店長と《やすらひ堂》
「…え。冴。有馬冴」
「う……?」
目が覚めると、まず頬に冷たい感触があった。少し頭が痛い。何かで打ったのかズキズキする。
夢を見ていたようだ。短かったけど、夢にしてはやけに現実感のある夢を。風や稲穂のさざなみ、金色に光輝く空。実際にそこにいたみたいに思い出せる。
「大丈夫か、有馬冴」
「ぜ、全然大丈夫じゃないです」
反射的に答えてしまってから、相手が誰なのか考える。ぼんやりする視界を強く意識すると、途端に後頭部が強く痛む。そのあまりの痛さに、私は思わず涙目になった。
「う~、頭いたあい」
「倒れた時に床で打ったんだな。商品に傷が付かなくて良かった」
は? 商品?
何言ってんだこっちは頭痛いって言ってるだろ何なんだよその扱いはー。
と文句を言おうと上半身を起こすと、鼻先に瀬戸川理久の顔があった。
「うわあああ!?」
男らしい悲鳴をあげながら、地面に尻つけたまま後退りする。寸でのところで「サド川」という余計な一言を飲み込んだのは、我ながらナイス判断である。
だが、店長の冷視線を回避した代わりに背中が壁にぶつかり、頭の上にひょっとこが落ちてきた。
「ん、それが欲しいのか?」
「んなわけないでしょ!」
「似合っているが」
「いりませんっ」
目の前に男の顔があったので……というか、傍目には自ら突進した形なので、驚愕と恥ずかしさとで頭の中がこんがらがっていた。
なんで店長がここにいるんだ。って店長の店だから当たり前なんだけどっ。いったい、いつの間に帰っていたんだろう? 大正紳士は? 私、なんで土間に倒れてたんだ?
胸中の独り言にひとり右往左往する私を、店長は冷たいとも鋭いとも言える目でじっと見ていた。
あー……馬鹿だなこいつーとか思ってるんだろうなー……と思うと、なんだか落ち込んでくる。
端正な顔に理知的な雰囲気。春樹も無表情だが、瀬戸川の無表情度は次元が違う。春樹のそれは諦めや失意からくるものでどことなく哀愁が漂っているが、彼は感情を失っているのではないかと思うくらい表情筋にブレがない。
年は二十四。私より三歳年上。三つしか違わない。三つも違う。人によって感じる差は様々だろうが、私の場合は「三つしか違わない」だ。常に落ち着き払っているせいか、もっと離れているように感じるのである。その理由の一つに、私のそそっかしさがあることは否定しない。
「店長、いつの間に帰ってたんですか」
「キミが無様に倒れている間だ」
「無様ってなんですか大名ですか」
「そう泣きそうな顔をするな。キミの歴史のページに汚点が一つ増えただけだ」
ひっでぇ。相変わらずひっでぇ。普通、意識失って倒れてたくらいで汚点呼ばわりする?
何と言い返そうかと必死に言葉を選んでいると、またこちらをじっと見ている視線に気がついた。
「なんですか?」
「……何ともないのか?」
「頭痛いです」
「それはどうでもいい」
ごん。
あまりの仕打ちに体が反り返ると、棚の角で頭のてっぺんを強打した。店長は悶絶する私を見下ろして、
「思った以上にタフだな。その調子なら心配は要らないだろう」
と、冷たい視線を浴びせる。
いや、心配してください。冷視線はいらないので氷ください。
痛すぎて手負いの獣のような呻き声しか出せない私の意図が通じたのだと思いたい、店長は一度店の奥へ引っ込んだ。ビニル袋に氷水を入れて持ってきてくれることを祈ろう。
狭い店内に独りきりになって、急に寂しさを感じる。
「――――はぁ」
夢じゃないな。
後から思えばひどくあっさりと、私はそれを受け入れた。
金色の夕焼けも。風で輪をつくる稲穂も。遠くに見える稜線も。あの女の人も。体内に吸い込んだあの場の空気が、私に夢ではないことを教えてくれる。
不思議な事象には、普通の人よりは慣れているつもりだった。春樹のおかげで。でもそれは私に関係のない《特別な時間と空間》内の出来事で、現実の世界で生きる私には一生縁のないことだと思っていた。
私は分かっていなかった。見えなくても、ちゃんとそこにいるのだということ。その時点で《縁》は発生しうること。何年も前から、春樹はここに小鬼がいるって訴えていたじゃないか。私はそれを信じると言いながら、一方では関係がないと跳ね除けて、無視していただけなのだ。
でも今回はそうはいかない。
私がおじいさんに出会った意味はなんだろうか。ただ、おじいさんの大切な荷物を渡すだけ?
