枷
鬱蒼と茂る森の奥深く、私は母と二人で暮らしていた。
家は大きな洞窟で、私の身長を二回足しても天井には程遠く、また、天井からは日が差し込む場所もありとても快適な住まいだった。
母は織物をして生計を立てている。
母自ら森で獲った葉や花で染色し織り上げる布はそれはそれは鮮やかで色美しく、男の私が見ても手に入れたくなる一品揃いだ。一番近い街へ卸に行けば待ち受ける卸問屋からは絶賛され、良い値段で引き取ってもらえる。本数が少ないと愚痴られつつも、その方が希少価値が上がるのだとほくほくともする。商売人とは恐ろしいなと苦笑するのもいつものことだった。
私はといえば母の手伝いだ。
日々年老いていく母と二人の生活だ、力仕事は若く、力のある男手の私が担うのは当然のこととして、所々に仕掛けてある罠に捕まる動物を屠り、生皮を剥ぎ、鞣し、肉を燻製にするのが日常だ。付け加えるなら洞窟の前の土地を森に痛手を負わさない程度に開墾し、畑を耕してもいる。二人が食するに十分すぎるほどの収穫は得られる。有難いことだ。
二人きりの生活はとても充実していて、これ以上の幸福はないと母に告げると、母はふうわりと笑って「私もよ、可愛い吾子」と言葉を返してくれる。至福の時だ。
私はこの生活がこれからも当たり前のように続いていくのだと思っていた。
ある日のこと、私は猟の最中に男を見かけた。
この辺りには珍しいものなど何一つなく、あるとすれば我が家くらいなんだろうが、母は母以外話す相手のいない私にすら誰にも家の場所を教えてはならないときつく言うくらい家の場所を知られるのを嫌がる。当然、母を訪ねてやってくる者などいないのだ。男が我が家を目指したのではないことは知れる。
声を掛けようかどうしようか迷ったが、下手に場所を知られるのも不快だと捨て置くことにした。
ところがだ、その男の歩く姿に違和感を感じて立ち止まったその時、足元の枯れ木を踏みつけてしまった。
しまった。
そう思って身体を隠すようにして踵を返したが遅かった。
「おい、待ってくれ……っ」
せっぱ詰った声に振り返ると、男はがくんと身体を不自然に揺らし、唸り声をあげて座り込んでしまった。
ああ、きっと怪我をしているのだろう。先ほどの違和感は妙に足を庇いながら歩く姿だったのだから。
どうせここにいるのがわかってしまったことだし、身動きが取れないほどのけが人を捨て置くほど非情でもない。座り込む男のそばまでやってきて、しゃがんで目線を合わせると、熱でも出始めたのかぷつぷつと額に汗が浮かんでいるのが見えた。力を込めすぎて筋が見える手は右足を抑え込んでいる。森に入るには華美で上等すぎる衣服はあちこち破れ、緑に染まり、汚れている。痛みのある右足のズボンからは血の滲みがないことから、怪我ではなく骨折かもしれない。思ったよりも酷い状態だった。
「大丈夫か」
声をかけても朦朧としているようで唸り声しか上がらない。
こうなれば招かざる客を迎えざるを得ない。
さて、母にどう知らせるか。
布と板を敷いた上に意識のなくなった男を出来るだけ丁寧に移動させながら、どう言いつくろっても母に良い印象は与えられないだろうなとため息をついた。
やはりというか、母は良い顔をしなかった。
けれども相手は意識のない男。その上、足を折っている。動くことも叶わない。
母は妥協した。機のある奥ではなく、洞窟の入り口近くに寝かせることで。
女である母の傍にわざわざ男を置いておくつもりはなく、母の指示通りに入り口近くの場所を開け、そこに板を置いて手当を始めた。
息苦しそうな服を緩め、ズボンを脱がし、骨の具合を見てみると、これまた綺麗に折れているようで助かった。意識がないのは幸いとばかり、それでももしものために舌を噛み切らないように布を口に含ませて、骨を接いだ。一瞬、目をカッと見開いたが、また意識を闇の底に落としたようで静かになった。意識を失っているというのに気丈な男だと呆れた。
それからは熱との戦いだ。濡らした布を何度かえてもすぐに熱くなり、また新しい布を額に乗せる。汗もどっと噴き出てくるのでそれも丁寧に拭ってやる。
その時だ。
私は不思議なものをみた。
思わず自分のものと比べてしまっても仕方がない。
なんだこれは、と声を出せば、衝立の奥から息をのむ音がする。
