kaldia(6)
ベゼットじいちゃんのことをたびたび思い出した。
僕はそういった思い出を、過去に確かに存在した記憶と確信しているんだけど、ふとした瞬間に、本当にふとした瞬間にそれが実際に起こったことなのか疑ってしまうようになっていた。
自分以外の誰もその人の存在を覚えていないというのは、つまりそういうことなのだ。僕が忘れてしまえば、きっとベゼットじいちゃんの存在は本当に無かったことになってしまうんだ。
あれはもう何年前のことだったろうか。
僕はベゼットじいちゃんと一緒に、ルコの大草原を裂くように伸びる川沿いの道を歩いていた。ルコの大草原は地平線の遥か先まで続く草原地帯で、歩くと、そよ風に揺れる草たちが足首に触れてこそばゆかった。たまに遠くをよその部族の男たちが、馬に乗ってどこかに駆けて行った。
ベゼットじいちゃんは、そのときにはすでにオルマンスの長でそれなりに忙しかったはずだけど、父親のいない僕を心配してか、よく僕のことを川や山へ連れて行って、そこで動物の捕まえ方や食べられる木の実の見分け方なんかを教えてくれた。
「今日はシーアの林の向こうまで行って、釣りでもしようかのう」
ベゼットじいちゃんは友達にするみたいに、僕に向けて汚い歯を見せて笑った。
「そんな遠くまで行って大丈夫? それに、釣りをするっていっても道具なんて持ってないよ」
「じいちゃんはオルマンスの長だぞ、自由にどこへだって行けるさ。それに、道具なんて、林にあるものですぐに作ることができるさ」
「凄い、さすがベゼットじいちゃんだね!」
「ははは、じいちゃんは凄いだろう」
僕らは本当に仲のいい友達みたいにふざけあって、時間が許せば朝から晩まで一緒にいて遊びまわっていたのだった。
ベゼットじいちゃんが不思議なことを言ったのは、竿を作ったものの、一匹も魚が釣れないまま、川沿いの道を引き返している途中のことだった。じいちゃんは持っていったお酒を飲んでいて、夕日に染まった顔は真紅のようだった。
「この世界には大きな謎があるような気がするんだよ」
「謎? 謎ってどういうこと?」
「それはじいちゃんにも分からないけど、この世界は目に見えている世界だけじゃなくて……なんというか、うまくいえないけど、もっと他に秘密があるような気がするんだ。じいちゃんはもう永くないから、その秘密を解き明かすことはできんだろうが、タファならもしかするとできるかもしれんな」
「本当に? でも、僕は強くもないし、頭も悪いし、きっとそんな大きなことはできないよ」
「そんなことないさ。タファが本当の勇気を持っていれば、きっとじいちゃんより立派になって、この世界の謎を解き明かすこともできるだろうさ」
それからいくつかの季節が巡ってベゼットじいちゃんは死んでしまった。
今になって思えば、じいちゃんの言っていた、この世界には大きな謎があるという言葉の意味も少しは分かるような気がする。
僕が迷い込んだ塔も、きっとこの世界の謎の一角なんだろう。
人々の記憶から抜け落ちる神話や、地面に眠る未知の宝物、塔に住む少女、すべてがこの世界の謎を形作る部品のひとつなのだ。そして、そのどれもが、じいちゃんの記憶をこの世界に取り戻すための鍵となるはずなのだ。
考えるまでもなく、僕は決心していた。大好きだったじいちゃんを忘れさせたままになんてしやしない。僕はこの世界の謎を解き明かして、もう死んでしまったじいちゃんを救うんだ。
次の日から、僕は変わり始めてしまったこの世界についての調査を開始した。
刺青として肌に記録されていたはずの、神話体系や世界の歴史、レイズの民の系譜といったものは、いつから人々の記憶から消えてしまったのか。どれだけ消えてしまったのか。そして、なぜ消えてしまったのか。
「この世界の始まりって知ってる? ほら、そんな神話を聞いたことがなかった?」
「オルマンスの歴史を記した刺青を彫ってる人が、どこかにいなかったかな?」
「僕のおじいちゃんの名前を覚えてる?」
そんな僕の質問に、オルマンスの皆は怪訝そうな顔をしつつも、とりあえずは正直に答えてくれた。ひょっとすると、理解のできない質問をしてきた僕のことを、気が狂ってしまったと思って怯えたのかもしれない。
でも、誰がどう思おうと僕はマトモだ。ベゼットじいちゃんは確かに存在していたし、この世界にはもっとたくさんの神話や歴史(とそれを記した刺青)が存在していたんだ!
