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kaldia(5)

 マルトセルを失敗し、泣きながら集落に帰った僕を待っていたのは、もちろん慰めでも激励の言葉でもなく、叱咤と罵倒、そして中傷の言葉だった。

 オルマンスの地に戻った僕は、土地の人間に発見され、相当に衰弱していたにも関わらず、すぐに村長であるバイエットの下へと連れて行かれた。

 バイエットの家にはバイエットの他に、村の有力者たちが続々と集まってきて、僕は朦朧とした意識の中、これから行われる何らかの集いが始まるるのを待っていた。


「やっぱり失敗したな」


 村の有力者たちがおおかた揃った後に、まずバイエットが発した言葉はそれだった。


「まあ、最初からお前がマルトセルを無事に終えられると思っている奴なんか、この村に一人もいないがな」


 バイエットの言葉に集まった男たちが笑い声を漏らし、男たちはさらに次々と僕に罵声を浴びせていった。


「お前みたいな乳のみ子がマルトセルなんざ、十年は早いわ」

「こんな臆病なガキは久しぶりだ。犬に吠えられて死んじまったグッソルのとこのガキ以来かな」

「それにしても、ハーディンの森で大声を出すなんて、なんて罰当たりな子供だ……」


 僕は下を向いたまま、その言葉にじっと耐えていたけど、


「こいつの親父も、こいつに似て臆病だったからな」


 その言葉を聞くと、我慢ができなくなってつい言い返してしまった。極限まで疲れていて、もうどうにでもなれ、という気持ちでもあった。


「うるさい! 僕だってあんなことがなければ――巨大な塔に迷い込んで、魔女に遭ったりしなければ、僕だって、僕だって……」


 僕の言葉に一瞬、場がしんとなり、すぐに大きな笑いに包まれた。


「おおかた怖すぎて幻覚でも見たんだろうが、それにしても塔に住む魔女とは、もっとマシな言い訳は思いつかなかったのか?」


 僕に向けて吐き捨て、あらかた笑い終えると、バイエットは急にまじめな顔をして言う。


「お前はハーディンの森で大声を出し、神聖なマルトセルの儀式を穢した。罰として、明日の朝より半日、お前には『蔵』にて過ごしてもらう」


 罰を言い渡され、ようやく開放された僕は家に帰り、母さんの心配する声にも大して返事が出来ないまま、泥のように眠った。

 翌日、僕は朝一番に僕と母さんの住むテントにやってきたバイエットに連れられ、集落の隅にある蔵へと向かった。

 母さんはバイエットの手にしがみついて必死に僕を守ろうとしたけれど、バイエットがそのくらいで村の決まりを覆すはずがなかった。

 母さんは諦め、家の前にうなだれて僕を見送ることしか出来なかった。僕は無気力に、バイエットに促されるままに歩き続けた。

 蔵へと向かう間、多くの住人たちが遠巻きにこちらを眺めていた。

 彼らは何か不吉なものでも目にしたように額にしわを寄せながら、ひそひそと何事かを囁き合っていた。


「ここがどういう場所か、噂くらいは聞いたことがあるだろう?」


 バイエットの言うとおり、蔵のことは噂に聞いたことがあった。中に入った瞬間、むっと鼻につく臭いがして僕はむせ込んでしまう。背後で扉が閉ざされる音がした。


「まあゆっくりしていけよ、オカマ野郎」


 扉の外から声が聞こえ、バイエットが遠ざかっていく気配がした。

 蔵は狭く、五人ほどが立つといっぱいになってしまうような空間にいくつかの腰掛けが並んでいた。腰掛けはどれも血を吸って黒ずんでいて、僕はどうしてもそこに座る気になれなかった。

 ここは月の日が訪れた女性が、それが終わるまでの間、過ごすための場所だった。オルマンスでは経血が不浄なものとみなされ、経血が流れる間はこの蔵で過ごさなければいけないのだ。