母は慌てて駆け寄ってくると、私の手から布を取りあげて言う。
「機織の音は病人には響くだろうからしばらく織物はやめました。後は私が引き受けましょう。吾子は替えの水を汲んできてもらえないかしら」
一度機嫌を損ねるとなかなか回復しない母であったのにどういう風の吹き回しか不機嫌の種である男の看病をしようとする。これが驚かずにいられようか。
「ほら、早く」
急かされるまま川に行き、水を汲み終え戻る頃には、猟が途中で放りっぱなしであったことを思いだし、道具の手入れのことで思考を埋めた。
そこに母の意図があったとは、思ってもみなかった。
男が目覚めたのは、それから三日ほど経ってのことだった。
母は染料となる花や草を摘みに森へ入っていったので、家に残っていたのは私だけだった。
「……ここは」
目脂で開きづらい瞼を無理やり開けてあたりをゆっくりと見まわしていた男は、私の姿を見つけるとしわがれた声で問いかけた。
「ここは私の家だ。 そなたは森の中で私を見つけると倒れたのだが、覚えてはいないか?」
「……森?倒れた……ああ、そうか。私は、」
うっと、声がくぐもったのは無理やり起き上がろうとしたせいだろう。
足が折れていることに気付かなかったのか。
「あ、足が」
「折れている。手当は済んでいるがせめて十日は動かすことをやめた方が良い」
「そうか。済まぬ」
「いや」
器の中に水を汲み入れると、男に突き出す。
男は力が入らない手を差し出してこわごわ受け取ると、一気に水を飲みほした。余りに豪快な飲みっぷりに苦笑しつつももう一度器の中に水を入れると、今度は比較的ゆっくりと飲み干して、ほうと息をついた。
「熱は下がったようだが、何か口に入れることはできそうか。三日も眠っていたのだ、身体が滋養を欲しがっているだろう」
「三日……?」
「そうだ。街には誰か心配しているものがいると思うが、家を空けるわけにもいかず誰にもそなたがここにいることを話してはいないが」
「いや。もともと森に入ればしばらく帰ってこないとは宿の者にも言っている。ありがとう」
「大したことはしていない。お礼を言うのは治ってからでよい」
「申し訳ない。動けるようになるまで厄介になる」
「……了承した」
男は模範的な怪我人だった。
身なりから言えばここでの暮らしは足らないものばかりであったろうに愚痴ひとつ言わず、出された食事も薬も文句も言わず口に運び、あまつさえ食事に至っては美味しいと何度も口に乗せる。母と初めて対面したときはまるで王族の女性にでもするような堅苦しく恭しい挨拶をするし、極力母の手を借りないようにと努力もする。もちろん私に対しても至極丁寧だ。言われたことはそのまま素直に実行するので、寝台扱いの板の上からほとんど動かず、とはいっても筋肉がおちるのを恐れているのか時々腕や腹の筋肉を酷使するような動きはする。好奇心が強いのか、家にある道具が珍しいのかわからないが、熱も引いたころからあれは何だこれは何に使うのだと質問攻めにされるのは辟易したが、それも元気になってきた証拠だろうと思うことにした。
杖を作って渡したのは、怪我をしてから十日を過ぎたころだった。
骨もある程度くっついているだろうがまだまだ無理をすればぽきりと折れる危うさだ。無茶はするなと念を押して手渡した杖に、男は至極喜んで何度も礼を言う。
これで手を煩わせずに外にいくことができると笑顔で告げられると、なぜだか胸が苦しくなった。
どうした、何かおかしなことでも言ったかと心配そうに覗かれた顔に、余計に胸が苦しくなって、顔を背けながら「浮かれて羽目を外して転げないように」とその場を逃げた。
それから男に何か話しかけられるたび、胸がぎゅっと苦しくなってどうにもならなくなる。
何かの病気かと疑いもしたが、普段過ごしている分には全く起きない症状だ。病気ではないだろう。
母に相談しようにも、母は必要以上に男に関わろうとはしないし、私から男の話を振ろうとしても気配を察知してか話題をそらされる。聞くに聞けない状態が続く。
食事時に椀を手渡しする時など要注意だ。指が軽くかすっただけでもどきりとし、指を引っ込めたくなるし、大した料理で持て成しているわけでもないのに美味しいと微笑まれればなぜだか顔が火照ってしまう。汁物を飲み下すときの上下する喉仏に男らしさを感じ、まだ喉仏すら現れない自分の細い首を情けなく思いもする。