ふと、昨夜の電話が思い出される。
『俺は用事があるから遅れるが、キミは必ず時間通りに来てくれ』
自分は理由を言わないくせに。
どうして、ちゃんと教えてくれないのだ。
私はただの使いっ走りか? それなら――それでも、いいけど。でも、私でなくてもいいのなら。理由を言わなくても動く、程度にしか思われていないのなら。
――いや。私は愚か者だ。
私は《やすらひ堂》を自分本位な考えで逃げ場にしている。ここにいると心が安らいだり気が緩むのがその証拠だ。
私が勝手にここを逃げ場にしたくせに、卑怯者のくせに、店長を責めるなんて。
目の奥が熱くなるあまり、頭の痛みも忘れてしまった。
間もなく、店長が戻ってきた。手にはお手製の氷嚢。店長が開けたガラス戸の奥から、冷たい夕方の風が吹き抜けてきた。ついでに襖を全部開けてきたのだろう。空気が通じて、風がよく通るようになる。
店長はいつものポーカーフェイスのまま、珍しく上がり框で動揺を露わにした。
「……なんだ、そのひょっとこは」
「似合ってるらしいので」
「泣いているのか」
くっそう。この男、遠慮がない。涙でくしゃくしゃの顔を見せまいとする乙女心が全然分からないんだから。
動揺なんて無かったみたいに平然と近付いてくるので、私は咄嗟に膝に頭を埋めた。
衣擦れの音がすぐ近くでしたけど、顔をあげられない。無理矢理お面を剥がされるかと思ったけど、そんなことはなかった。
このまま黙っていたら、どうなるだろうか。何事も無かったことになって、きっと後でからかわれる。この男、人の失敗談は絶対に忘れないのだから。
でも、私の正直な気持ち。
事実を知りたい。ほんとのことを。もしこのまま時が過ぎていったら、やすらひ堂に私の居場所がなくなって、もう二度と元通りにはならないだろう。店長もどこか遠くへ行ってしまって――そんなの、どうでもいいんだけど――合わせる顔がないというか、きっと私から避けてしまう。一度尋ねるのを諦めてしまったら、もう一度同じことをするのに二倍も十倍も勇気が要る。
そんなのは嫌だ。
――そのとき、頭にぽん、と何かが置かれた。冷たい。すっごく冷たい。氷嚢だとすぐに分かった。
気付いたら、店長を引き止めるためでも私の存在を消さないためでもなく、どうしようもなく知りたいことを知りたいと伝えるために、私は胸の中のもの全部吐き出していた。
「店長。店長、副業ってなんですか。別のお仕事やってるんですか。ここって本当はどんなお店なんですか。私、このお店の店員じゃないんですか。いつもどこに行ってるんですか。あのおじいさん誰ですか。何者ですか。まるで人間じゃないみたいで。私――私、嫌なんです。店長とは、春樹みたいになりたくない。悩みとか葛藤とかなくって、頭真っ白で話せる関係でありたいんです。だから、教えてください。店長は何を直したんですか? このお店、本当はおじいさんみたいな人たちのための――むぐっ」
「一度に言うな。キミは堰切ったダムか何かか」
「むうぐぐぐぐう」
ぱっと店長の手がお面ごと離れて、私は新鮮な空気を肺いっぱい吸い込んだ。風が涼しくて気持ちいいけど、泣き顔を見られているかと思うと複雑だ。
しばらく、沈黙が続いた。表は閑静そのもので、相変わらず人の気配が感じられない。日が照って暑いせいもあるだろう。暑いと動きたくなくなるものだ。
ああ、冷やしぜんざい食べたいなぁ。
「すまなかったな」
「え?」
気が逸れていた瞬間に、大事なことを聞き逃した気がする。
「今、なんて? 店長?」
「こんなところではなんだ。奥で話をしよう」
「あっ、ちょ、てんちょー!」
すたこらさっさと奥へ逃げる(私にはそう見えた)店長を呆然と見送り、私はぐっと拳を握る。
さっきのは、もしかして。
「店長が……謝った!?」
今夏最大のビッグニュース。
この日は店長を謝らせた日として、私の歴史のページに深く刻まれることになるだろう。
