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おじいさんと最初の夢

 合挽きミンチを三百グラムに、なくなりかけていた牛乳と安かった砂糖やボディソープ、それと春樹と食べようと思って買ったアイスを買い物袋に詰め込み、自動ドアの前に立つ。手提げ袋にはまだ弱冠の余裕がある。野菜買えばよかったかなと思いつつ、やっぱり振り返らない。必要だったらまた買いに来ればいいさ。

 がこん、とぎこちなく動いてドアが左右に開くと、一歩出る前から熱気が伝わってきた。昨日雨が降ったせいか、空気が湿気を含んで蒸し暑い。私は生暖かい風が肌を押す感覚に辟易しながら駐車場を抜け、真夏の太陽を照り返す白い壁を左に折れた。

 ……待てよ?

 あの小鬼、庭の木に水を撒いていたらしい。昨日もそうだったのだろうか。それとも、今日突然?

 春樹はいつもこんな小鬼がいる、と教えてくれるだけで、彼らの目的や考えなどというものはあまり口にしない。いや、それは少し違うか。口にしないのではなく、できないのだ。今まで春樹が見てきた小鬼は目的など持っていなかった。今朝の小鬼が異常だったとも言える。

 あの木は小鬼にとって特別な意味があるのだろうか。私には何の変哲もないハナミズキに見えるのだけど。

 目の前を蝉が横切ったので、私ははっと我に返った。忘れていた買い物袋の重みが腕に蘇って、急に痺れを感じた。


(何考えてるんだろ。私。馬鹿じゃないの。私には何も関係ないじゃんか)


 分かっている。気にしてるのは春樹だ。私が気になるのは春樹なのだ。この件だけじゃない、私は何もかも春樹を中心に考えるようになってしまった。こんな姉のことを春樹はどう思っているのだろうか。勘の鋭い子だから、私の変化に気付いていないはずがない。ウザイと思われてるかもしれないけど、私にはどうしようもない。いつまで春樹の優しさに甘えるつもりなのだろうと自分を責める気持ちが、胸の奥底で黒く渦巻く。

 私の罪悪感は一生消えない。春樹とを隔てる壁も、一生消えないかもしれない。それが償いなら、受け入れるしかないのだろう。


「早く帰ろ。アイス、溶けちゃう」


 私は止まっていた足をのろのろと動かして、家路に着いた。

 体がだるく感じられたのは、暑さのせいだけではないだろう。それだけは明白だった。


 ***


 私に大学進学を勧めてくれたのは、父の妹、つまり叔母だった。あけすけで大らかな性格の叔母は、進学を諦めて働こうとする私に、お金のことは心配しなくていいからとまで言ってくれた。春樹が高校に通えているのも叔母のおかげだ。兄夫婦が亡くなり、自分だって辛いだろうに、私たち姉弟には涙一つ見せなかった気丈な人でもある。

 叔母は大学や高校の面倒を見てくれたばかりか、少しでも稼ぎたいと言う私にそれなりの時給のバイトまで紹介してくれた。私は恐縮したのだが、なんでも適正のある人間を探していたとかで雇い主には逆に有り難がられた。そのせいで尚のこと畏まってしまったのだが、せっかくの厚意を断るなんてとんでもないと、一も二もなく引き受けたのだった。今では少しだけ後悔している――なんて、口が裂けても言えない。もとより辞めるつもりはまったくないのだけど。


 良い具合に焦げたハンバーグをひっくり返してフライパンに蓋を被せると、軽いため息が出た。せっかく今日は休みを貰ったのに、なぜか憂鬱だ。春樹と二人きりが嫌なんではない。さすがにそこまで荒んでいない。

 頭の中で断言すると、私はタイマーを七分にセットしてカウンターに背中を預けた。手の中のフライ返しを弄びながら、なんとはなしに考える。

 またしても、例の小鬼のことだ。何年もの間無関心を通してきたのに、なぜこんなにも気になるのだろう。一度だけではなく何度も何度も考えまいとしたのだが、やることがなくなると思考が飛ぶ。まるで振り出しに戻った駒のように。

