an original(2)
通りを歩くと多くの人間とすれ違う。
そして人間の顔を見るたび、サロは激しく苛立たせられた。つまりサロは外にいる間、大抵機嫌が悪い。
行き交う人間の顔は一様に生気がなく、そこに希望のかけらも見出せない。お前らは死刑宣告を受けた受刑者かとでも言いたくなる。表情がない。喜びが、怒りが、悲しみが、そこには浮かばない。
理由はいくつかあるが、その大部分は人工言語による思考抑制の成果だ。
世界政府が言語学者を集めて作らせた人工言語ヴァンノには、感情を現す言葉がきわめて少ない。
本来、言葉は世界を切り分け、整理する機能を持つ。切り分けるべき言葉がなければ、カテゴリーの境目は次第に曖昧になっていく。
今朝のハートの言葉ではないが、ある単語が存在しない場合、その単語のさす概念に対する認識が弱まることは既に証明されている。極端な話、悲しいという単語がなければ、人は悲しみという概念をゆるやかに失っていくのだ。人間は言葉で思考する生き物だ。思考するための言葉がなければ、そこにあるものはただ混沌して、すくい取ることはできない。
「だが、いくらヴァンノが一般的に用いられ、旧言語を完全に規制できたとして、依然として英語や日本語をはじめとした旧言語は市民の頭の中にあるのだ。それで本当に思考の抑制が可能になるのかね?」
世界政府の高官が発した言葉だが、これは的を射ている。英語の発語を禁止したところで、英語での思考までは禁止できない。
そのような流れから考案されたのが言語野刺激術、一時期【scratch surgery】というスラングで呼ばれた手術だった。
言語野の一部にひっかき傷を付け、主にウェルニッケ中枢を傷害する。市民は人為的に軽度の失語症となり、話し言葉の理解障がい等の症状が発症する。いくら思いついたといえ、どこの馬鹿がこんな計画を実行に移すだろう。
言語野刺激術に関しては、賛成の大統領派と反対の副大統領派で、一時議会は真っ二つに割れた。だが、言語支配が既に引き返せない段階にあることに関して、賛成派反対派の意見は一致していた。結局、反対派が譲歩するという形になり、既に世界市民の総人口の九十四パーセントまでが手術を終えている。
人工言語ヴァンノは言語野刺激術の影響を受けにくい言語だ。否、ヴァンノは言語野刺激術の影響を受けにくいように作られている。
言語に優劣を付けないというのは旧時代の言語学者の総意だが、意思疎通、情報伝達を言語の機能とするならヴァンノは明らかに劣等言語だ。
【暴動】や【革命】といった反乱を誘発する可能性のある語彙や、強い感情のぶれを表す語彙は存在すらしない。文法に関しての複雑な取り決めは皆無で、意味の取り違えの報告はあとを絶たない。
世界政府による市民の言語支配は、市民の思考支配を経て、市民の身体支配を可能にした。
言語野刺激術の施行に際して、市民の大規模な暴動やテロ行為を中心に、世界政府が支払った代償は大きかったが、言語野刺激術の容易さを考慮すれば、効率的な支配であることは認めざるを得ないだろう。
だが、建て替えの終わったバベルの塔は、危ういバランスでそびえている。
旧約聖書によると、かつて人々は共通の言語を話し、傲慢になった人類は天まで届く塔を建てようとした。神は人類の傲慢さに怒り、人間の言葉を混乱させたという。
神の裁きにより、再び人類が言葉を取り戻すときを、世界政府高官たちが怯えて待つ日々はなおも続いている。世界政府に不満を持つレジスタンス組織は地下にはびこっている。
ふと顔に冷たいものが当たり、サロは顔を上げた。
曇天から小粒の雨が落ちてきたようだ。ビル群の下を歩く人々は足を速め、目的地まで急いでいた。
夕立なのか、雨はすぐに大雨に変わった。傘はなく、目的の駅まではもうしばらく進まなければならない。
このまま駅に向かえば、着く頃にはずぶ濡れになってしまうだろう。サロは舌打ちをし、普段通る道を外れ、薄暗い鉄道の高架下トンネルに飛び込んだ。
シャツは湿って体にまとわりつき、髪から落ちる滴で少し化粧が落ちた。苛立ちは沸点に達しようとしていた。
スカートスーツにも関わらず、衝動的にトンネルを蹴りつけようとしたところで、サロはトンネルの奥に動く影を見つけ、足の動きを制止させた。