結論から言うと、それらの記憶を持っている人は一人だっていなかった。調査を進めるうちに、僕は焦り始めた。
僕が想像していたよりずっと多くの神話が、歴史が、刺青が、この世界から失われていたことに気づいたからだった(それも誰も気づかないうちにだ!)。
失われた神話等についてあらかた調べ終えると、次にするべきことはすぐに思いついた。
この事件に関して、僕はすでに元凶と出会っているのだ。もう一度、塔にいる彼女のもとへ行き、神話を喰っていた彼女を止める。それこそが、ベゼットじいちゃんが生きていた証を含む、この世界の在るべき記憶を取り戻すための唯一の方法のはずなんだ!
問題がひとつだけあった。そのことを母さんにどう伝えるかだ。
マルトセルの日以来、母さんの僕に対する接し方は、どこかよそよそしかった。僕はそんな母さんに、この世界に起きている異変のことを、どうしても伝えられなかった。
簡単に信じてもらえる話ではないだろうし、ひょっとしたら、それを伝えることによって母さんが、僕に本当に愛想を尽かしてしまうんじゃないかと想像してしまうのだ。
母さんはマルトセルに失敗して、情けなく逃げ帰ってきた僕のことを、呆れているに違いないのだから。
「母さん……」
「ん、どうしたの?」
「いや――なんでもないんだ」
そんなやり取りを何度くり返しただろう。臆病な僕は諦めて、置手紙を残して出かけることにした。
正確な場所も分からない塔までどれほどの時間が掛かるか分からないけど、できることなら、母さんに心配をかけたくなかった。
母さんに書いた手紙の内容は単純なものだった。
本当のことは書かずに、かといって嘘をつくわけでもなく、ある人を助けるために、何日か家を空けて遠出をしたいというような手紙を書いた。その人は僕の助けを待っていて、さらにその人を救うことが、ほかの多くの人たちを救うことにも繋がるのだと。母さんは心配すると思うけど、きっと無事に帰るから、心配しないでほしいと。
読み返してみて、どうにも嘘っぽい文章になってしまったと反省するけど、他にやりようも思いつかなかったので、そのまま封をしてしまった。
手紙を書き終えると深夜になっていた。明日の早朝には、もう出立してしまおうと、僕は決めていた。それほどに、この世界は切羽つまった状態にあると、僕は確信していたのだ。
このままいけば、近いうちに、この世界から『過去』が消え、『今』しか存在しなくなってしまうだろう。そんな世界を想像して、僕は身震いした。
肩掛け鞄にはベゼットじいちゃんの遺したナイフと、ナルミにもらった竜のお守りと、いくつかの保存食を用意してあった。
恐怖心はもちろんあった。でも、僕はそれ以上に怒っていたのかもしれない。大好きなベゼットじいちゃんの存在を無かったことにして、さらにはこの世界をめちゃくちゃにしてしまった少女に対して。そうじゃなければ、小心者の僕が、こんなに行動的になることはなかっただろう。
目を覚ますと、僕は小さな寝息をたてて眠る母さんの枕元に手紙を置いた。
ふとすると、母さんに声をかけてしまいそうで、僕は手を口に当てて我慢しなければいけなかった。手に冷たいものが当たると思うと、僕は早くも寂しくなって泣いてしまっていた。
こんな情けない僕にベゼットじいちゃんと世界を救うようなことができるのだろうかと不安になるけど、歩き出さないわけにはいかなかった。僕はテントを出ると、まだ薄暗い外の世界を歩き出した。
