1.味方
『花狩り』の直後の話です。
◇
やや冷たげな風が私の心までも冷やそうとしている。
こんな新年は初めてのことだった。
生まれてこの方、新年には人間たちの都で盛大な祭りが開かれると聞かされてきたけれど、その祭りに参加できることなんて一生ないことだ。それどころか、生まれ落ちた城から出して貰えることなんて絶対になかった。
年末年始とは、城の中でひっそりと迎えるもの。
これまでだってそうだったし、此処しばらくもそうだった。
だが、ここ数年はそれでも決して寂しくはなかった。理由は城に招き入れた二人の娘のお陰だ。一人は今現在、私が手を繋いでいる銀髪の美少女、華。人間にしか見えない容姿をしていながら、その本質は花。人工花と呼ばれ、人々を喜ばせる存在として人間たちに血統を守られてきた一族の出。約束された血筋に違わず華もまた、孤独な女神としてたった三十年の時に縛られる私の心を癒してくれる少女に変わりなかった。
そもそも華を大金で買うことになったのは、もう一人の娘の為だ。胡蝶。愛らしい虫の妖精。人間にしか見えないが、その本質は蝶々。花の蜜を吸わねば生きていけない儚くも美しい生き物。女神である私の名を持つ森に繁栄し、気ままに暮らしているその一族の娘は、もうずっと私の傍に止まり続けていた。
蝶。そんな単純な名前を持つ胡蝶の娘。彼女を養うには蜜が必要だ。森には胡蝶を食料とする危険な者が沢山いる。危ない目に遭うことが分かっていながら花の蜜を吸いにいかせるのは忍びなかった。
だから、華を買ったのだ。それぞれが私の元にいる理由はだいぶ違うけれど、今では二人とも私のかけがえのない存在に違いない。
けれど、今、私の元には華しかいない。
魔性を秘めた虫の妖精。胡蝶の娘。私の愛すべき存在であり、弱点でもあった蝶は今、恐ろしい魔女の屋敷に連れ去られている。
「月……」
暗い顔になっていたのだろうか。
手を繋ぐ華がそっと私を窺った。
「大丈夫だよ、華」
静かに答え、私は今一度周囲を見つめた。
私達がいるのは月の森。朝日を迎えたばかりの我が名を持つその場所を、静かに、慎重に、歩み続けていた。利き手に持つのは聖剣。これから待っているだろう事を考えれば自ずと気持ちは高ぶってしまうが、華と手を繋いでいるお陰でどうにか冷静さを失わずにすんでいる。
私達二人を先導するように先へと進むのは少年と、年若い娘。華の友人である野生花という種族の名もなき少年と、蝶と同じ血をひく胡蝶の娘――大紫だ。
今現在、進むべき方向を知っているのは大紫だった。私達を待っている者がいるのだ。大紫を私の元に使わした人物。人と言い切るのは少々間違っているだろう。使わされた大紫が人間でないように、彼女の主人もまた人間ではない。
絡新婦。女郎蜘蛛の魔女だ。そして、彼女の僕である胡蝶の青年蚕。二人とも今の私にとって大切な味方であった。傍観者ではない。私に力を貸す事が出来る貴重な存在と言ってもいい。協力してくれるのならば、その強力に大人しく従うべきだ。
これから私は、今まで生きてきた中で最も危険な戦いを仕掛けに行くのだ。
全ての始まりはいつだろう。まだ私が五歳で、女神としても幼かった頃に遡るべきだろうか。いや、本格的に始まったのはそれよりずっと後だろう。蝶が私の元に舞い込んできたのも、華を買う事になったのも、全てはある一人の魔女がきっかけだった。
その魔女のせいで、私はずっと窮屈な暮らしをしてきた。そして今も、その魔女のせいで平穏な年末年始を迎えずに、聖剣と仲間と共にその居場所を攻め込もうとしている。
魔女の名は食虫花。狙いは女神である私の心臓。
ただの花の魔女であったはずの彼女は、今や私の命とそれに直結するこの大地そのものの命運を揺るがすまでの存在となってしまった。
