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kaldia(3)

「今から再びこのオルマンスの地に戻るまで、一言も言葉を発してはならない」


 バイエットのそんな一言で、僕らのマルトセルは始まった。

 今年のマルトセルに参加するのは、僕とカポックの子分であるヒップだけ。僕らは目隠しをされて馬に乗せられると、前に座って馬を走らせる、誰とも知れない男のお腹にしがみつき、ただ到着のときを待ち続けた。

 子供から青年に生まれ変わるための儀式――マルトセルについては、ことあるごとに僕らくらいの年代の子の話題にのぼった。

 僕たちレイズという移動民族で行われているマルトセルは秘事とされていて、マルトセルを終えた青年がその内容を誰かに漏らせば、集落に災いが訪れるといわれているのだ。

 だからこそ、僕ら子供たちはその内容を凄く気にした。だって誰もが必ず通る道で、マルトセルに失敗することは何より恥ずかしいことなのだから。

 馬にまたがる僕の足は、既に激しく震え、痛いくらいだった。

 腰に巻きつけた紐を木かどこかに縛って、高所から飛び降りなくてはならないのだろうか。ひょっとしたらどこかの大岩に縛られたまま、数日を過ごさなければならないのかもしれない。暗闇の中での想像は悪い方へとふくらみ続け、僕は今にも叫びだしてしまいそうだった。


「降りろ、ここからは歩きだ」


 走り出して三十分か、それ以上の時間が過ぎただろう。馬が止まり、すぐにバイエットの声が聞こえた。普段から声の大きいバイエットの声は囁くようで、聞き取るのがやっとだった。さらにその声にからは、珍しく畏れにも似た感情が読み取れた。

 僕は目隠しをされたまま、苦戦しながら馬を下りた。五感を働かせるが、自分がどこにいるのか想像もつかなかった。静かな場所であることだけは確かなようだ。


「これからお前たちをある場所に案内する。そこで立ち止まったら百を数えて目隠しを外し、自力でオルマンスまで帰って来い。それがお前たち二人がこれより行うマルトセルだ。ただし条件が一つある。さっきも言ったように、オルマンスに戻ってくるまで絶対に口を開いてはならない。ここから『ハーディンの森』に入る」


 僕は背中に、まるで氷を入れられたような冷たい感覚を覚えた。見えないけれど、きっとパックだって同じように恐怖におののいているだろう。

 オルマンスの南東に位置するハーディンの森には人を食う魔女が住む、誰が言い出したか、僕らは小さい頃からそう伝え聞いてきた。その森の中で騒ぐ人間は、魔女に骨も残さず食べられてしまうとも。

 僕は捕らえられ、自分がスープにされて骨だけになって浮いている映像を脳裏に浮かべてしまう。そんなときに、誰かが急に僕の手を掴むので、危うく短い叫び声をあげるところだった。

 誰かの手は、僕の両手を誰かの両肩へと誘導した。僕はこうして誰かの後ろについて森へ分け入っていくのだろう。

 誰かの肩を掴んだまま、僕は森と草原とを分ける境を踏み越えた。森の中の空気は濃厚で、それでいて張り詰めていて、目隠しをされたままでも、僕には境界を越えた瞬間がはっきりと分かった。

 これから僕は森の中のどこか知らない場所に案内され、そこから自力で帰らないといけないんだ。怖いけど、想像していたような激しい痛みを伴うものじゃなくて少し安心した。ただ、この森には人喰い魔女が住んでいる。森のどのくらい深い場所から帰らなければいけないのか分からないけれど、夜までに森を抜けれなければそれは恐ろしいことになるだろう。

 それはそうとして、納得がいかないことがある。僕はこのハーディンの森になんて恐ろしくて入ったことがないけど、カポックとパックは度胸試しに森に入ったことがあると自慢していたことがあったはずだ。森の詳細な地理を知っていたら、簡単に森から出ることができるじゃないか。僕の胸にはふつふつと怒りが沸きあがってきた。それにしても、足場の悪い道をもうどれだけ歩いただろう。最初は通った道を記憶しておこうかとも思ったけど、一分もたたないうちに諦めた。何しろ目隠しをして悪路を歩くだけでなく、歩く方角も何度か変えている。そんな森の奥深くから、どうやって脱出すればいいんだろう……。

