いつの日か
ちりりん、と鈴が鳴る。
――あ、風鈴だ。店長が吊らしたのだろうか。
頬に風を感じた私は、覚醒してからもしばらく目を瞑っていようと思った。やっぱり、本物の風は気持ちがいい。頭が痺れるように痛いがなければ、もっといい。今回も倒れたときに棚の角にでもぶつけたのだろうか?
「目が覚めたか、有馬冴」
……店長、その、人をフルネームで呼ぶの止めてくれませんかね。まぁ、別に嫌じゃないんだけど、さ。
枕元に正座をした店長は、じっと私を見下ろして言った。
「気分はどうだ」
「頭痛いです」
「……そうか」
「っていうか店長、私の顔ずっと見てたんですか」
「偶然だ」
嘘だー。絶対、人の寝顔観察してたんだ。店長ってばやーらしー。
「あいた!」
「氷水」
心の中を読まれたみたいに、鼻っ面にビニル袋に入れた氷の山を落とされた。冷たいを通り越して痛い。堪らずビニル袋をどかして起き上がった私の目に、どこかで見たような顔が手を振っている姿が飛び込んでくる。
「やぁ、冴ちゃん。こんばんは?」
「こ、こんばん……は」
半透明。目を擦っても、確かに透けてる。
見たところ年は三十路手前といったところだが、なんとなく、もう少し上のような気もする。顔立ちが少し店長と似ている。特に頬から顎にかけての輪郭がそっくりだ。
私はどうやら過去に何度も鬼神と話をしていたらしいことが、最近分かった。だが、彼らは皆人間とほとんど変わらない姿で、事実を知らされるまで私は全く気付かなかった程だ。だが、今目の前にいるのは明らかにヒトではないと分かる。だからだろうか、吃驚して声が出せない。
「あ、そうか。自己紹介まだだっけ。僕は瀬戸川八萬。むかーし、やすらひ堂を創った人だよ。つまり偉いの。褒めて?」
「褒めなくていいぞ、有馬冴」
えとえと、えーと。
やすらひ堂の創設者と現店長って、どっちが偉いんだ?
「っていうか、なんで幽霊なんですか?」
店長と八萬さんは、揃ってきょとんとした顔を私に向けた。
――なんかマズイ。
「……ぷっ」
うわーはっはっは、と勢いよく吹き出したのは八萬さん。店長は掌で顔を覆い、見るからに呆れた様子。
いやね、私もね、口にした瞬間思ったのよ? あ、私バカだって。でも今更どんな風に取り繕ったって、ますます不興をかうだけでしょ? 八萬さんは喜んでくれてるみたいにも見えるけど、これバカにしてるだけだよね、明らかに。
「逸材っ。逸材だよ理久くん! よくぞ見つけてくださいました、褒めてつかわす!」
「…………」
なんかすいません、店長。
八萬さんが落ち着いたところで、私は先日と同じ部屋に通された。店側から数えて二間目の座敷だ。さっきの部屋もそうだったけど、家具が極端に少ない。真ん中に置かれたテーブルくらいなものである。電話とかないのかしら……と思ったけど、生活スペースは他にあるのかもしれない。なんたって広い屋敷だから。
「あの女性ね、イギリスに古くからある名家のお嬢さんなんだけど。あ、名家っていっても人間のじゃないよ、もちろん?」
座布団の上に正座をするなり、見た目通りのお喋りさんな八萬さんは口を開いた。どうでもいいけど、幽霊も座布団に座るんだな。
「彼女、人の魂を食らう鬼神なんだよね。そういう人に危害をもたらす鬼神って退治されちゃうことも多いんだ。彼女みたいに何百年も生き続けるってことは、それだけ強い魔力を持ってるわけだよ。そこに付け込まれたわけ、あの鏡に。《彼》にとっちゃ、美味しいエサだったろうからねぇ」
エサという単語に、心臓がどくんと跳ねた。
さすがにもう、私にもあの鏡の本性は見えている。薄っすらとだけど。それが怖くて、目を覚ましたら鏡がどうなったかを聞くべきだったのに聞けなかった。だが、何も知らないままでいようというのは、やはり都合が良すぎたようだ。
「魂を食らう一族に、魂を食らう秘宝。ある意味でお似合いの組み合わせだ。だからこそ、どこかで食い合う定めだったのかもしれない」
そうだとしたら、こんなに悲しいことってない。
兄妹は、鏡がアリシアという力の塊を得るために犠牲になった。ある意味で、鏡は人間というものを理解していたとも言える。認めたくない。けど、そうとしか思えない。アリシアは鏡の策にはまったのだ。
「でも、あの鏡って本当に神器なんですか? 八萬さんのお話を聞くと、むしろ生き物みたいに思えるのですが」
「まぁね。魂を食らい、蓄えた養分で空間を渡り、また新たな魂を食らう――冴ちゃんの言うとおり、生き物に近いかもしれない。でも、アレは神器だよ。確かに人の手によって創られたものだ」
ふぅん。あれ?
――はて。
「人……?」
「うん」
「人間がアレを作ったんですか」
「そうだよ。僕がアレを創ったのだ」
…………絶句した。
「う」
「そ? いや、ほんとほんと」
「元凶じゃん!」
「造ったときはこうなるなんて考えもしなかったんだよ。ほんとだよ、信じてー。創れたから創っただけなんだから」
はぁ、八萬さんは天才なんですねぇ。なんて言うか、あほめ。
あ、今とんでもなく恐ろしい考えが閃いた。もしかして、他の神器も全てこの人の手によって成ったものなのではなかろうか。単なる思い付きだけど、正しいような気がする。創れたから創った、なんて言う人が果たして人食い鏡一枚で満足するだろうか。絶対そうだ、そうに違いない。
でも、八萬さんを責めようという気にはならなかった。アリシアのことは悲しい結末だったけど、彼女が決めたことでもあるのだ。私は彼女の決断と覚悟を尊重したい。いや、アリシアだけじゃない。カイルさんの無茶っぷりも私は肯定したいのだ。それ以前に、私に彼を責める権利なんてないんだけど。
私は期待を込めて店長を見やった。
「あの、店長?」
「なんだ」
「鏡、また探すんですよね?」
「たぶんな。まぁ、探すにしても、どこに行ったのか分からないから時間は掛かるが」
曖昧な返答。意外に使命感とか義務感とかいうものはないのか。
「私にも見つけられるでしょうか」
「キミが?」
「……無理でしょうか」
「いや。そういう意味じゃない」
店長は即座に否定して、しばし黙考した。
「やりたいなら、やってみるといい。その代わり、キミは死ぬまでこの店に縛られることになるが」
それでもいいのか、と彼は問うた。
死ぬまで、という思いがけぬ言葉の重さに、正直怯んだ。でも、なぜか嫌な気はしなかった。理由は単純。《やすらひ堂》が好きだから。だから、私は自分を信じることにした。
「はい。彼女と約束しましたから。私、やり遂げます」
言葉は、強い。強い力を持っている。
私を罪人に陥れたのは、私自身の言葉だった。
私をやるせなさから救ってくれたのは、店長の一言だった。
だから私は、アリシアとの約束を果たそうと誓った。
何年掛かるか分からない。
けれど、いつかの日かアリシアたちが笑える日を信じて。