何故なのか。そのからくりは分からない。
しかし、はっきりとしているのは彼女が私の敵であることと、愛する娘に違いない蝶を奪っていってしまっているということだ。
返して欲しければ攻め込んでこい。
彼女は使いを通じてそう言った。一人で等という卑怯なことは言わなかった。正々堂々と攻め込んで来るがいいと、確かにそう言ったのだ。
何か策があるのだろうか。
彼女の狙いが良く分からない。
どうしてそこまでして私の命を狙っているのだろう。ずっとずっと疑問だった。私が死ねば、月と名の付く大地は滅んでいく。生き物の住めない枯れた大地となり、二度と元には戻らないと言われている。
月の大地に生まれた者たちは私を厳しく管理しようとする。三十年経ち、月が満ちれば月の女神は跡継ぎの娘を残して殆どが死んでしまう。私もその運命は避けられないだろう。そのため、せめて跡継ぎを産むまではと蝶の事も諦めさせようとしてきた。
そのくらい恐ろしいことを、どうして食虫花はしようとしているのか。
理由なんてどうでもいい。城の人間たちとしては、こんな分かり易い挑発に乗らずに蝶を諦めてもらいたいのが本音だろう。
けれど、私は此処に居る。
力を分け与えてくれたのは太陽の女神。私よりも高位に存在し、自分の大地と月の大地を共に守っている不老不死の女神。彼女が与えてくれたものは絶対に、蝶を取り戻すための導きをしてくれるだろう。
そう信じて、私は此処に居る。
大切な存在を奪い去られ、じっと命を狙われる瞬間を待っているくらいならば、堂々と誘いに乗って戦う方がずっといい。
太陽の力を信じ、そして、自分の力を信じ、私は進み続けた。
「月様、もうすぐです」
先を行く大紫が振り返り、小さな声で告げた。
きっと夜空か木々の影などから食虫花の手下どもが私達のことを監視していることだろう。けれど、構うものか。私の目には食虫花しかない。全ての元凶であり、最大の敵である彼女しかなかった。
そして私は、敵を同じくする者たちと合流した。
◇
絡新婦たちの姿はすぐに見えた。
何故なら、普段蜘蛛が使うことのなさそうな松明の火がちらほらと見えたからだ。持っているのは絡新婦でもなければ蚕でもない。その他の虫ですらない。獣というのも何か違うだろう。それは、人間の男たちだった。
花狩人と呼ばれる者たちだ。
人間たちの決まりと私の許しという二つの縛りを守った上で、誰の保護もない花たちを捕えることを生業とする者たち。彼らに許可を下ろしたのは私。その対象は、華や少年のような我が森にも反映している白い花の一族などではなく、今向かっている屋敷で待ちかまえている食虫花であった。
食虫花は名前の通り虫を食べる花。甘い蜜で胡蝶などの虫を誘い込み、残酷に食べてしまう。しかし、それだけならば絡新婦だってそうだ。私の味方ではあるが彼女だって蜘蛛である。胡蝶を始めとした虫たちを食べなければ生きていけない。
だが、食虫花はそれだけではないのだ。彼女は人間を襲った。大地を行き交う旅の人間を襲い、喰った。生き残った者たちの証言でその事が分かって以来、食虫花は人間たちにとっても敵となったのだ。
それに、彼らもまた私の名をもつ大地で生まれた存在。女神である私が死ぬ事で、自分達の住まう大地が滅ぶことを恐れている。
だから、彼らも此処に居る。
正式な花狩人として、此処に居るのだ。
「月様……」
人間たちが私の姿を見るなり膝をつく。そんな事はしなくていいと言ったとしても、聞いてはくれない。彼らは彼らの信仰でそうしているのだから。
「遅れてすまない」
人間たちと、絡新婦たちに向かって、私は言った。
