5.帽子は記憶を詰め込むもの -前編-
世界は、誰かが人間の繁栄と進化に限界を感じたときに水没したような気がした。それも一度ばかりではなく、何度も……何度も。果たして、生命の源とまで表現される水や海は、世界を水没させる度に何を洗い流そうとしていたのだろうか。文明? 歴史?
人間に至っては明確だ。彼らは、自ら発展の証明とも言える文明の大半をいとも簡単に……そして望んでいたかのように捨てていく。
通信ネットワークや近代技術、戦争の力、時間を費やして発展させていったモノを捨て去る度に、人間は生き残る術を代償として得ていった気がした。
私自身も人間に捨てられた文明の一つ。アンドロイドというカテゴリーに分類される存在だ。歴史の授業で一番最初に行われる『第一次水没確定日』の一年後に稼働を開始している。稼働を開始してから初めて認識した視覚情報は、自分の身体が収容されていたカプセルと水没したありとあらゆるモノだった。私の身体は他のアンドロイドに比べて防水・耐圧機能が優れていたのは、私を設計した技師がこのような事態を想定していたのかもしれない……。
水の中でも機能制限を受けることなく活動する事ができた事もあって、稼働を開始してから……およそ二ヶ月後に緊急脱出用の小型推進ポッドを使って水没した施設から海面へ上がる事ができた。陸地を目指すために衛星量子通信デバイスに接続した私は、そのとき六割ものの大地が沈んでしまった事を知った。初めて衛星量子通信デバイスへ接続してから約二週間後に、生き残った人間が生存している陸地へ辿り着く。
私はそこで誰に命じられる事もなく、人々の生活を観察するようになった。もしかしたら、防水・耐圧機能が優れていたのも、捨て去られてしまったはずの衛星量子通信デバイス接続能力を保持していたのも、世界の水没を願った誰かがその後の世界を知りたかったのではないか……と考える事がある。本当にそんな人物が存在していたら、かなり迷惑な話だろうけど。
私が人間の中に混ざって観察を続けているうち、陸に住む場所もなくて海へ放り出されてしまった人間は、自分達が上に乗っても沈まない物体や物資をどこからともかく探し出してきた。それらを人工島や舟の残骸へ無秩序に繋げては偽物の大地を作り上げていくのだが(正体がバレない程度に、私も技術協力はしている)、そんな苦労もすべて灰燼へ返していくかのように一つ、また一つ、残っていた大地が徐々に水の中へ沈む度に偽物の大地は倒壊を繰り返していく。
何十、何百、何千と倒壊が繰り返されてきた中で、ある日突然に「大地が蘇った場所があるらしい」という噂が人間達の間で爆発的に広がっていった。
「馬鹿馬鹿しい……」
私も実際にその話を聞いたとき、”フッ”とワザと音を立てながら鼻で笑って話を一蹴したのを覚えている。これまでずっと人間を観察してきたが、そう言った内容の噂はいつも長続きした事が無かった。しかし、今回の噂に限っては何年経っても噂が消えることなく、人間の間で噂が広まり続けていく。ついには、その大陸を見た……と主張する者まで現れ始めた。
本当に復活した大地が存在するのだろうか? いくら衛星量子通信デバイスに接続できる能力を持っているとはいえ、情報を収集するカメラが搭載された衛星をネットワーク経由で操縦する権限は、私には無かった。現在見ているデータも更新が途絶えて結構な年数が経過している。
「見たい……」
私はそのとき、初めて自分の中で静電気のような小さくて強いスパークが起こった事を感じ取った。これが、人間が持っている「興味」や「欲求」という感情なのだろうか?
