2.鳥の中で器は生まれる -後編-
出来るだけ機体を揺らさないように着水させると、俺は一度大きな深呼吸をする。
今日はあり得ない事が起こってばかりで気分を落ち着かせたかった。せめてコーヒーとか暖かい飲み物があれば、もう少し気分が落ちつくのに……。
心の中でそんな愚痴をこぼしながら、恐る恐る貨物室の扉を開けた。暗い貨物室の中へ徐々に光が差し込まれていく。それと同時に中へいる誰かの姿も見えてきた。
「良かった……誰もいない船か何かが動いているのかと……思いましたよ」
姿が見えたのは線が細くて長い髪を一つに束ねた男性で、藍鉄色のケープと洋服から見える皮膚はまさに初老と言い表せる深い皺が何本も覗いて見える。その男性は、力無く貨物室の床にへたり込んでいた。
「だ、大丈夫ですか? その前に一体何処からこの貨物室へ入ったんですか?」
「そうですね……。即答するのがちょっと難しいですね」
男性は自分の力で起き上がろうとするが、身体に力が入らないのか中々立ち上がる事ができない。
「正直、僕自身の記憶も曖昧な部分が多いんですよ」
「……曖昧ですか?」
男性は無言で頷いた。どうも両足に力が込められないように見える。
「今言えることは、僕はきっとこの世界の人間ではないでしょう。僕は空を落下している……と感じた次の瞬間には、ここにいたわけですから」
空を落下している? 今のこの時代、この機体より高い場所を飛べる乗り物なんてこの世には存在していないはずだ。それに飛んでいる飛行機から落ちたと言うのであれば、機体の外装を傷つける事無く飛んでいるこの機体へ乗り込むのは無理だし、少し衰弱しているように見えるだけ……というのもおかしい。
「本当に……落ちてきたんですか?」
男性はゆっくりと首を欲に振った。
「正確ではないと思いますが、他に表現のしようがありません。僕にもこの状況を説明して聞かせてくれる人がいれば良いのですが」
その意見には自分も同感だ。そう口に出して言おうとしたとき、貨物室の中が少し寒い事に気付く。そう言えば、手紙や荷物が湿気を吸ってしまわないために空調をドライに設定していたはずだ。
「とりあえず、ここから出ましょう。ここは郵便物などを入れるための貨物室で、手紙や荷物が湿気を吸わないようにしているんですよ」
男性は俺の言葉を聞くと、鼻をヒクつかせる。
「そういえば、微かに潮の香りがしますね……。ここは船か何かですか?」
「いえ、郵便局が所有しているモーフィング・エアクラフト・ストラクチャーズの中です。まぁ、この中を見られるのは俺達のようなパイロットや整備をしてくれる方々だけですから、物珍しいとは思いますけど」
「モーフィ……?」
不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げる男性を見て、俺も一緒に首を傾げそうになるが、男性が先ほど記憶が曖昧だ……みたいな事を口にしていた事を思い出す。
「えぇ、そういう種類の飛行機なんですよ。自力で立ち上がれそうですか?」
男性はもう一度自力で立ち上がろうとするが、まだ足腰に力が入らないようだ。俺は諦めて男性を抱え上げると、ゆっくりとした足取りで貨物室を後にする。
「あっ」
唐突に男性が驚きの声を上げたので、俺は思わず足を止めた。男性の目線を追いかけると、彼はキャノピー越しの風景をまっすぐ凝視している。
視界に入る大半は空の色を反射する海の青、添え物のように申し訳ない程度に見える大地の緑。そして、水面から呼吸をするために頭を出した魚を思わず連想させる太古の建物群があった。俺にとって、それは特別ではないいつもの見慣れた風景。
「世界は……水没した……」
男性がそう言葉を発した途端、男性が少し重くなったような気がした。
「……そうだ、僕はここに帰ってきたかったんだ」
「っえ?」
「今は忘れてしまっている事を……思い出したいんですよ」
さっきまでの事がまるで何かの幻であったかのように、男性は自らの足で立ち上がると、顔をキャノピーに近づける。その姿は、まるで好奇心を隠しきれない子供のようだ。
はしゃぐ男性と、どうしたらよいのかわからなくて唖然としている俺を現実に引き戻したのは、彼のお腹が空腹の音。
「スイマセン。すぐに休めそうなところへ行ければイイんですけど、あいにく配達の途中でして……」
俺は狭い機内を彷徨いて、簡易座席と救命袋から薄手の毛布を数枚見繕った。それを手際よく貨物室へと繋がるとても短い通路の上へ設置していく。
「すいません、こんな居心地の悪い座席しか用意できないんですけど」
「いいえ、こちらの方が……押し掛けるというか唐突にこの中へ来てしまったわけですから」
男性は簡易座席に腰を下ろすと、背もたれに体重を預けた。
「乗り物酔いとかは大丈夫ですか?」
「恐らく、大丈夫だと思います」
俺は彼の言葉を聞いて、自分が食べるはずだったモノを男性に手渡す。
「仕事はまだ掛かるので、それを食べてください。中に飲み物も入っていますから」
男性が控えめな音を立てながら紙袋を開けると、中には丸い形のサンドイッチと小さい水筒が姿を現した。彼はそれを目にした途端、控えめな喜びの声を上げる。
「旅始めの食事は、やはり……これなんですねぇ」
俺はコクピットで離水する準備を続けながら、彼の言葉を聞いた。この人は、おばぁが今朝言っていた人なのだろう。どういった人なのかは判断しかねるが、操縦桿を通して機体が他人を乗せる不快感を示してこないので、悪い人ではない……と思うことにした。仕事が終わったら、おばぁのところへ連れて行ってみよう。
そんな事を考えながら、俺は機体のエンジンを始動させた。