私はきっと男が羨ましいのだろう。
男の割には身長は伸びず、重労働には不向きなきゃしゃな体。日の下にいても焼けることのない白い肌はなよなよしくて厭になる。街で見かける男たちとは全然違う風貌にもたまらないものがある。
私が密かに持つ願望をすべて表したような男が目の前にいるのだ。羨ましく思わないわけがない。
なるほど、それだと合点がいく。
同じ男としてあまりの違いに恥ずかしくはあるが、良い見本だと思えば恥ずかしさもかわすこともできるだろう。
そうこうしているうちに骨がしっかりと引っ付いたようで、杖なしで歩く練習をし始めた。
洞窟の前の、比較的歩きやすい場所を選んで何度も往復をするようになり、私が畑の世話をしているときには一緒にしゃがんで雑草を抜こうとする。さすがにそれは足に負担がかかりすぎると注意しても素知らぬ顔だ。初めて畑を弄るのだ、楽しいのだと笑いながら手伝ってくれる。二人ですれば小さな畑の世話などあっという間に終わり、家に戻る。猟にでようにも男がいるかぎり母の気が休まらず、母と男を置いて家を空けることができない。折角家にいるのだから普段できないことをしようと、なめし皮で腰に巻き付ける道具入れを作ったり、ベルトを作ったりしているのを興味深そうに男が見ている。やりづらいと思いつつも、男もすることがないのだから、何か変わったことをすれば目を引くに決まっている。一つ動くたびに質問攻めにあう。相変わらずだなと笑うしかない。
それが苦と感じなくなったのはいつからだろう。
楽しいという言葉に置き換わったのは?
これほど感情が動いたのは初めてだ。
母と二人の生活では感じなかったことだった。
だがその生活も終わりを迎えた。
「今まで御厄介になった。足も元に戻ったことだしそろそろ街へ戻ろうかと思う」
「……そうか」
引き留めることなどどうしてできようか。
私の後ろにはあからさまにほっとする母の気配がする。
その母がすいと前に出てきて、礼を取る男に言った。
「一つお願いがあります」
「叶えられることでしたら」
「決してこの場所を誰にも伝えないで欲しいのです。私たちは二人でずっとここで静かに暮らしております。その妨げになるようなことはなさらないでいただきたいのです」
男はぴくりと眉を上げたが、それもつかの間、深々と頭を下げて「了承いたしました」と母に応えた。
あっさりしたものだった。
ひと月も一緒に暮らしたというのに、笑顔一つで森を去る。
男の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、私はなぜだか笑いたくなった。
これからはまた以前通りに静かに暮らしていく、ただそれだけのことなのにどうしてこうも胸が痛いのか。
「母上。しばらく一人にさせてください」
「吾子……」
母が珍しく言い淀む。
母のせいではない。それはわかっている。
男のせいでもない。もともとここに住む人間ではないのだからここに居続けるわけにはいかない。
だからすべて私のせいなのだろう。
私がいつのまにか男に対して何かを期待していたのだ。
勝手に期待して、勝手に裏切られたと、勝手に思っている。ただそれだけのことだった。
それだけで、よかったはずだった。
私は決してこのような結果を望んだわけではない。
男が去ってから、ひと月。
時は信じられないほど緩慢に進んでゆく。
男が家に居た時はあれほど毎日が充実し、時も飛ぶように過ぎたというのに、今はただゆったりと流れることを知らぬようにしか進まない。
ため息が最近の友だ。
それでも身体は日常を覚えていて、母の手伝いをし、畑を耕し、猟をとる。
今日も今日とて以前に仕掛けた罠の具合を見に森へと入る。
猪でも掛かっていればいれば万々歳だ。これから冬に向けて凶暴になっていく前に肉を手に入れることができるのならば僥倖だと森を進むと、以前に男を助けた場所に出た。
たったふたつき前のことだというのに、懐かしい。
あの男は案外薄情だろうから、この森であったこなどきっと忘れているだろうさとうそぶきながらその場を後にしようとした、その時。
『…………っ!!』
声にならない声が聞こえたような気がした。
ざわりと背中を這い上がる悪寒。
―――――なんだ、いったい何が、ある?