 そんなことを考えながら歩いていたら、ふと前に立つ誰かが立ち止まった。

 それに倣って僕も立ち止まる。するとその誰かは僕の手を掴み、僕の手は肩から外されてしまった。

 緊張感を失いかけていた僕は、ついにマルトセルが始まろうとしていることを理解し、心拍数が一気に跳ね上がるのを感じた。

 今までは、前に誰かが歩いている安心感があった。だがこの魔女のいる森で、本当に僕は取り残されてしまうのか?

 まだ、心の準備ができていない。


「(待って!)」危うく声を出してしまうところだった。僕は慌てて口を押さえて、その言葉を飲み込んだ。


 誰かの足音が遠ざかっていった。気が遠くなりそうだった。既に周囲に人の気配はない。


『これからある場所に案内する。そこで立ち止まったら百を数えて目隠しを外し、自力でオルマンスまで帰って来い。それがお前たち二人がこれより行うマルトセルだ』


 バイエットの言葉を思い出し、その場でうずくまりながら必死で百を数えた。魔女がすぐそばにいて、今にも僕を殺してしまうんじゃないかという気がした。

 九十五……九十六……九十七……九十八……九十九……百。

 ゆっくりと目隠しを取る。明るさに慣れず、僕はとっさに手で顔を覆った。やがて顔から手を放すと、そこは予想していたよりもはるかに深い、森の中だった。

 辺りを見回す。周囲には誰もいない。背の高い広葉樹が高く伸び、葉の隙間から陽光が微かに差し込んで僕の顔を照らしていた。

 木々の数は多いうえにそれぞれの距離が近く、いくら探しても道らしい道は見当たらなかった。自分がどこを通ってここへきたのかも分からない。僕を馬鹿にするように、キョエーというような、奇妙な鳥の鳴き声がした。

 足元に麻布が置かれているのに気づき、僕はそれを手に取る。

 中には約一日分ほどの水と乾物、そして小型の鞘に収まったナイフが乱雑に詰め込まれていた。その中身を眺めていると、改めて森の中にひとり置いていかれたという事実を実感してしまい、僕はひどく切ない気持ちになる。

 それでも勇気を振り絞り、僕は一歩目を踏み出した。このまま森の中で夜を迎えるということが、僕にとって何より恐ろしいことだからだ。

 ――そして僕は森を向けることができないまま夜を迎える。

 森の中に一人残されてから、どれだけの時間が経ったろうか。時間の感覚はもはや無くなっていたし、同じ場所を何度も繰り返し通っている気がした。

 木々の向こうから、背後から、僕は幾度となく魔女の恐ろしい視線を感じた。その度に叫び声を必死で押し殺してきた。

 さらに獣の遠吠えや見るからに不気味な形状の植物、二度と森を抜けれないのではないかという恐怖が相まって、僕は泣いていた。さらに言えば脇の下は汗でびっしょりだったし、おしっこもちびっていた。


「ぐうぅっ……、えっ………えっ、えぐぅっ……!」


 それでも両手で口を押さえながら、僕は歩き続ける。

 このまま叫び声をあげてしまったらカポックやヒップにバカにされるし、なにより立派な青年になってお母さんを守るという誓いが嘘になってしまう。そんな意地だけを支えに、僕は棒のようになった足を前に出していた。

 いつになったら森を抜けられるのだろう。ともかく、今夜はそろそろビバークのできる場所を探さなくちゃならない。わざわざ食料が用意されていることからも、思っていたよりずっと長いマルトセルになるかもしれない。

 冷静さを欠いた頭で考えていると、不意に、背後から枯れ枝の折れるような音が聞こえた。僕は息を呑み、とっさに背後を振り返る。目を激しく左右に動かす。心臓が鐘を鳴らすように、激しく脈打ち始める。

