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ノスタルジア

作者: 楠 海

それはまるで、無意識下に流れていた通奏低音がふと意識上に上がってきたような音だった。

 低い低い振動を耳より先に腹の底で捉えた彼女はノートから目を上げた。空耳であることを確かめようと耳を澄ます。予想に反して、その低い重い音は蝉の声を縫って再び彼女の耳に届いた。視線だけを動かして窓の外を見やる。彼女は半ば予想していた光景に悪寒を誘われる。

 風景が歪んでいた。木々がもったりと揺れる。空気よりも重いものが風の代わりに流れているような景色。

 これと同じものをいつかどこかで、そう思うのと同時に彼女は教室を抜け出していた。得体の知れない焦燥が加速するのを感じながら廊下の突き当たり、渡り廊下に出るドアを開けると蝉時雨が暴力的に降り注いだ。その音が記憶を刺激する。真夏の、真っ白な炎天下。そうだ、郷里で一度。相変わらずスローモーな景色が記憶と二重写しになる中を彼女は夢うつつに歩き出す。歪んで揺れる視界にサークル棟が入る。高い方へ。もっと高い方へ行こう。渡り廊下を駆け出す。

 何をこんなに焦っているのだろう、と彼女は薄っすらと思う。叫ぶような蝉の声の合間に、靴の踵が床を打つ硬い音が規則的に入り込む。またあの低い唸りが聞こえる。暗く沈んだサークル棟の入口を潜ると蝉時雨は勢いを失い背後に退いた。薄暗くひんやりとした屋内と白熱した外界のギャップに彼女は少しの目眩を覚える。エレベーターのボタンを押し込み、じりじりと待つ。十階分も階段を上るには体力が足りないし、何より間に合わない。でも何に間に合わないのだろう?

 やっと来たエレベーターに乗り込み、僅かに重力が加算されるのを感じながら彼女はぼんやりとエレベーターランプを見上げる。

 あの日、透明な大河に沈んだように、分厚いガラスに阻まれたように、眼下の景色が歪んでいるのを高校の屋上から眺めていたのだった。蝉時雨が激しかった。遠い入道雲が映える色濃い夏空から豪雨が降り注ぐような音がしていた。低周波の音が聞こえていた。埃っぽい屋上は白く焼けていた。そしてあれが近づいて来た。きっと今も同じようにあれが来ている。あれは何だったか。あの日の熱にじりじりと、記憶が炙り出されていく。

 チン、と間の抜けた音に夢想が破られた。途中でエレベーターを呼び止める人はいなかったようだ。無人の最上階は、真夏の光に溢れて白く静かに光っていた。窓を開けると外界から音が流れ込んでくる。

歪みはここまでは到達していなかった。透明に歪んだ風景の上を、あれがゆっくりと近づいてくるのが見えた。それを見てようやく、彼女の記憶は全体像を取り戻した。窓ガラスがびりびりと震える。あの音はとても近い。

 それは方舟だった。油を流したような凪の中を滑るように進んでくる。ビル街を背景にした木製の姿は非現実的であるのに、大きな影をくっきりと地上に落として重厚な存在感を誇示していた。景色の歪みが波のように起伏を繰り返して船腹を叩く。それでも水の音はしない。蝉の声、そしてあの重低音だけが耳を圧している。

 少女が甲板に立っていた。

 いつかのように白いセーラー服が光っていた。セーラー服と対照的なボブカットの黒髪がしっとりと鮮やかだった。船縁に頬杖をつき、髪と同じ色をした瞳でぼんやりと無表情を浮かべていた。圧倒的な量感を持った方舟に対して、少女の存在はひどく儚げで小さかった。

くっきりと収斂した彼女の記憶の中心に少女はいた。屋上の手摺りに両手を掛けて、歪む風景を見下ろしていた横顔を彼女は覚えている。覚えていた。確かに覚えていたはずだった。そして今ようやく思い出したことに彼女は慄然とする。忘れているということを忘れていたこと、思い出して初めて忘れていることを思い出したこと。

窓から身を乗り出す。伸ばした腕が日に焼かれる。彼女はもう、方舟の少女のように白く眩しいセーラー服を着てはいない。きりきりと胸で締め上げられた言葉が喉元にせり上がる。

「――――、」

 口にした瞬間から、言葉は彼女の記憶から零れ落ちていった。少女の名前を呼ぼうとしたことを彼女は知っていた。何と呼んだのか彼女はもう知らなかった。

 セーラー服の少女は、彼女が身を乗り出している窓を一切見上げなかった。無表情に外界を眺めて動かない。方舟は緩慢な等速で、堅実に確実に離れていく。彼女のいる窓から、彼女から、彼女の記憶から遠ざかる。

少女の面影が薄れていくのを感じながら彼女は呆然と方舟を見送る。声も面影も性別も、少女を中心に成り立っていたあの日の風景も消えていく。忘れてしまう。潮が引くように歪んでいた景色が元に戻っていく。方舟がサークル棟の角を曲がり彼女の視界から消えると、低い音はいつの間にか聞こえなくなっていた。

彼女は窓枠に手を掛けたままうずくまった。蝉時雨が脳裏を焦がす。記憶が撹拌され曖昧に混じりあっていく。何かの始めも終わりも、何かがあったことも朧気に霞んだ中に結果として辛うじて残った感情を彼女は握り締める。

この喪失感すら忘れてしまう前に、あと何度あれに出会えるだろう。

あれとは何のことか、彼女はもう覚えていない。


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