ざわざわと皮膚が泡立つ不快感を退けながら、家としている洞窟までの道を駆け急いだ。
あと少しで畑が見えるところで、明確な叫び声が森に響き渡る。
「なぜ!」
母の叫び声が聞こえた。
それと数人の男の怒声と。
私は慌てて近くの樹の陰にはいるように移動して、そっと家のほうを覗く。
驚くことに、そこには真っ直ぐ背を伸ばし威圧感を全身から出している男と数人の見知らぬ男たちが母をまるで囚人のように捕えているではないか。
なぜだ。
母がいったい何をしたというのだ。
いやそれよりも、なぜあの男が約束を違えるどころか、ひと月の間世話になったはずの母をあのように縛り上げているのか。
わからない。わからないからこそ逸る気持ちを押さえて、状況を把握しなければ。
目に映るのは、母が体をくの字に曲げながら叫ぶ姿。
母の両そでには母を決して逃がさないようにと男たちが張り付き、母の細く華奢な腕を締め付ける。
「私たちがいったい何をしたというのです! 足が折れたあなたを看病した、ただそれだけのはず。 それなのに交わした約束ひとつ守ってもらえず、あまつさえ大勢の兵を引き連れて、私たちを捕えるなど!」
どれほど母が叫ぼうと、男はその美麗な眉をぴくりともせず、ただまっすぐに母を見据えて淡々と告げた。
「貴方様には大切な御子を勾引したのです。本来であれば縄で縛りあげなければならないところを温情を以てなしません。 それどころか御大様におかれましては貴方様には戻って来よと仰せにございます。 どうか御大様にお逆らい召されるな」
「い…いや! 厭っ!」
「そうだろうとは思うておりましたが、それは叶わぬ望み。貴方様と御子にはこれより我らと御大様の元へ同行していただきます。ところで御子はいずこに?」
男は辺りをぐるりと見回した。
さっと隠れたのは本能だ。だが遅かったのか、男はまるで私の居場所などわかっているとばかりに、ただ一点(この樹)を見つめていた。
ざぁぁっと風が樹をなぶる。
男は一歩、また一歩と私の隠れる樹に近づいてきた。
「逃げてぇっっっ!!!」
母の絶叫がわんわんとこだますると同時に男は駈け出して、微動だにしない私を見つけ、嗤った。
「ひと月ぶりか。達者であったか」
私よりも頭一つはゆうに大きい男は、私の腕を掴むとそのまま己の懐に引き寄せた。
ああ、その時の私の気持ちをなんと表せばよいのか。
無体を働く男を罵ればいいのか、それとも母を縛る無情な男にひと月ぶりに会えた喜びに震えればいいのか。
―――――結局のところ、私はどちらもしなかった。
ただ、力を込めて私を抱擁する男のざらついた皮膚が私の頬を擦り続けるに任せていただけだった。
母は私が逃げ出さないための人質となった。
男が欲しがったのは、御大と呼ばれる男の血のつながった子である私だけだった。私一人ならば森を駆け抜けることもできる俊敏な体がある、逃げるのは簡単だ。だが母が男の手の中にいることで私が逃げることは決してないと、あの夢のようなひと月の間で男は悟ったのだ。
なんてことはない。このような事態に陥った原因は、私自身だ。
あの時、怪我人であった男を助けなければ、いや、助けても家に入れなければ家の場所を知られることはなかったはずだ。母があれほど私に言っていたというのに。あれほど、あからさまに嫌がっていたというのに、―――――私が。
自己憐憫は好きではない。
そのはずだというのに、自分の失態のせいで母まで巻き添えにしてしまっては、せずにはいられないのだ。後悔を。
森の外では、鄙びた道に全くふさわしくない華麗で豪奢な馬車が待っていた。