 だが、考えても考えてもしっくり来る回答は得られず。突然鳴り響いたタイマーのデジタル音にびっくりして料理に戻る。七分を使えばじゃがいもをレンジでチンできたのにと臍を噛むが、数秒後にはそんな悔しい思いもすっかり忘れていた。

 聞き慣れた携帯電話の着信音が聞こえてきたからだ。流行の歌に興味のない私が設定しているのは、何の変哲もない黒電話のジリジリ音。悲しいことに女友達が少ない私は(当然の如く男友達は皆無)、携帯電話の画面を見る前に対象を二人に絞り込んだ。

 パチンとカバーを開くと、予想していた二名のうち見たくなかった方の名前が黒々と出ている。たったの漢字五文字がどうしてこんなに自己主張激しく見えるのか、とても不思議だ。

 苦手意識が顔に出ていたと思う。春樹は部屋なので誰に見られたわけでもないけど、ちょっと気まずくなる。

 ……でも、出ないわけには行かない。五回目のベルが鳴ったとき、意を決して通話ボタンを押した。


「はい」

『話がある。今いいか』


 いきなりである。この男はいつも唐突で、遠慮がない。

 最初こそ驚いたり腹が立ったりしたものの、二年の付き合いとなるともう慣れてしまって、たとえ忙しい合間だろうと怒りすら湧いてこなくなった。……だって、ちょっとでも反抗しようもんなら取り付く島もないほどに不機嫌になるのだ。私より年上のくせに。ああ子供なんだなぁと自分を納得させ続けた結果ともいえる。ちょっとした戦利品の気分だが、正直全く嬉しくない。


「なんですか」

『明日、十二時からだったな』

「ええ、そうですけど」


 バイトの話だとすぐに分かった。店長が電話をしてくる時はいつもそうなのだから、当たり前と言えば当たり前である。

 営業時間は昼十二時から夜十二時。店長の都合で多少前後する日はあるものの、大方この通りだ。……今にも潰れそうなのに客より店長の都合を優先する余裕があるのかと思うけど、悲しいことに客足がゼロの日も珍しくない。だが私にとっては有り難いことに、どんなに閑古鳥が鳴いていようと店を畳むつもりはないようだ。


『俺は用事があるから遅れるが、キミは必ず時間通りに来てくれ。いいな?』

「分かりました。って、私、遅刻したことないですよ?」


 口を尖らせると、携帯電話の向こうの人がふっと息を漏らしたのが微かに伝わった。笑ったのか呆れたのか判断がつかないところがいやらしい。


『確かに遅刻はないが、慌てて裸足で来たことがあっただろう。時間に余裕を持てということだ』


 ぐ。あのときは夜更かししたせいで寝ぼけていたのだ。完全なる私のミスなので、言い訳も出来ない。そうそう、その日は女物の草履を借りて家に帰ったのだった。


「よくもまぁ、そんな細かいコトがすらっと出てきますね」


 私はせいぜい嫌味っぽく聞こえるように言った。


『キミの失敗は出来うる限り記憶しているからな』

「あんたは閻魔さまかッ」


 怒気を孕んだ私の返答に対する反応は、なし。そのまま通話は切れた。


「くぅ! あの無感動店長、なんであんなに嫌味かなぁ!?」

「ねーちゃんの言い方も十分嫌味っぽかったけど」

「ひあっ!?」


 突然背後から声がかかり、私は飛び上がらんばかりに驚いた。

 いつの間にキッチンに入ってきたのか、すぐ後ろに春樹が立っている。


「ねーちゃんの失敗談は、忘れようと思っても忘れられないよ」

「あんたね……」


 どうやら内容が聞こえていた模様。後で通話のボリューム下げておこう。まったく、可愛い顔して油断も隙もないんだから。

 春樹はそれ以上何も言わずに、私の横をすり抜けていった。

 リビングでテレビを見始めた弟を尻目にハンバーグを更によそいながら、はたと気付く。


(そういえば春樹、何か用だったのかな?)