居ても立ってもいられなくなった私は道具を一通りリュックへ詰め込むと、人間が行う持久力を高めるための有酸素運動と同じように走り出した。
走る事で改めて思ったが、人間の人体構造というのは実に面白い。呼吸することで体の中にあるエネルギーを燃やす火種とし、燃やすことで循環しやすくなったエネルギーは、身体を動かしながら効率的に体内を巡っていくのだ。
私の体内構造は人間と極めて近しいこともあって、呼吸することでエネルギーを蓄えることができる。人間と決定的に違うのは、人間は身体を酷使すれば体内でより強いモノへと精製されなおしていくのに、私たちは身体を酷使すると金属披露が溜まって劣化してしまうのだ。これにより定期的なメンテナンスが必要になってしまうので、結構な時間をくってしまう。それでも、私の旅は遠く、また遠くへと進んでいった。
乱れないリズミカルな四秒子で大地を踏み、蹴り上げて走りながら、視認情報を使ってデバイスのデータを上書きしていく。道は人々が住んでいる場所から遠ざかる程に舗装が剥げ、うねり、山道へと変わっていった。でも、どこかに必ず人間が通った痕跡を見つけることができる。総人口数は未だ緩やかに減少を続けているが、それとは正反対に人間は世界が水没した当初より活発的になってきている気がした。
私がその人と出会ったのは、復活した大地を初めて目にする事ができた日だったと記憶している。
その日も私はいつものように走っていた。いや、幾分か気持ちが高ぶっていたかもしれない。それは、ようやく復活した大地を実際に目撃した人から話が聞けた事や、森に埋もれていた「列車」と呼ばれる輸送機関から誰の持ち物なのかは分からないが、十分使えそうな装備や……帽子を見つけたのもあった。本当は旅費の足しにしようと思っていたのだが“ナニカ”を帽子から感じ取り、帽子だけは手放せずに今も被っている。その帽子は、ブリムは狭く、つばの前は下がっていて逆に後ろは上がっている。クラウンは小さく飾りひもや羽毛などがついていて、水没前のデータベースを検索すると「チロリアン」という帽子の名前が検索された。
「アンドロイドの自分には、今まで考えられない感情を……最近抱いている気がする」
これも、もしかして徐々に深まっていく自然の緑が、私に思いもよらない影響を与えているのだろうか? いくら思考し続けていても回答に辿り着きそうにないので、私は人間が集まる集落で足をメンテナンスしてから今日も走り出していた。
人がいる集落から街道へ、さらに視界の全てが存在するすべての緑色の名前で表現できそうな深い森へ、地面が向きだしの土と石に変わった山道へ、木々の間から零れる日差しが強くなったかと思うと森が切れて青空が現れる。私が本当の人間ながら潮の匂いを感じ取るのだろうが、自分の視界に上書きされた素っ気ない電子情報を目にすると……何だか溜息を漏らしたくなってきた。
走り出してから、間近で海を目にしたのはこれが初めてである。雄大で美しいその光景に思わず見とれてしまうが、自分が動き出した後でしばらくはこの中を泳いで陸地へ向かっていたのだから……恐れ知らずな事をしていたものだ。
海を存分に見渡せる浜辺へ打ち上げられた流木へ腰掛けると、バックパックからお弁当箱を取り出す。人間と生活を共にすることで“食べる”ということが習慣になっていた。アンドロイドに必要な栄養源をグルテンに混ぜて外見だけ色々な料理を模倣した固形燃料なのだが、口があったり私のような人に模されて作られたアンドロイドやロボットには娯楽として人気がある。お弁当箱の蓋を開けると、色とりどりのおかずと一緒に握りしめた拳よりも大きなハンバーガーが二つ出てきた。
「味がわかるって……どんな感じなのだろうか?」
ハンバーガーを一つ手にとって口へ運ぼうとしたとき、波打ち際に誰か立っているのが見える。その男性は線が少し細くて、黒髪と白髪が入り交じった長い髪を一つに束ねている。藍鉄色のケープと洋服から見える腕は少し肉付きがよく、手には大きなトランクバックを持っていた。初老……というより、見た目や雰囲気は中年といった感じだが、不思議と外見だけでは年齢を特定することができない。何とも不思議な人だ……。
彼は私の視線に気付いたようで、海から目線を外してこちらへ振り返った。
「こんにち……」
彼は挨拶の言葉を口にして、最後まで発することが出来ずに立ち上がった姿勢でその場に立ち尽くす。何だろう、私に何か違和感があるのだろうか? 私以外にも稼働しているサイボーグは街には大勢いるのだから、物珍しくは無いはずだ。
「こんにちは」
私が挨拶をすると、彼はあわてて挨拶をやり直す。
「申し訳ない、あなたが手にしているハンバーガーを見て、急にお腹が空いてしまった事を思い出しまして」
彼はそう言いながら私の目の前までやってくると、私の隣へ腰掛けた。
「初対面なのに申し訳ありませんが、相席しても良いですか?」
「えっ!? えぇ、構いません。私の所有物ではありませんし」
「ハハハハ、あなたは面白い事をおっしゃいますね」
私は彼の笑顔を直視してみるが、何か不思議さを感じさせるばかりである。ふと、彼が背負っていた大きめのリュックサックから取り出したモノを見て、私は思わず首を傾げそうになった。彼の手に持っているのは私がもっているモノと同じサイボーグ食である。彼も私と同じサイボーグだから、何か不思議な感じがしたのかもしれない。しかし、彼はハンバーガーを一口頬張った途端
………
……
…
思いっきり、顔をしかめていた。