囚人を乗せるにも相応しくないその馬車は、母と私を同乗させないようにか二台用意され、やはり別々に乗せられる。私の監視役には男が、母の監視役には母の腕を掴んでいた二人が乗り込み、馬車は静かに発車した。
「静かだな」
まるで旧知の友人が語り掛けるような、そんな居心地の良さを感じるが、それは何かの間違いだ。私は囚われ人であり、彼は捕縛した者であるのだから。
私は男を見ることを自分に許さなかった。許してしまえば決して言ってはならない言葉を言ってしまいそうで怖かったからだ。
「前々から聞きたかったことがある。どうしてそのような形をしている?いくら男手扱いをされていたとしても、姿かたちから男にならなくてもよいだろうに」
「何を言う。私は男だ。男の形をして当然ではないか」
馬鹿なことをと吐き捨てると、くくくと押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
「どちらが馬鹿かといえば、そなただろうに。どこの世界に胸のある男がある?まろやかなくびれは女の証だ。この柔らかな頬も長く細い四肢も薄い体毛も何もかもそなたが女であることを如実に表しているというのに、それでもまだ男と言い張るのか?」
吐息交じりに直接耳朶に触れる声。 唇をなぞるいかつい指。 触れられる箇所にざわりと甘い痺れを感じて、なぜだかもっとと思ってしまう。
ああ、私はいったいどうしたというのだ。
正真正銘の男であるというのに、嘘をつく男を否定できない。
街の男衆と比べても随分と子供じみた体つき、声変わりすら怒らない幼い体。晒をまかなければ外に出ることを許されず、かといえば月に一度、不浄が訪れる、不完全な男の体。
だからこそ憧れた。男が持つすべてのものに。
力強い眉、意志の強そうな顎、太く堅い腕に闘気がにじみ出るような体躯。私が持つことのないすべてを。
この涙は悔しさからのものに違いない。
得られないものを持つ男が、何も持たない男を見下すために『女』という、その詭弁に。
ずっと唇を這っていた指が、ゆっくりと喉を伝って胸へと移動する。
しゅるりと衣擦れの音が聴こえた途端に「あぁ、」と開放感に息がもれた。
「……羞恥はないのか」
ぐ、と胸の歪な膨らみを鷲掴みにされ、問われる。
「羞恥など。この歪な膨らみが猟の邪魔になるから晒をまいていただけのこと」
「なおも男と言い張るか」
男は片方の手で私の頬を挟むように掴むと、自然と開くしかない唇に自身のそれを重ね合わせた。生ぬるい感触。だがおかしいだとか厭だとかは感じない不思議。それどころか掴まれた胸が切なくなる。
拒絶しない私に目を見張る男は、その眦に深い皺を刻みながら乱暴な舌を差し入れて私の中を翻弄する。次第に力が入らなくなる身体を男に預けると、男はゆっくりと顔を遠ざけて、上気する私の頬を親指の腹でそっと撫でる。
「どこにこのような艶めかしい男がいるというのか。 そなたは真、女よ。 それとも男を見たことがないとでも?」
男など、街へ足を向ければいつでも見ることが叶う。 たしかに私とは違う男らしさを彼らは持っているが、それは個々の差であって、私が男であることの否定ではないはずだ。
「そこまで言い張るのならば、私の上に座るとよい。 そうすればそなたは自身が間違っていたことを認めるだろうよ」
男は軽々と私を抱き上げ、膝の上に座らせるとにやりと口の端を上げた。
感じたのは熱い、灼熱の棒。
なんだ、これは。
なぜこのようなものが、足の間に挟まっている?
