春樹の病
子供の頃、両親とまだ小さな弟と一緒に庭で花火を見た。スーパーで買ってきた線香花火に火をつけ、夜空の大輪と比べては四人で大はしゃぎした。幼稚園の弟などは、自分の頭よりも高く線香花火を掲げて、母を慌てさせたものだ。そんな妻と息子を見て父は、
「男の子はやんちゃなくらいが丁度いいよ。春樹、元気に育て」
と、なぜか私の頭に手を置いた。
「冴はやんちゃと言うよりドジっ子だな」
という余計な一言を付け加えて。
――今思えば、父の見立ては正しかった。
いつも仕事で家にいないことが多い父だったが、ちゃんと私や春樹のことを見ていてくれたのだ。生意気を言って困らせたこともたくさんあったけど、父は最後まで良い父親だった。今でも私の誇り。
その思い出の中では、川向こうの花火よりも線香花火の弾けるような光の方がはるかに温かく、大きく感じられた。
失った今ならその理由が分かる。温かくて大きな存在が、私にとって何よりも大切だったから、家族で遊ぶ線香花火もそのように見えたのだ。
だが、火はいずれ燃え尽きる。
寿命を全うした花火がぽとりとバケツの水に消えていくのを、夢の中の幼い私は表情をなくした真っ黒な目で見つめていた。
***
朝起きると、いつもの憂鬱が春樹を襲った。体の奥から侵食するそれは、全身を包んで身動きを取れなくする。
(ああ、また朝だ)
眠くはない。目はもうぱっちり覚めている。だからといって起きようという気にならないのは、動くのが億劫だからに他ならない。
首を廻らそうとすれば、鈍い痛みが首の後ろ辺りを襲う。立ち上がるたびに眩暈がし、吐き気を催す。
昔から体は弱い方だったけれど、風邪を引くと長引くくらいでしかなかった彼がこんな風にはっきりと具合の悪さを自覚するようになったのは、両親をなくしてからだ。
しかも、最近はどんどん具合が悪くなっている。原因は分からない。医者に診てもらっても、ストレス性の胃腸炎だとか偏頭痛だとか言われるばかりで、処方された薬を飲んでも一向によくならない。なので、いつも飲むふりをして捨ててしまう。どうせ治らないなら、あんなものに意味はないのだ。
原因が分からないことが一番辛かった。原因さえ分かれば治しようもあると思うのだ。大変な病気だからこそ医者が気付かないということもある。
だが、冴には話せなかった。姉は姉で何かを抱え込んでいるみたいだし、彼女に負担を掛けるのは病の理由が分からない以上に辛い。
(はっ。馬鹿だな、俺。じゃあなんであんなことしたのさ)
自嘲気味に笑うと、喉から引き攣るような声が出た。
回覧板と一緒にポストに入っていた、町内花火大会のチラシ――あれをリビングの一番目に付きやすいところに置いたのは、故意だ。思いついたのは偶然だったけれど。
一人で夕食を終わらせて部屋に戻ろうとしたとき、テーブルの上に置きっぱなしのチラシに気が付いた。すぐに捨てようとしたものの、自分でも思いもしなかった暗い感情が胸の中に芽生えるのを感じて戸惑ってしまった。迷う春樹を嘲笑うように急激に膨れ上がった悪意を押さえることができず、春樹は逃げるように部屋に戻った。帰ってきた冴がチラシを見て傷つくことが分かっておりながら。
一つ屋根の下で共に暮らしていながら、冴と春樹は以前のように仲が良いだけの姉弟ではなくなっていた。
小さい頃はよく喧嘩もしたけど、一緒に遊ぶことも多かった。五歳も離れていれば、弟のことなどさっさと放って友達と出掛けたりしてもおかしくないのに、冴は小学校に上がっても春樹の面倒をよく見てくれた。両親は共働きで昼間は家にいなかったし、彼の体が弱かったことが関係しているのだろう。進んで世話をしていたというより、放っておいたらすぐ風邪を引いてしまうのを心配したのだと思う。それはそれですごく嬉しかった。
だが、今ではそれが春樹の負担になっている。自分のことも面倒見切れない弟というレッテルを貼られているような気がして――事実そのとおりだということも含めて――春樹は、そんな自分たちが嫌だった。
上辺だけの笑顔で負担を掛け合う関係。もううんざりだ。
嫌なことはもう一つある。
自分と話すとき、冴はなんだかとても痛そうな顔をするのだ。自身では気付いていないのだろうが、怯えるように、何かに救いを求めるようにぎこちなくなる。
泣きたいのはこっちの方なのに。
――報復のつもりだったのだろうか。冴がチラシを見るように仕向けたのは。
だが、春樹の行為は自身を傷つけもしたし、結局は二人の間に新たに溝を刻んだだけだった。
冴はどんな顔であれを見たのだろう。どんな気持ちで眠りについたのだろう。
後悔してももう遅い。
激しい自責の念は、肉体的な苦痛となって春樹を襲う。このまま死んでしまいたいとすら思えた。そう願えば願うほど痛みは大きくなり、逃れられない苦しみの渦に春樹は巻き込まれていく。
そんなとき。
『ぎゃはは、ぎゃははは』
「……?」
ふっと体が軽くなって、春樹は上半身を起こした。
「小鬼の声……」
長い廊下を吹き抜ける風のような、すばしっこくて掴み所のない声だ。耳を澄ましてみるけど、どこで笑っているのか分からない。春樹は痛みを忘れて叫んだ。
「おい、小鬼。小鬼、どこにいるんだ?」
『ぎゃははは』
「おいってば!」
笑い声はだんだん小さくなっていく。そのまま消えてしまうと思うと心細くて、春樹は目に薄っすらと涙を浮かべた。
「行かないでくれよ、小鬼。俺と一緒にいてよ……う、ごほっ、ごほっ」
咳に苦しみながら、心の中で何度も見えない友に呼びかける。
しかし、声はそれっきり聞こえなくなった。