4.食べ物は記憶を蘇らせるもの -後編-
「他のお店に比べてメニューは多くないですけど、どれも自慢の料理ばかりですよ。あ、メニューにない料理も相談してもらえればレシピを探して作ってみますので」
「レシピをですか?」
「はいっ。私のおばぁ……祖母が色々な料理に詳しくて、聞けば色々とレシピを教えてくれるんですよ」
男性はメニューブックを閉じると、自分の内面を探るように強く目蓋を閉じるのを見た。
この人は、一体どんな思い出からメニューを探そうとしているのだろう? 正直な話、私は色々なお客さんのそう言った仕草を見るのが好きだ。本当はさっき奥へ行ってしまった兄がおばぁに変わってお店を引き継ぐのが一番なんだろうけど、兄は
「俺には料理の腕はからっきし無いから、止めておくよ」
そう言って、郵便局員となって空を飛んでいる。まぁ、私が厨房に立っているのはそのお陰でもあった。
「メニューを決めましたよ」
見た目や実際は初老の男性なのだけど、少年のように好奇心旺盛で嬉しそうに瞳を輝かせている。男性は何歳になっても、こういう子供っぽい部分が残るモノなのだろうか?
「『キッシュ』って料理はわかりますか?」
「……?」
私は、男性が言った言葉が理解できなくてキョトンとしてしまう。それを見た男性は、少し間を置いて苦笑を浮かべた。
「キッシュというのはですね、大きな海沿いの国で育まれた郷土料理の名前です」
私は男性の話に関心しながら、これまでおばぁが聞かせてくれたレシピを書いたノートを開く。おばぁがくれたこのノートは、紙に穴を開けてリングでまとめていくタイプで、辞書のように料理名を五十音順で並べ直せるので便利だった。「き」の項目を調べていくが、男性が言ったような名前の料理は見つからない。つまり、今回が初めての料理のようだ。
「そうですねぇ。僕も詳しい作り方はわかりませんが、パイ生地やタルト生地に溶いた卵や野菜などを入れ、その上にチーズをたっぷり乗せて焼く料理だったと記憶しています」
聞いていると、美味しそうなイメージが沸くんだけど……。
「何だか、かなり高級な一品なんですね。卵やチーズなんてもはや嗜好品中の嗜好品なわけですし」
「っえ?」
私は呆然とした表情を浮かべている男性の顔を見て、思わず苦笑してしまった。
「別に料理を作るための材料が無いってわけじゃありませんよ。ソイチーズや、トウモロコシなどの澱粉にゼラチンなどを混ぜて作ったベジエッグが乳製品に変わって流通しているわけですし。これって小学校の授業でもやることですよ。何だか、冷凍睡眠していた人みたい」
思わず最近図書館で読んだ小説の内容を思い出して、そんな事を口にしてしまう。言ってしまった後でしまった……と思ったが、男性は怒りもせずに真剣な表情で何度も頷いている。
「あなたのその表現は、あながち間違っていないかもしれませんね」
彼の言葉に意表を突かれていると、お店の奥から少しだけ早足なおばぁの足音が聞こえてきた。おばぁは兄と共にお店へ顔を出した途端、口元を手で覆い隠す。
「……ソ、ソリャタリさん」
おばぁは一度大きな深呼吸をすると、すでに平然さを取り戻していた。
「おばぁ、この人はソリャタリっていう名前の人なのかい?」
兄の言葉に、おばぁはゆっくりと頷いてみせた。
「ソリャタリっていうのは二十七年おきにこの地へやってくる一人、もしくは一組の特別な旅人……旅行者の呼び名よ。今の若い人でソリャタリさんのしきたりを覚えている人はほとんどいないでしょうけど」
確かに、両親からそんなしきたりがあるなんて聞いたことがない。
「俺だって、朝におばぁが言っていたのを朧気に覚えていた程度で、それが初めて聞いたもんなぁ」
「そうなの? 私はそう言う話を聞いたことないよ」
おばぁは少し不満がこもった私の言葉を聞いて、笑みをこぼした。