驚愕に顔をあげれば、よほど男の方が驚いたのだろう、目を見開いてわたしを見下ろしていた。
「……やはり。そなた。男というものを知らぬのだな。男というのであれば、これが何か分かるはず、というよりも男であれば誰もがもつ一物すらわからないとは。 そなたがどれほど自身で男と言い張っても、そなたの体は男ではない。いや、それ以前に男と女の違いを、そなたはわかっているのか?」
「なにを、いう」
「単純なことよ。そなた、自分以外の男の裸をみたことがあるのか」
率直に言おう。
奥深い森で母と二人きり、ごく稀に街に出かける以外は人と交わることのない生活をしている私に、いつ他人に触れ合う機会があるというのだ。 あまつさえ裸を見せ合うほどの仲の良い友など、得られるわけもない。
戸惑いを悟られ、満足げにうなずく男は片手で私を抱き寄せたまま、もう片手で私の頭を押さえつけて無理やり唇を合わせた。
まさか、とは思う。
男ではないなどと疑ったことは一度もない。
けれども、唇を合わすこの男の話を切って捨てれないのは、なぜなのか。
……考えられない。なにも、考えたくない。
自分が男ではないかもしれないことも、母が囚われていることも。
男が与える熱を余すところなく全身で受け取りたいと願ってしまう愚かな自分がいることも。
『……あ、こ……ま……か……あこ、き……ま…か?』
どこからか母の声が聞こえてくる。
その声はだんだんと大きくなり、次第に鋭い痛みとなって脳裏に響いた。
『吾子、私の声が聞こえますか』
「は、はうえ?」
「どうした、母御は前の馬車にいるが?」
ぴたりと寄り添っていた体を離し、狭い馬車の中をきょろきょろと母を探す私に、男は眉を寄せる。
「い、ま。今、母が私を呼んで、」
「まさか。空耳だろう。そなたの母御は前の馬車に。走る馬車に乗り込むものなど誰もいない」
『吾子。隣にいる男には私の声は聞こえません。吾子の心に直接話しかけているのです』
「はは、うえ?」
それはいったいどういうことか。
声に出していない問いを母は簡単に拾い上げる。
『声に出さなくても考えるだけで私に届くのです。……もう時間はあまりありません。今から言うことをよくお聞きなさい』
信じらないだろうが、私は女であること。だが、女であるがゆえに御大に見つかれば道具として扱われ、二度と自由の身にならないこと。だから物心つく前から男として育て、御大の道具としてではなく自分の意志で生きてほしかったこと。
そして。
私は人ではなく天上人だと―――――子供の頃よく母が夢物語として話してくれた天上に住まう人だというのだ。もちろん母もそうだったと。
『私は天上には帰ることが叶いません。ですが吾子は違います。その晒として使っている布が私の子である証となるでしょう』
ごぼっとくぐもる水音が、母の声に被さる。
『母上?いったいどうして急にこのような話をなさるのです』
『……吾子。終わりが近づきました』
『母上。なにが終わるのです』
『最後に……、最後に力が戻ったことは僥倖でした。吾子に真実を告げることができるのですから。ああ、私の可愛い吾子。吾子も私と同じ力を持っているのです。私が女となった時に失ったその力を使って、吾子はこの戒めから逃げ出すのです。……吾子の力の枷は私。私がいなくなれば吾子の力は戻るでしょう。力が戻れば何をおいてでも逃げるのです。下界で女になれば、天上に戻ることは叶いません。ああ、吾子。私の可愛い吾子。どうか、どうか…私をゆ……っ……』
ごぼごぼと水の中に沈んでいくような、不気味な音が母の声を聞こえなくし、私は奇妙にも体がふわりと軽くなる錯覚に陥った。
『母上?母上。どうなされたのです。母上?』
何度心に問うても、母の声は二度と聞こえない。
「母上っっ!」