トンネルの奥に立つ男――暗くてシルエットしか見えないが、かなり体格がいい男のようだ――の動きは妙だった。
壁際で何かを手に持って立ったりしゃがんだりを繰り返し、かと思えば壁から少し離れて、じっと壁の様子をうかがっている。雨音のせいか、こちらに気づいた様子はない。
ふと、サロの鼻にシンナー臭が届き、次の瞬間、サロは大声を上げていた。
「貴様、そこで何をしている!」
男がハッとした様子で手に持っていたハケとペンキを取り落とし、周囲にきついシンナー臭が広がった。
男は脱兎のごとく駆け出そうとするが、すでにサロは男と二メートルの距離まで詰めていた。
「止まれ、言統だ!」
サロの声に、男が「ひッ!」と短い叫び声を上げた。
二人は大粒の雨の中に飛び出し、人通りの多い駅方向へと向かっていった。
サロは足が遅い方ではないが、男は足が長く、基礎体力もあるようで、差は縮むどころか少しずつ広がっていった。また、男はあえて人通りの多い道を選んで走っており、サロの体にフィットしたスーツスカートは小回りがききにくく、不利だった。
男が後ろを気にしながら駅へ続く地下通路に繋がる階段を下りていくのを確認して、サロは腰に忍ばせてあった護身用のナイフを引き抜き、太もものラインに沿って走らせた。
ぎりぎり下着が見えない部分までスリットを入れると、サロも男に続いて一段飛ばしで階段を下りる。
階段を下りる途中、学生がサロの姿を見て口笛を吹いたが、サロがナイフを見せてやると息をのんで苦笑いを浮かべた。
男との距離は広がっていたが、地下通路は駅まで伸びる一本道だ。これ以上距離を広げられない限り、見失うことはない。
「どけっ」と、通りを歩く人間を突き飛ばしながら走る男を、サロは人混みをすり抜けるようにして追った。体力はサロに分があるようだった。さらに百メートルほど進んだ辺りから、二人の距離は再び縮みはじめた。
「来るな……来るなぁあああぁ!」
何度も振り返りながら、発狂したような声を出す男だったが、やがて限界が来た。男は駅にたどり着く前に足を止め、サロを振り返った。一・五メートルの距離を取って、サロも同様に足を止める。
初めて正面から男と向き合い、視線を交わす。思っていたより年を取っている。縮れた長い髪が目にかかり、服は不潔そうに見えた。
「逃げ切れなくて残念だったな。暗くて文字までは読めなかったが、トンネルに描いていたアルファベットはただの落書きじゃないだろう。レジスタンスの仲間へのメッセージか何かか?」
「……ただの落書きだ」
「嘘だな。このところ気送管を用いての通信も、以前ほど言統の検閲を逃れられなくなっていると聞く。言統が把握していない気送管など、既にこの辺りには皆無だろう。通りはどこも集音器がカバーしている。まぁ、どうせ取り調べを始めればすぐに分かる。規制言語である英語の使用と反乱を幇助・誘発する可能性のある言語の不法使用で逮捕する。ついでに器物損害罪もつけてやろう」
男は膝に両手を置いたまま、顔だけ上げてサロを睨み付けていた。周囲で何事かと様子を見守る市民とは違い、その目は死んでいなかった。違和感を覚える。一刻も早く捕まえるべきだと、脳内で警告が鳴っていた。
サロが距離を詰めるより一瞬早く、男は近くで成り行きを見守っていた若い女の服を掴み、自分のもとへ引き寄せると羽交い絞めにした。男が腕に力を込め、捕まった女は苦しそうな表情を浮かべる。
「無駄だ。そんなことをしても」
「黙れ、近づくとこいつを殺すぞ!」
しくじったな……。サロは両手を軽く挙げてみせてから、二歩三歩と男から距離を取った。
この年配の男、この流暢な発語と感情の発露を見るに、おそらく言語野刺激術は受けていないのだろう。だとしたら一刻も早く取り押さえなければならない。
サロは周囲を見回した。いつの間にか野次馬の層がずいぶん厚くなっており、無意識のうちに歯噛みする。
『興奮は伝達する』
これはサロが世界政府のエリート教育を受ける際に何度も聞かされた言葉だ。
言語が存在しないほどの昔から、ヒトの祖先は獣を狩り、争いを続けてきた。言葉を知らない赤ん坊が感情のままに泣きわめくことは誰もが知っている。言語野刺激術は市民から感情を完全に奪うことのできる手術ではない。感情や興奮を表に出しにくくするだけで、鬱積された感情を解放させる素地は誰もが失ってはいない。