「ゴメンね、別に隠していたわけじゃないのよ。ただ、お兄ちゃんは仕事で鳥を飛ばすでしょ?旅人はね、鳥に連れられてこの地へ来るの。だから、出会う確率で言えばお兄ちゃんの方が高かったのよ。でも、まさかね」
「確かに、あの飛行機は”鳥”と呼ぶのに相応しい美しい形状をしていましたね」
男性の屈託のない笑顔を眺めていたおばぁが、私の方へ目線を向ける。
「すぐに料理を始めないって事は、何かわからない料理の注文を受けたのかしら?」
もう、おばぁに見抜かれてしまった。
「キッシュって料理なんだけど、おばぁはわかる?」
「もちろん。二十七年前にもソリャタリさんは同じ注文をここでして、ソイエッグのキッシュを召し上がったのよ」
おばぁの言葉を聞いて、私は男性の目をジッと見つめてしまう。男性もおばぁの言葉を聞いて、かなり驚いているうだ。
「でも、この人。ここで食事をしたことはおろかソイチーズやソイエッグのことも知らなかったのよ」
「それは、この人がここへ来るのが二度目だからよ」
私は、おばぁの言葉にまたも首を傾げてしまう。どうして、二度目だと旅をしていた事を覚えていないのだろう? そのことを気にしているうちに、おばぁはエプロンを付けて厨房の中へ入っていた。手には空焼きが終わっているように見えるタルト型を持っている。
「ちょっとした予感めいたモノがあって、昨日の夜にタルト型を焼いておいたのよ」
「予感って……おばぁは相変わらず鋭いんだね」
「そうよ、人は色々な経験を得たり記憶を忘れたりするけれど、本質的なトコロはそう簡単に変わる訳じゃないのよ」
おばぁは私の方を見てウィンクをすると、オリーブオイルをしいた熱したフライパンの中へグルテンソーセージやほうれん草などを入れて炒めていった。
材料をすべて詰め込んだタルト生地をオーブンへ入れてから約四十分後、小さいベルの音が鳴ると同時に香ばしい香りが部屋中を満ちていく。
「お待たせしちゃってゴメンナサイね」
男性の前へキッシュを生地ごと三角形に切って皿に出されると、私も一切れ拝借した。
「熱いから、口の中を火傷しないように気をつけてくださいね」
さらに小さく切り分けた一片をフォークで刺し、熱を少しでも冷まそうと何度も息で吹いてから口いっぱいに頬張ってみる。
「あつっ、あちちっ!!?」
口の中を一瞬の熱さが過ぎった後、大豆特有の風味と一緒に脂肪分特有の濃厚さが複数混ざり合ってなめらかな味となっていた。そういえば、本物の卵って食べたことが無いけど……一体どんな味がするんだろう?
「そうだ、このチーズのような味と一緒にする大豆の味……。確かに、前に一度食べたことがある」
不意に聞こえてきた男性の声が心なしか、若返ったような気がした。
「それに、僕はこの料理を……」
男性の方を見ると、お店へ入ってきたときに比べて体つきが良くなったように見える。それに白髪ばかりのはずだった男性の髪に黒いものが多少混ざっていた。
「ソリャタリって一体……?」
何か固いモノが床に置かれる音が私の背後から聞こえてくる。振り返ると、いつの間にか大きなトランクバックを持ったおばぁがそこにいた。
「どうしたの、その鞄?」
「これは、そのソリャタリさんのモノよ。ワケあって……というより、ソリャタリさんに何があったのかはわからないけど色々なモノを残して帰ってしまったのよ。私が手元へ置いておけたのは、この鞄だけ」
「……そうなんだ」
おばぁがソリャタリさんへ鞄を返す光景を眺めながら、私はキッシュを再び口にする。
「まさか、この料理を食べたいから戻ってきた……って事はないよね?」
彼がこの濃厚な味を味わいながら、一体何を思いだしたのか少し興味を覚えた。
「いや……」
私は、彼の記憶というか『ソリャタリ』という言葉の響きが気になったのかもしれない。
兄がソリャタリと呼ばれる男性をどこかへ送って行ってしまった後、おばぁにソリャタリの歴史などを聞こうと思ったけど、いつも以上にお客さんが来たことで聞きそびれてしまった。仕方ないので、お店が終わったら自分で調べてみよう。