 僕はなるべく鼻でなく口から息を吸うように心がけ、目を閉じて時間が過ぎるのを待った。

 長い時間をやり過ごすため、頭の中で、昨日の悪夢の中みたいな出来事を思い出す。僕は顔を手で撫でるけど、少女に奪われた、最初から彫られてもいない刺青の気配はもうそこには感じられなかった。

 蔵で体に染み付いた臭いは二日経っても落ちなかったけど、最初はよそよそしかった周囲の人間は、その頃には普段どおりに僕に接してくれるようになっていた。

 僕はようやく日常に戻るのに許されたようだけど、それを許さない人間もいた。カポックだ。


「やっぱり失敗したな」


 ルカの草原洞窟へ鉱石を拾い行く途中、偶然出くわしたカポックは厭らしい笑みを隠そうともしなかった。

 ヒップがいないのが唯一の救いだった。マルトセルを成功させたばかりのヒップがいたら、僕はあまりの惨めさにここから逃げ出してしまっただろう。


「し、仕方がなかったんだ。変な塔に迷い込んで――」


 僕が例の塔で見た話をしようとした、そのときだった。僕は正面からカポックの顔を見て、異変に気がついた。


「カポック、刺青はどうしたのさ? あんなに自慢にしていたはずなのに」


 マルトセルを成功させた後に、目の下に彫ってもらったはずの刺青が、カポックの皮膚からなくなっていた。あれはカポックの誇りだったはず――いや、そもそも一度彫った刺青は何があろうと消すことはできないはずだ。


「話を逸らすんじゃねーよ。俺のことを馬鹿にしてるのか? まだ俺が刺青を彫るのを認められていないことを、お前だって知ってるだろうが」

「いや、そんなはずは……」


 反論しようとするけど、カポックが目じりを吊り上げて僕を威嚇するのでそこでやめておく。

 それにしても、一体何が起きているのだろう。カポックは自分の顔に刺青が入っていたことを覚えていないのだ!

 カポックの皮膚に入れられた刺青は、神話体系の始まりの一筋を示した、レイズの民の多くが目元に彫っている記号だったはずだ。

 ふと、僕の脳裏に、塔にいた少女が食べていた、レイズの民が彫る刺青模様が思い起こされた。あの中に、カポックの顔に彫られた刺青に似たものがなかっただろうか。

 世界の成り立ちを、先祖たちの記憶を、神話の体系を記録した刺青がなくなるということがどういうことか、僕は想像して背筋が冷たくなっていくのを感じた。

 もし仮に、少女が食べていた刺青模様の存在自体が、この世界のどこからも消えてなくなってしまうとする。

 すると、『過去』は誰の記憶にも残り続けることはできないから、世界には『今』しかなくなり、その今も、『未来』には存在しなかったことになってしまうのではないだろうか。


「この世界がどうやって始まったか、知っている?」


 僕は無理やり気持ちを落ち着かせて、カポックに質問する。レイズの民なら誰もが、物心がつくころには父親か母親に聞かされ教わっているはずのことだ。


「そんなこと、俺が知るわけがないだろう」


 突然、意味の分からないことを言う僕に怯えたのか、カポックは不思議そうな、それでいて少し焦ったような表情で答えた。


「そんな馬鹿な……」


 絶対に、何かがおかしい――不穏な気配を感じ、気がつくと僕は駆け出していた。


「ナルミ、ナルミ、僕だよ!」


 ナルミとナルミの両親が暮らすテントの前で僕は声をあげた。

 普段は恥ずかしいので、テントの前で大声を出すようなことはないんだけれど、今日ばかりは勝手が違った。

 何しろ、詳しいことは何一つ分からないけど、とにかく、世界が変になってしまっているんだ。

 それを相談できるのは、僕にはナルミしかいなかった。


「ナルミ、ナルミってば!」


 僕がひときわ大きな声を出した後、しばらくの沈黙の後に、テントから出てきたのはナルミのお母さんだった。僕は自分が大きな声を出しすぎたことを恥じて、小さくなった。


「せっかく来てくれたのにごめんなさいね。ナルミはしばらく誰とも会いたくないんだって」


 それを聞いて、僕はカポックの刺青がなくなっているのを見つけたとき以上のショックを受けた。

 いつだってナルミだけは僕の味方でいてくれたはずなのに、もう僕のことを見捨ててしまったのだ。ナルミの忠告を無視してマルトセルに挑戦し、特殊な事情があったとはいえ手ひどく失敗してしまった僕に、ナルミは愛想を尽かしてしまったのだ。