現在、レイズの民が定住しているオルマンスの土地は、東をヒナタ海岸、西をシーアの林辺りまでとされていて、マルトセルなどの特殊な場合を除けば、それより先に進むことは歓迎されない。敵対する部族を刺激したり、レイズの民の血が外部へ流れることにも繋がるからだ。
塔を見つけた、目的のハーディンの森までは、西のシーアの林とルコの大草原を突っ切って行くことになる。歩きだと数日は掛かるだろう。
足音を殺して集落の中を歩くうちに、ナルミたちの住むテントが見えてきた。
外からナルミに向けて声をかけたかった。ナルミなら僕がやろうとしていることを理解し、応援してくれるかもしれない。そんな考えが頭をよぎったけど、僕はそのテントの前を無言で通り過ぎた。
ナルミはもう、僕のことを見限ってしまったのだ。僕はひとり、孤独に世界を救うために戦わなければいけないのだ。
集落を抜け、シーアの林にたどり着く。ナルミと一緒にここで宝探しをしたことが、つい昨日のような、それでいて遠い昔のような気がしていた。
空が白んできていた。母さんはまだ、僕がいなくなったことに気づいてはいないだろう。
これからの冒険のことと、心配をかける人たちのことを考え、ひどく胸が苦しくなる。僕はたまらず集落があるほうを振り返ると、そこには信じられない人物が立っていた。
「ナルミ……どうしてここにいるのさ?」
ナルミは木の影に立って、心配そうな表情で僕のことを見つめていた。少し目が赤い。ひょっとして泣いていたのだろうか。
「どこに行くの?」
僕の質問に答えず、ナルミは短くそう聞いた。おおかた、テントの隙間から僕が歩くところが見えてあとをついてきたとか、そういうことだろう。
「それは……」
「ひょっとして、逃げるつもりなの? マルトセルに失敗して、皆が辛く当たるから」
「違う! 僕は――!」
本当のことを言おうとして、僕は口ごもった。この世界が直面している危機のことを話したら、ナルミのことだ、きっと信じてくれるはずだ。
でも、もしナルミが僕についてくると言ったら、ナルミを危険にさらし、ナルミの家族にも心配をかけることになるのだ。
「言えない。でも、ベゼットじいちゃんに誓って言える。僕は逃げるんじゃない。僕は……」
「ベゼットじいちゃん?」
そうか、ナルミもベゼットじいちゃんのことを忘れてしまっているんだ。三人で一緒に遊んだことだって、一度や二度じゃないはずなのに。
「最近、タファの様子がおかしいって皆が言ってるわ。変なことを聞いてきたり、焦った様子で走り回ったり。私に何か隠しているんなら、正直に言って。隠し事をするタファなんて嫌いよ」
涙目のままで言うナルミを見て、僕は胸が締め付けられるように気持ちになる。でも、これもナルミのためなのだ。
「ごめん、言えないんだ。ただ、きっとすぐ帰ってくる。約束するよ」
「そんな、タファ……帰りましょう、皆心配するから。最近、様子がおかしかったことだって、私から皆に説明してあげる。だから、ね?」
「ごめんね、ナルミ。皆にはすぐ帰るから心配いらないって言っといて」
それ以上引き止められたら決心が揺らいでしまいそうで、僕はナルミに背を向けて歩き出した。
「タファ! タファったら!」
「an leev」
アルカ語でつぶやくと、僕はシーアの林を抜けてオルマンスの外へと歩み出た。
塔の少女から元の世界を取り戻すため、日の昇り始めたルコの大草原を、僕は一度も振り返らずに歩き続けた。