 インゲンとにんじんのグラッセで皿を飾り、コンロの鍋に火をつける。

 十数年使い続けている水屋から茶碗とコップを取り出し、お盆に載せる。

 その間に一声、「何か用だったの?」と掛ければいいのだが、私にはそんな簡単なことができないでいた。一瞬だけ見た春樹の顔が、ちょっとシリアス入ってた気がして。

 じっと春樹の後ろ頭を見ていると、唐突に振り返った顔と目が合った。


「あ、そうだ。ねーちゃん、回覧板来たから回しといたよ」

「そ。ありがと」


 なんだ、と一人胸を撫で下ろす。

 回覧板か。

 私は自分に笑いながら、茶碗にご飯をよそった。


 ***


 和洋折衷のアンティークショップ《やすらひ堂》は、駅の反対側のさびれた商店街のそのまた裏の、ほとんど人が立ち入らないような場所にひっそりと佇んでいた。

 時代劇に出てきそうな木造の古い平屋に、飴色の木製看板が堂々と掲げられている。その威風たるや大したもので、客は入らずとも年季だけは入っている。なんてことを店長に聞かれようものなら、刃物のように鋭い目で睨まれるに違いない。初めて店の前に立ったのは二年と少し前。その時《堂ひらすや》と声に出して読んだありがちな失敗もいい思い出だ。その直後、いつの間にか背後に立っていた店長にいきなり不機嫌な顔で呼び止められたことも。

 私は合鍵を使って店に入った。店長の家でもある《やすらひ堂》だが、なんと私は合鍵の所持を許されている。まぁ、今のご時勢どんな家でも鍵を掛けないと危ないし。店長ってば店にいない日が多いし。そんな日は私が準備をしないと、せっかく来てくれたお客さんも入れないのだ。

 とは言え、他人の――しかも年上の男性の家の鍵を持たされると言うのは、結構どきどきものである。店長の不機嫌にも暇の持て余し方にも慣れたけれど、こればかりは緊張する。もし近所の噂好きの奥様方に見つかったらどうしようと。物好きな女だと思われるのは絶対嫌だ。

 店長が聞いたら眉間に皺寄せてこめかみをひくつかせそうなことを思いながら、私は素早く店に入った。

 そのときだ。


「ごめんくださいですじゃ」

「はいっ!?」


 びくぅっと、私の背中が凍りついた。


「もし、お店の方ですかな?」


 ほっ。なんだ、お客さんか。

 って、お客様!?


「はい! そうです!」


 威勢よく振り返ると、そこには白い髭をたくわえた、身長わたしと同じくらいの小柄なおじいさんが立っていた。

 大正時代の映像から抜け出てきたような格好をしている。白シャツに赤のネクタイ、紺のジャケット、白のスラックス。頭にはカンカン帽。目だけで素早くステッキを探したが、残念ながらおじいさんは手ぶらだった。


「約束の品を受け取りに参りました」


 おじいさんは今にも死にそうな、じゃなくて、味のあるハスキーボイスでそう言った。


「約束の品?」

「瀬戸川殿から聞いておりませんかな? ほれ、あの細長い……」


 と、皺くちゃの指で奥を指差す。おじいさんの言うとおり、木造りのカウンターの上に長方形の箱が置いてあった。その上には店長の直筆でメモが残されている。


「ん……と。"荷物の持ち主が本日十二時に受け取りに参られるので、ちゃんと渡すこと"。持ち主?」

「はい。私の宝物ですじゃ」


 そんなものがどうしてここに?

 ここは質屋じゃないんですが、と言い掛けるのをぐっと飲み込んだ私は、おじいさんに不思議そうな視線を送る。

 しかし、ニッコリと笑ったおじいさんには私の考えていることなど全部筒抜けのような気がして、恥ずかしくて顔が熱くなった。


「壊れて捨てるしかなかったのを、瀬戸川殿に直して頂いたのですじゃよ」

「直して?」

「おや? もしやお嬢さん、瀬戸川殿のお仕事をご存じない?」


 いやいや、ご存知ですけど。

 心の中では即座に切り返したものの、私は頭から血の気が下がっていくような心地だった。

 瀬戸川――店長の仕事を知らないと言われて、強い反感を抱く自分がいた。

 この二年と少し、私はやすらひ堂と店長を支えていると思っていた。それが嬉しかった。大黒柱にはなれなくても、私がいることで少しでも手助けが出来ていると思い込んでいたのだ。

 やることがなくて、すっごく暇。私が店番する意味あるの? って、毎日のように悩んでいた時期があった。ただの手伝いならともかく、お金を貰っているのだ。暇であることに罪悪感のようなものが付き纏っていて、すごく辛かった。でも、そんな私に店長は言ってくれた。

「キミがいるから店を空けずに済む」

 と。意味はよく分からなかったけど、気休めで嘘を言ったりする人じゃないから本当なんだ、ってすんなり心に入ってきた。

 その夜、帰り道で少し泣いちゃったのは一生忘れないだろう。

 それが、なに? うちの店長、隠れて副業でもやってるわけ? そのために私を雇ったの?