 僕はおばさんに大声を出してしまったことを謝り、呆然としたまま帰路についた。

 いつかナルミと宝探しをしたシーアの林からは、僕のことを馬鹿にするようなツガイギツネの遠鳴きが聞こえていた。

 テントに入ると、母さんは既に夕餉の支度をして僕のことを待っていてくれた。

 僕らは二人、向かい合って夕食をとった。

 以前はたくさんあったはずの母子の会話が、今日も全くといっていいほどなかった。マルトセルが終わってから、僕と母さんはこんな調子が続いていた。

 怒っているのか、僕に気を遣っているのか分からないけれど、原因があのマルトセルにあることだけは確かだった。母さんはただ淡々と、食事を口へと運んでいた。


「母さんは、こんな情けない息子がいて恥ずかしいと思わない?」


 ナルミに見捨てられたことにより、世界の異変を目の当たりにした恐怖も興奮も冷めてしまい、僕はぽつりとそんなことをつぶやいた。

 僕の生きる世界は狭かった。ナルミに愛想を尽かされた今、母さんさえ、もしこんな息子がいて恥ずかしいというのなら、そんな世界のことなんてどうなってもいいじゃないか。僕は真剣に、そんなことさえ考えていた。


「正直言って」母さんが口を開くと、そんな言葉が出てきたので僕はどきりとする。「そう思ったことがないとは言えないわ」

「やっぱり……」


 改めて見ると、母さんの顔は少し疲れていた。マルトセルのことで、周囲の人間から何か言われたのかもしれなかった。


「でもね、私はあなたのことが恥ずかしいんじゃない。ただ、不安なのよ。あなたがこのままずっと怖がりで、いくつになってもマルトセルを成功させることができなくて、周りの人間から馬鹿にされて生きていくんじゃないかって。私を守るために、バイエットに立ち向かってくれたのは嬉しかったわ。でも、そのせいであなたは恥をかくことになってしまったし、皆から陰口を言われているわ。私はただ、そのようなことがずっと続くんじゃないかって、不安なのよ」


 母さんは涙声だった。僕は母さんの言葉に傷つくけど、その全てを受け入れることはできなかった。

 なぜなら、母さんはベゼットじいちゃんのことを忘れているからだ。

 別に自分を養護するわけじゃないけど、母さんはいつか「あなたのおじいちゃんだって、小さい頃は弱虫で、マルトセルを成功させたのも集落で一番遅かったそうよ」と言ったのだ。その母さんが僕の未来のことを心配するというのは、僕の大好きなベゼットじいちゃんのことを、僕の中に流れるベゼットじいちゃんの血のことを見下されているような感じがしてイヤだったのだ。

 母さんに心配をかけているのは、全面的に自分が悪いので言いづらかったけど、ベゼットじいちゃんの名誉のためにも僕は言う。


「だってベゼットじいちゃんだって、小さい頃は弱虫で、マルトセルを成功させるのだって遅かったんでしょう? だったら僕だって、これから成長して、ベゼットじいちゃんみたいな立派な戦士にだってなれるかもしれないよ」


 僕の言葉を聞いた母さんは、きょとんとした表情をして、


「ごめんなさい、あなたの言っているベゼットっていう人が誰なのか、私には分からないわ」


 僕をからかっているようには、当然、見えなかった。

 これは本当にヤバイ。僕は全身から血の気が引くのを感じた。

 大好きなベゼットじいちゃんが存在した記憶が世界から消えている。つまり、ベゼットじいちゃんは、この世界に存在しなかったことになってしまっているのだ!

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