。
――こんな事があっていいのだろうか。
泣きながら大紫は実の妹を呪っている。そんな姉を前に、鳳は諦めた表情のまま逃れようともしない。全ては食虫花の所為。けれど、その食虫花だって、蝕という得体の知れない存在に心を侵されている。
勝つか負けるか。
それは、命を賭けてでしか決められないことなのだろうか。
戦いを終わらせる方法。その全ては神のみぞ知る。そう、食虫花の力を奪い、悲しい対立を失くすことが出来るのは、もはや神様だけ。
「蝶……!」
緊迫する空気の中、その声は部屋の入り口から流れ込んできた。
振り返るまでもない。懸命に走って、あたしの無事を抱きつくことで確かめるその子のことは、目で見なくとも香りで分かる。あたしが無事でいることが嬉しいのか、はたまた、挑発されるままにあたしが危険へと飛び込むのを阻止しようとしているのか、どちらかは定かではないけれど、彼女はあたしの胴から離れないまま、不安げに月を見つめていた。
「華」
そっとその名を呼び、銀色の美しい髪を手で梳いてからあたしは誓った。
「あたし達の平和を取り返しましょう」
月が食べられてしまう前に。