 しばらく立ち止まって、そこにいるかもしれない何者かの姿を探すが、深い闇が広がるばかりで、生き物の姿はうかがい知れなかった。


「ふぅ……(大丈夫、気のせいに決まってる)」


 深い息を吐き出し、僕は必死に自分に言い聞かせた。

 だけど、一度足を止めてしまった僕は、再び足を踏み出す気力を削がれて、その場にへなへなと座り込んでしまう。

 月もなく、自分の手すらも満足に見えないほどの闇の中でも、自分が泥と汗でひどい状態なのが分かった。思っていた以上に、僕は心身ともに疲れ果てているようだった。

 世界に自分しか存在しないのではないかと思うほどに、周囲は暗く、孤独だった。恐ろしさのために頭がどうにかなってしまいそうだ。けれど、今晩はここで体を休めるしかない。

 僕は改めて周囲に危険がないか確認をし、その場で仰向けに横になった。すると、ぬっと僕の顔の正面に老婆の顔が現れた。

 ぎょろりとして目に彫りが深く、恐ろしい形相をした老婆は、僕を正面から見つめると、にやりと笑った。


「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 僕の口から、森中に轟くような悲鳴が漏れた。

 僕は横になったまま、老婆を激しく突き飛ばした。恐怖に頭が真っ白になり、とにかく飛び起きると暗闇の中をがむしゃらに走り出した。


「うわぁ! うわぁ! うわぁ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 凄い勢いで周りの景色が過ぎ去っていく。木々の枝が顔に、腕に、足に当たり、その部分に傷が入っていくが、そんなことを気にしている場合じゃない。すぐ後ろにでも、恐ろしい人喰い魔女が迫っているかもしれないんだ。

 後ろを気にかけながら走っていると、正面から思い切り大木にぶつかる。鈍い音がした。激痛とともに、肩が上がらなくなる。だけど、僕は肩を押さえながらすぐに再び走り出す。こんな痛みなんて、魔女に捕らえられ、食べられることに比べれば大した痛みじゃないはずだ。

 いつからかマルトセルのことも忘れ、森の中で大声を張り上げてしまっていたが、僕の喉からは次から次に大きな叫び声が飛び出してきた。

 次第に周囲の景色が変わっていくのに気づく。

 木々の種類がバオバブを中心とした渇いたものに変わり、木の生える間隔が遠くなっていく。地面は泥めいた土から砂を多く含むものになっていた。

 僕は叫びながら、ようやく森を抜けた。


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 無事な方の手で膝をつかみ、激しく肩で息をする。拓けた場所に出たせいか、辺りは森の中に比べて微かに明るくなっており、僕の胸の中に安堵感が広がっていく。魔女が追いかけてくる気配は、今のところは無さそうだった。


「ようやく、森を抜け――」


 そこまで言って、顔を上げた僕は言葉に詰まってしまう。

 僕の眼前には砂漠が広がっていた。砂漠の向こうには満月が浮かび、その下には何かの遺跡のような塔がそびえ立っていた。

 知らない場所だった。いや、森の周りに、こんな場所はないはずなんだ。

 ベゼットじいちゃんに見せてもらったことのある地図にも、ハーディンの森の周囲にこんな広い砂漠があるなんて描いてなかったはずだ。それに、この辺りにあんな高い塔があるなんてことも。


「ここは……どこなんだ? 僕の知ってる場所じゃないのか?」


 ここがどこだろうと、もう一度、魔女のいる森の中に入ることだけは避けたかった。少なくとも、また陽が昇るまでは。

 冷たい風が吹いた。僕は無事な方の腕で体を抱いて身を震わせる。

 意を決し、何度か後ろを振り返りながらも、僕は塔に向けて砂漠の道なき道を歩き出した。

 マルトセルのことなんて、もう忘れ去ってしまっていた。僕はただ吸い込まれるかのように、わずかに傾いた塔に向かって棒のような足を運び続けた。

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