 ショックが車のヘッドライトのように通り過ぎると、今度は怒りが沸いてきた。副業するのは構わないけど、二年間も黙っとくってどーいうことさ?

 頭に血が上った私は、控えめに声をかけるおじいさんに最初気がつかなかった。


「もしー、お嬢さん?」

「え。あ、なんでしょう?」

「いえね。お嬢さん勘違いしてるみたいじゃから」

「かんちがい?」

「うん。気の毒じゃけど」


 知らないことが気の毒なのか、勘違いしていることが気の毒なのか。どちらにしても意味がよく分からない。

 目の前のニコニコした大正紳士は私の手から荷物を受け取り、大事そうに表面を撫でた。


「これはね、ステッキなんじゃよ」

「ステッキ!?」

「そ。木の実のステッキ」

「木の実のステッキ!?」


 不機嫌はどこへやら、私は目を輝かせて茶色い紙包みに熱い視線を送った。


「これにね、不思議な力を加えると木の実をつけることができるんじゃよ。けど、そう何度もぽんぽん使えるものじゃない。霊力を溜めなきゃなんないの」

「れ、れいりょく?」

「そ。何十年もずーっと肌身離さず持ってたってわけ。そうして、ようやく十分な霊力が溜まったのが一ヶ月前。だけど、不慮の事故ってやつでステッキが折れてしまったのね」


 何を言っているのか半分も理解できなかったが、おじいさんの語り口がやけに熱っぽかったので、いつしか私は真剣に耳を傾けていた。


「ああもうだめだ、って思ったんじゃよ。何せ私も年だから。もう一度霊力を溜めなおす前に、力尽きてしまう。だけど丁度その時、風の噂で《やすらひ堂》っていう、私ら相手のお店があるって聞いて。ここが最後の頼みの綱と一生懸命探し出して、瀬戸川殿にお願いしたんじゃ。そしたら、快く引き受けてくだすってなぁ。感謝してもしきれないのじゃよ、ほんとのはなし」


 おじいさんは片目を瞑って、皺くちゃのウィンクをした。

 その笑顔を見たとき、私は完全に店長への怒りを消した。というか、消えていった。ああ、店長はいいことをしたんだなぁ、と。おじいさんの話は正直よく分からなかったけど、なんだか誇らしげな気持ちになった。自分のことじゃないのに。

 くすくす。誰かの笑い声が聞こえたので我に返ると、それは自分の口から漏れていた。まるで記憶にないその声は、確かに私の声帯から発せられている。


「いわし雲の夢」


 その瞬間、おじいさんは信じられないものを見たかのように目を見開いた。

 ふわっと、周囲が暖かい光に包まれる。風を感じて一瞬目を閉じ、再び開けたとき、そこには見たことのない光景が広がっていた。

 金色の夕暮れ。見渡す一面稲穂が揺れ、山の稜線が遠くに見える。一言で田舎というにはあまりに古い光景に、私は我知らず息を呑んだ。

 しばらくぼうっと眺めていると、すぐ近くで女の歌が聞こえてきた。柔らかい、慈愛に満ちた声。これは、子守唄? どことなく懐かしさを覚え、私はおもむろに辺りを見回した。

 ふと女の歌がやみ、風が騒ぎ始める。稲穂を撫でていく風が過ぎ去った後、女が誰かに話しかけた。


「ねぇ、あなた。あのいわし雲のように、私たちにもたくさんの子がいたら良かったのにね」


 その言葉が終わるや否や、急に景色が滲む。水彩のキャンバスに雨粒を垂らしたように。

 世界が白化していく中、最後におじいさんの声を聞いた。


「ああ、夏江。もうすぐお前の願いが叶うよ」

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