なんで謝ったのか知らないけど。
彼を追って居間に上がらせてもらった私は、キョロキョロと店長の姿を探した。何気に居住部分に足を踏み入れるのは人生初である。店からしか眺めたことなかったけど、案外広い。店はほんの一部分に過ぎないようで、ずっと奥に続いていた。うなぎの寝床というやつだ。横手には開けっ放しの引き戸があって、中庭を突っ切る廊下に繋がっている。ということは、その先にも建物が続いているというわけだ。人は見かけに寄らないと言うが、建物もそうだとは初めて知った。
店長どこかな~と探していると、
「ここだ」
手前から数えて二間目の部屋にいた。調度品はほとんどない。竹で編んだ照明が天井にぶら下がっているが、明かりはついていないので薄暗い。ちりりん、とちょっと遠くで風鈴が鳴る。
店長は既に座っていた。和装でもないのに座敷が似合うのは、この家で生まれ育ったからか。
私はテーブルを挟んで真向かいに座りながら尋ねた。
「そういえば店長のご家族ってどこに住んでらっしゃるんですか?」
「さっきの答えを知りたいんじゃないのか」
「はい。知りたいです」
本当は質問にも答えてほしかったが、ムッとして言われたら、我慢して知らん振りをするしかない。
「……まぁいい。有馬冴。キミは副業がどうのと言っていたが、俺の仕事は《やすらひ堂》の経営以外の何物でもない。ただ、既に察しているとおり、ただの骨董屋ではない」
「おじいさんのステッキを直したような?」
「そうだ。彼は人間ではないし、あのステッキもただの杖ではない。キミならすんなり信じられるだろう。キミの弟、有馬春樹君の特異体質を知っている有馬冴なら」
心臓がきゅっと縮こまった。
春樹の特異体質――言うまでもない。小鬼を見る力のことだ。
私は店長を問い詰めたくなった。どうして店長が知っているのかよりも、春樹にも関わりのある話なのかと。衝動を必死で堪えている様子を見透かすような目で私を見、僅かに視線を下げた。
「なぜ知っているのか、という疑問なら、以前弟君と接触のあったお喋りな《鬼神》が話していったからだ。すまん」
「いや、なんで謝るの。てか、その、おにがみ? ってなんですか」
「キミたちが何と呼んでいるのかは知らないが、昔から俺の家では、妖怪や霊、いわゆる化け物のことを総称して鬼神といってきた。まぁ、なんと呼んだところで構わないだろう。彼らはそんなことは気にしないようだから。そうだな……ヤツから弟君のことを聞いたのは、二年ほど前だ」
二年前。ということは、私は既にここで働いていたかもしれない。もしかしたら会ったことがあるのかも。そこまで考えて、はたと気付いた。
「あの私、その鬼神ってやつ、春樹と違って見えないはずなんですけど。どうして、さっきのおじいさんのことは見えたんでしょうか」
「キミに見鬼の力がないことは知っている。だが、キミが鬼神を見たのは今回が初めてじゃないんだぞ」
「…………」
私は天井を仰いで、店長の言葉を反芻した。わけの分からないことだらけなのに、この上信じがたいことを暴露されて、意識が飛んでいっちゃいそうだった。
「あの。すみません。今なんて」
「キミが鬼神を見たのは今回が初めてじゃない」
聞き間違いじゃなかった。
私の貧相な脳みそはゆるゆると回転をはじめ、しかしそこはやはり貧相なので一定以上のスピードは出せず、うんうんと唸りながらやっとこさ一つの回答を導き出した。
「て、店長?」
「キミには俺が人外に見えるか、そうかそうか」
ひえぇ、間違えた!
話が終わったらたっぷり苛めるぞと目が語っている。うすら寒い笑みにならないあたり、筋金入りのポーカーフェイスである。怖すぎ。
「つまらない冗談は置いておくとして」
つまらないって言われた。
「キミに分かるように直球で正解を言うと、やすらひ堂の客全てが鬼神だ」
遠まわしに馬鹿にされた……って、今なんと!?