「説得に時間がかかった。待ってくれていたのなら感謝する」
絡新婦と人間たち。きっとこうして一緒にいるまでに悶着が色々あっただろう。それでも、私の見る限り、酷いものではなさそうだった。
「月様、申し訳ありません……」
控え目な声で絡新婦が言いだした。
「貴女様の手を煩わせることとなってしまったのは、私が力不足だったから。食虫花が何故、あそこまで力をつけてしまったのか、その背後に何があるのか、何も分からないまま貴女の手を借りるのは正直恐ろしいことです。なんせ彼女は私の旧友までもを――」
そう言いかけ、首を振る。
その言葉に、状況を察した。絡新婦は絡新婦なりに頑張っているのだ。しかし、いつまでも彼女ばかりに頼ってはいられない。彼女だって狙われているのは同じ。優秀な魔女としてその身体を求められているのだから。
「奴は厄介だ」
私は溜め息混じりに言った。
「何処から何処までが命の限界かも分からない。前にも一度、止めは刺したはずと思ったのに取り逃がしたことがある」
もう随分と前に感じる。
こちらも深手を負いつつも聖剣で確かに斬りつけ、塵となって消えていったはずなのに、彼女は生きていた。今ではきっとすっかりその傷も癒えているだろう。
「月様、心配いりません」
花狩人の一人がそう言った。
「討伐は私共に任せて、貴女様は貴女様の大切な存在を取り戻してください。我々は命をかけて貴女様をお守りします」
心強い言葉だ。
しかし、甘え過ぎてはいけないだろう。
彼らは人間なのだ。恐らく、人間の町の花狩人の中でも選ばれし屈強な者たちなのだろうけれど、その本質はただの人間だ。私のように丈夫なわけではない。
それに、私には意地もあった。
食虫花の息の根を止めるのは私の剣だ。蝶を奪われ、これまで散々苦しめられてきた怨みもある。女神として生まれた私が、女神にあるまじき負の感情を溜めこむこととなってしまったのは、すべてあの魔女のせいだ。
「有難う」
短く礼を言いつつも、私の心の闘志は弱まったりしなかった。
◇
食虫花の屋敷の場所は少年や絡新婦たちがよく知っている。
私や花狩人たちを欺く事は出来ても、日頃森で暮らしている彼らを騙す事は難しいことだろう。しかし、食虫花は得体のしれない魔女。底を知らない魔力に惹かれ、或いは、命惜しさに彼女の僕に下った者は想っていたよりも沢山いるようだ。
――ここ数年で増えたのかもしれない。
魔術師や魔女の隷属になれば、その者は多少なりともその力の恩恵を受ける。食虫花が強ければ強いほど、本来ならば魔力を少しも持たないような者でさえも、簡単な魔術程度ならば操れてしまうのだ。
しかし、隷属が多ければ多いほどいいというわけでもない。隷属とは主人の弱点にもなり得る。彼らの死の責任は主人の精神に重く圧し掛かる。また、主人の死は隷属の死でもある。蝙蝠を筆頭とした食虫花の隷属達は、皆、例外なく食虫花の死を恐れているだろう。
だから、食虫花はその魔力を惜しみなく自分の隷属に与え、隷属たちも食虫花の為に必死に動こうとするのだろう。
食虫花の屋敷まで幾らか近づいてきたかと言う頃合い、昼間だというのに殆ど日の射さない暗い森の中で、私達の行く手を阻む靄は現れ始めたのだ。
前が見えなくなり、何故だか方向感覚もおかしくなった。
四方から聞こえてくるのは囁くような声。こだまして、私たちの耳を襲ってくる。
「幻術……」
真っ先にそう言ったのは絡新婦だった。
正しく見破ることが出来るのは同じく魔術をよく知る彼女くらいのものだろう。ならば、彼女こそがその術を破ることが出来るのだろうか。
答えは、やや不安なものだった。