「いったいどうしたというのだ。急に動いては危なかろう」
私と母の会話に、いったいどれほどの時を使ったのかわからない。それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
男は私の腰に回した腕に力を入れて、逃れようとする私を拘束する。
「頼む。母に、母に会わせてくれないか。とても嫌な予感がする」
「なにを、いったい……」
一瞬の間は、後の悲劇を印象付ける。
ドンッと急停車した馬車は、そのまま叫声と怒声に包まれる。
無遠慮に激しく叩かれるドアは悲鳴をあげ、返事を待たず開かれた扉からは緊急事態に動き回る兵が窺えた。
「どうした」
「申し上げます!捕え人が死亡いたしました!」
「なんだと!監視はどうした」
「はっ。順調に過ごしていたところ、捕え人がいきなり血を吐き倒れたため、監視役が引き起こしたところ、血だまりの中に肉片を発見。舌を噛み切った模様です。血の量からみて噛み切ってからの時間は相当。倒れた時点ですでに死亡していた可能性があります」
「なんと」
「ご指示を!」
「う、あ」
「ご指示を、准将!」
「うわ、ぁあ」
「……じ、じゅん将!」
思案していた男は、伝令が怯えながら指をさす方向、つまりは馬車の奥にあるモノを指さしていることに遅れて気が付いた。
「……なんだ?」
「うわあぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁあぁああああぁっっっ!!」
男が振り向いてみたものは、光り輝く支柱の中で苦悶に体を丸めて叫ぶ女の姿だった。
めき、めきと骨の軋む音が、その神々しいまでの光の中で鳴り響く。
女は痛みを逃しているかのように肩を抱きしめつつも体を丸めて叫び続ける。
「あぁぁぁああああぁあぁぁぁああああぁぁぁぁっっっ!!!!」
「……これは、これはいったいどういうことだ」
男は振り返ったまま動くことが叶わない。
その間にも、めきめきと音は酷く軋みだし、女は苦痛に体を揺らす。
丸めた体の背中がうねりをみせ、瘤が隆起し、最後には皮膚を突き破って勢い、ばさりと強大な羽を生み出した。
あまりの出来事にしんと静まった辺りに荒い息遣いだけが聞こえる。
と、空から一条の光が女の足元に差し込んだ。
「やっと、やっとお迎えに上がることが叶いました」
光が差したその場所に、いつのまにか見目麗しい極上の女がひれ伏している。
「……母を」
「ええ、もちろんでございますとも。哀しくも不浄となった体は灰に、魂を珠にして我らと共に」
「そうか。ではそのように」
「この者どもはいかほどに」
「……捨て置く。まずは母を天上へ」
「承りました。ではこちらに」
薄い絹を纏った女は長い髪をなびかせて立ち上がり、細い腕を女に恭しく差し出す。女はそれを当然のように手を載せて歩き始めた―――――地のないところを。
「ま、まて」
引き留めたようとしたのは、無意識だ。
私の女になるはずの、その女をどこに連れていくという?
手を伸ばせばすぐそこにいる私の女は、汚らしいものを見るようにすぅと目を細めて私を見おろし、一言も発っすることないまま、踵を返した。
天井からは心洗われるような調べが流れる。
その調べに誘われるように女が、そして隣の馬車からは透明の珠が女を追いかけるようにしてすっと飛びあがっていく。
あとに残された母御の死体は、光の支柱が消えるとともにほろほろと崩れ去り、灰となって、最後に風に飛ばされ跡形もなくなった。
無惨にも残されたのは瓦礫と化した馬車と、下されるだろう神罰に怯える兵。
―――――それと、手から滑り落ちた幸福。
近くの街では、人とも獣ともつかない雄叫びがいつまでもいつまでも聴こえていたそうだ。