「ええー!? じ、じゃあ、お正月のあの人もお彼岸のあの人もひな祭りのあの人もみんな非人間!?」
「そうだ。キミはイベントに関連付けないと日付を覚えられないのか」
「だ、だって」
客が来ない日なら適当に言ったって当たるだろうけど。なーんて台詞は、胸の中だけのファンタジー。
「信じられないです。私、春樹に『ここに小鬼がいる』って言われても、影すら見えたことないんですよ? 最初は、信じられなかったし……」
「それがこの建物の通力だ。《やすらひ堂》は創始者瀬戸川八萬によって、鬼神のための神器取り扱い店として開かれた。ゆえに、鬼神が見えなければ話にならん。しかし自らの子孫が必ずしも見鬼ではない可能性を考慮した八萬は、店に仕掛けを施したんだ。詳しくは説明しても理解できないだろうから省くが、簡単に言えばキミのように才能を持たない者でも見鬼の真似事ができる――そういう仕掛けだ。ただし、仕掛けが発現するのは敷地内に限定される」
「はぁ」
分かったような分からないような。
まぁ要するに、見えるよってことなのだろう。うん、見えてたもんね。
……あれれ? でも。
「ということは、私じゃなくても店番は誰にでも、出来、るの、では……」
自分の言葉の意味を理解して、だんだんと尻すぼみになる。思いついたことを深く考えずに口に出来る反射神経は我ながら大したものだと思う。が、それで自爆してれば世話ないよ私。
店長は厳つく腕を組んだまま、はぁぁ、と大仰に溜息をついた。二回目だわこれ。
「以前にも言ったと記憶しているが。キミには適正がある。それは見鬼とは違う。誰にも真似できない、キミだけの才能だ。もっとも、キミの付加的な力に気付いたのはつい先程のことだが。うん……俺も聞いたことはないが、恐らく……」
私に聞こえない小さな声でむにゃむにゃ喋っている店長を見るのは初めてだった。たぶん私のことだと思うのだが、あの夢のことを言っているのだろうか? うーん、いったい何だったんだろうな、あれ。
――あの歌の女の人、幸せになれたのかな。
いつの時代の人なのか分からないけど、たぶん今よりずっと遠い昔の人だ。そんな気がする。
優しくて、暖かい雰囲気が似合う人。涙や不幸が似合わない人。夢の中の彼女は少し悲しげな声をしていた。でも、きっと大切な人が最後まで傍にいてくれたように思う。そうであることを願おう。
夢のことを考えていたせいか、なんだか急に眠くなってきた。目がしょぼしょぼする。そんな私に気が付いた店長は、気持ち口調を和らげて、
「今日はもう帰りなさい。不慣れな力を使ったせいで疲れたのだろう。誰でも最初はそういうものだ」
そう言われれば、断る理由はない。正直に言えば私もゆっくり休みたかった。
どちらにしろ、油断すれば眠りに落ちそうな気持ち良さを、私は手放さなければならなかった。
歩かなきゃ家には帰れない。ふらふら~っとね。うん? なんか店長が言ってるけど、よくわかんない。まぁいいや。お小言ならいつものことだしー。眠ってしまえば、食らわないのと同じこと。あれ、だめだってば。寝ちゃダメなんだってば。
「ああ、忘れていた。とにかく、キミはやすらひ堂に必要な人間なんだ。キミが店番をしてくれるおかげで、俺は外に出られる。彼らはいつ何時やってくるか分からないからな。それに――」
まだ何か言ってる。でも、もうだめ。眠る。意識を手放すのがこんなに気持ちいいなんて。やっぱ人生の花は睡眠だな。
ゆったりとしたまどろみの中、そんなわけの分からないことを考えて――
――気付いたら、リビングのソファで寝ていた。
「どこここ!?」
自宅である。
夜なので電気はついていないけど、確かに私の家だ。いつの間に帰っていたのだろう。店長の話の途中に眠ってしまったように覚えているが、もしかしなくても送ってくれたのだろうか? あれ、店長、車持ってたっけ?
私はまだ少しぼんやりする頭を引き摺りながら、春樹はいないかと視線を廻らせた。
テレビ、テーブル、リモコン、チラシ、電話にカウンター。ん? チラシ? 私じゃないから春樹だな。あの子が出しっ放しとは珍しい。
私はそのチラシを手に取り、ドアの横の電気を入れるスイッチへ向かった。
んー、なになに? なんだこの線。あ、枠か。えーと。
じーっとチラシに目を凝らしながら、手探りで壁のスイッチを入れる。蛍光灯の明るさに慣れるまで、目を瞑って耐えていた。瞼に刺さるこの手の刺激は、生まれて何年経とうが慣れないのだろう。
「なんだなんだ。えっと、町内――」
さぁっと、全身から血の気が引いた。心臓がばくばくして、どぅんどぅんと耳鳴りがした。チラシを持つ手に汗が滲んでいるのが、見なくても分かった。
「春……樹……?」
――やっぱり、許してはくれないんだ、春樹。
そうだよね。春樹の大好きなお母さんたちを奪ったんだもの。許してくれるはずがないのに、家族だからいずれはと頭のどこかで甘えた考えを抱いていた。
そんなはずないのに!
膝が崩れ落ちても、私は自分の体を支えることができなかった。涙がぼろぼろと零れる。あんたにそんな資格はないのよと自分に言い聞かせても、溢れる涙は止められなかった。
いいよ。出るんなら出しとけ。そうやって全身の水分出し尽くして、枯れてしまえばいい。
そんなことで私の罪は流れやしない。
三年前の町内花火大会の日。
私が両親を殺した日。