何を言うよりも先に、絡新婦はまず糸を伸ばして靄で見えぬ先に居る者を襲った。感覚が彼女を導いたのだろう。その糸に驚いて逃げるのは羽虫。人間を手のひらの大きさにしたくらいの外見をしている。だいぶ雰囲気も違うし、知性もあまり感じられないが、蝶や蚕、大紫のような胡蝶と同じ、虫の妖精の仲間だ。
一人が逃げ出して術を唱えるのを止めた。しかし、それだけでは靄は晴れなかった。
「術者の数が多いようです」
絡新婦が私に言ってから、更に糸を四方八方へと飛ばす。だが、追い払ったと思えばすぐにまた次の羽虫が戻って来て、何処かで魔術を唱え出す。絡新婦一人ではどうしようもなかった。だが、私には羽虫の居場所がさっぱり分からない。人間たちも同様だし、絡新婦の隷属であり、その力の恩恵を受けているはずの蚕や大紫でさえもそうであるらしい。
華と少年もまた、困惑気味に辺りを見渡していた。
聖剣を握りしめ、靄を斬ってみれば、近くに居たらしき羽虫が飛んで逃げていく。それを見て花狩人達や少年、蚕も同じく追い払おうと得物を振るい始めたが、絡新婦の意図と同様、武器が当たる事はなく、羽虫達は飛んで逃げてすぐにまた何処かで術を唱え始めてしまう。
「これじゃ、埒が明かない……」
苛立ちが言葉になって零れていく中で、上空より耳障りな笑い声が聞こえてきた。蝙蝠。食虫花の忠実な僕のあの男の声だ。私達をずっと監視しているのだろう。羽虫達に指示を送っているのも彼かもしれない。
――奴さえ叩けば……。
しかし、彼の居場所は恐らく遥か上空。私の剣が当たるような場所ではない。
――これ以上、消耗させるわけには……。
そんな時だった。
靄のかかる視界の端で何やら白い影が見えた。その影にふと気を取られていると、一方から羽虫達の囁きに混じって、奇妙な悲鳴が聞こえだした。悲鳴はすぐに複数起こり、ぱたぱたと羽虫達が逃げ出す音が起こり始める。
「お前は……」
何処かで蝙蝠の恨み声が聞こえてくる。
だが、一瞬だけ空に食虫花の蝙蝠ではない何かがいるのが見えた。こちらは黒い姿をしている。靄が薄れ始め、目を凝らそうとしたその時、辺り一斉に響く音波のようなものが発生した。
「羽虫達。私に喰われたくなかったら今すぐ失せろ!」
女性の声だった。だが、知らない声だ。
蝙蝠が怒り、彼女を襲おうとするが、それよりも先に羽虫達は逃げ出してしまい、そしてその人物も地上へ――私達の傍へと降りてきた。
靄が晴れ、上空の蝙蝠とその人物がはっきりと見えた。
その姿に息を飲んだ。
――こっちも蝙蝠?
黒い髪の人間のような姿。だが、人間などではなく、蝙蝠の女だった。上空にいる蝙蝠の男を小馬鹿にするように見上げ、問いかける。
「あーあ、皆逃げちゃったね。奴の隷属と言っても賢くないから誰かが管理しなきゃならないんだろう? 何処かいっちゃったらあんたの立場も危ういんじゃない?」
その言葉に蝙蝠の男の表情が歪んでいく。
しかし、降りたって彼女を襲う事は出来ない。無理もないだろう。傍では私が聖剣を持って構えている他、絡新婦や花狩人たちまでいるのだから。
短く悪態を吐いてから、蝙蝠の男は翼を広げた。
「随分と思い切ったものだ。後悔しても知らんぞ」
私達ではなく、蝙蝠の女に対してのみのようだ。
全てが去り、私達の行く手を阻む靄もすっかり消えた事を確認すると、蝙蝠の女は改めて私達を見つめた。そして、彼女が何か言おうとした時、すぐにその傍に白い姿の少女が寄り添いだした。
白い花の少女だ。少年と同じ、野生花なのだろう。
「あ……貴女たちは誰?」
華が真っ先に訊ねると、二人とも微笑みを浮かべ、そして私をじっと見つめながらこう言った。
「私達は月様に従いながら生きる者」
「そして、食虫花の屋敷の内部をよく知る者です」
彼女たちの声が、心に強く響いた。