だからこそ、この手の男は危険だった。世界政府アフリカ支部では似たようなケースから大規模な暴動にまで発展した事例もある。興奮は伝達していくのだ。
町中に設置されている集音器によって、既に公安も言統も異常を察知しているだろうが、のんびりと彼らの到着を待っている時間はなさそうだった。野次馬からは罵声とまではいかないが、年配の男の行動を煽るような言葉もぽつりぽつりと飛んでいた。もはや交渉の余地はない。
人質になった女は最悪死んでしまうが仕方ないと、ナイフに手を掛け、後ろ足を踏み込んだ瞬間だった。
サロの目の前で、年配の男の体が宙を舞った。
何が起こったか理解が追いつかなかった。年配の男は飛び込み前転をするように一回転したかと思うと、背中から地面に叩きつけられ、うめき声をあげたきり動かなくなった。受身が間に合わず、失神したのだ。
ざわめきは消え、一瞬で静寂が訪れた。
倒れた男から視線を上げていき、サロの視線が人質となっていた女の顔で止まる。サロの見たことのない女だった。時代遅れのチェックのハンチング帽を被った、線の細い女だ。髪の黒いコーカソイド。二十代後半くらいだろうか。先ほどの動きから、ただ者じゃないことだけはサロにも分かった。
「貴様、何者だ。その男の仲間か?」
馬鹿げた質問だと思いながらも、サロは女に声をかけた。
「いやだな、そんなに身構えないでくださいよ。もし私がこの男の仲間なら、こうやって投げ飛ばしたりしないだすよね? それより、この男を確保したほうがいいんじゃないですか? すぐに目を覚ますと思いますけど」
馬鹿丁寧な女の説明に従うのはしゃくだったが、確かに年配の男はうめき声をあげ意識を取り戻そうとしていた。
サロはハンチング帽の女に少し離れるように指示して、年配の男を拘束、首もとに印字された固体識別番号を確認した。0199205……サロは言語統制局で配布された高機能携帯端末を操作し番号を照会する。瞬時に男の生年月日、住所、生育歴、犯罪歴等の個人情報の一覧が表示された。
氏名を付けることは許されていないが、ひょっとすると何らかの通称で呼ばれていた可能性もある。そこまではこの端末では分からなかった。
「過去に犯罪歴はなしか……。運が良いな、余罪がなければ言語野刺激術と『簡単な』再教育だけで釈放だろう」
もちろん皮肉だったが、意識を取り戻した固体識別番号0199205に通じたかは不明だった。
固体識別番号0199205は遅れてやってきた公安警察局の局員に連れられていき、後にはサロとハンチング帽の女だけが残された。群集は既に散った後だった。
そのまま帰しても良かったが、サロには女のことがひどく気になった。敵意はないようだが、念のため職務質問という形で素性を聞いておこうと、サロは律儀にそこで待っていた女に近づいていった。
「貴様……」
ハンチング帽の女に声をかけようとしたところで、女は急にサロに向けて深く頭を下げた。何事かと、サロは身構える。
「先日取材を申し込んだ固体識別番号0511999です。私のことはエイカレット・ヴィラン、通称エイカレットと呼んでもらえると嬉しいです!」
サロは一瞬きょとんとして、勝手に通名を名乗っていることを咎めようと口を開きかけ、先ほどの合気道のような技を思い出し、やめた。
それにしても取材とは何のことだろうと、サロは記憶をたどっていき、数日前に局長に呼ばれたときの会話に思い至った。
「そういえば、世界政府お抱えの雑誌記者が取材に来るから適当に相手をしてくれと局長に言われたが」
「それ、それが私です」エイカレットは指でしつこく自分のことを指した。「これからしばらくの間お世話になります。よろしくお願いします、サロさん!」
偶然通りかかって、言語犯罪者の人質になったという女性記者、送気管で届いた見知らぬ単語、サロは辺りにきな臭い気配が漂うのを感じずにはいられなかった。この気配を感じられずに、魑魅魍魎のはびこるこの世界を生き抜くことはできない。
だが、それでも、言統ビルの課長室から見下ろす景色に飽き始めていたサロの好奇心は刺激されてもいた。
「明日の朝、九時までに言統ビルに来い。受付には伝えておいてやる」
もう一度深く頭を下げるエイカレットを残して、サロも雑踏の中へと消えていった。