第二話 Ⅲ
出て来た男にクラッドは思わず眉を潜めた。
その男の真っ黒い髪には雲脂が浮いており、乱雑に伸びたそれが顔の半分を覆っている。服は洗っているらしく、インク汚れが付いている以外の汚れは無いように見えた。
しかし明らかに数日は風呂に入っていない。そのことは見た目だけでなく匂いからも解った。人の脂から出る独特の据えた匂いがクラッドの鼻を突く。
シュバリエは人型と竜体の二つの姿を持つ種族である。獣人の一種と言える為、人間より遥かに鼻が良いのだ。
そしてメルディスはそのシュバリエよりも嗅覚が優れている。
クラッドは籠目の様子を見ようと首だけで振り返った。
しかし有ったはずの光は消え、薄暗い中に聳え立つ本棚達しか見えない。
光の領域の明りは人の体や石壁さえ貫いてしまう程のものである。本棚程度の厚さなら簡単に通り抜けるだろう。
何か遭ったのだろうかと思い、クラッドが歩き出そうとした時「貴方はこちらの店主の方でしょうか?」と言う声が自身の右側から聞こえた。
驚いてそちらに顔を向ける。そこには籠目が居た。
「あ、いえ、店主は奥にいますので今呼んできます!」
クラッドの顔に見惚れていた男は、急に現れた全身フード姿の籠目に驚いた様で、慌てて奥に引っ込む。
扉が閉まるのを見届ける前にクラッドの視界は猩々緋の光に奪われた。光と共に金木犀の甘い香りが鼻に届く。それが籠目の魔力であると、クラッドは直ぐに気がついた。
そして瞬きする間もなく、この世界で最初に来た部屋に籠目とクラッドはいた。
「籠目様、いかがなさいましたか?」
籠目の急な行動が理解できず、クラッドは籠目を見る。
だが籠目は質問に答えることなく真っ直ぐにベッドに向かうと、フードを脱ぐこともせずベッドに倒れこんだ。
クラッドが慌てて籠目に掛け寄る。
「御気分がすぐれませんか?」
あの男の悪臭が原因で籠目様の御気分を害したのならば殺してやる、と物騒なことを考えながらも表面上は冷静に聞く。
どす黒い感情は微笑というポーカーフェイスに綺麗に隠された。
しかし隠し切れない怒りか、はたまた焦りからか手は小刻みに震えている。
クラッドが内心戦々恐々としていると、籠目は僅かな笑いを含みながら「違う」と言った。
口の中で呟く様な声だったが、クラッドの耳に届くには十分な声量である。
声に含まれた笑いに、クラッドの震えは感情と共に解けるように消えた。
「そうですか。では仮眠ですね。何時頃御起床なさいますか?」
「……お昼」
「承知いたしました。おやすみなさいませ」
籠目はフードの下から、クラッドの唇が言葉を紡ぐのを見届けると静かに瞼を閉ざした。
籠目は半身の特徴の一つである三大欲求の特化と欠如により、眠欲が特化している。通常の睡眠で六時間程眠り、それ以外で六時間以上眠るのだ。
だからクラッドは籠目が突発的に眠くなり何かを途中で放棄することに驚くことはない。彼女の寝息が安定するのを待って、彼は静かに立ち上がり彼女のフードを脱がせた。
掛け布は籠目の下敷きになってしまっているので、代わりの布を鞄から取り出す。掛け布を握り胎児の様に丸まった彼女を見た後、クラッドは部屋のソファーに腰かけて荷物の整理を始めた。
籠目の寝息とクラッドが僅かに出す布ずれの音だけが響く室内で、彼女は無音の声を発する。体は眠った状態にあったが彼女の頭は起きていた。
“ダーク、町に出てみたよ”
“そうか。どうだった?”
籠目の声に即座にダークから返事が届く。その声に不機嫌さは無かった。
“朝市の風景はあまり変わらなかった”
ダークの機嫌が直っていることを籠目は解っていたが、声からもそれを確認することで改めて安心する。
先ほどは自分も機嫌が悪くダークの苛立ちを無視してしまったが、悪魔は感情に非常に素直な種族だ。突発的な行動を起こすことは決して少なくない。
悪魔を含め、魔族は魔力の質量が良ければ良いほど美しく、理性がある。理性とは即ち自制心だ。
ダークの魔力の質量はコンクエストヴェールンスの中でも最上位に入る。伊達に魔王の地位にいるわけではない。
それに加え、半分竜人の血が流れていることも自制心の強化に繋がっていた。竜人は他のどんな種族よりも理性的である。雄の番に対する狂愛という例外が有るものの、普段の状態ならば竜人ほど温厚で大らかな種族はいない。
しかし、それでも不機嫌なダークをそのままにしておくべきでは無かったと籠目は思う。
別にこの国の者が死ぬのは構わない。自国の困難を異世界の誰かに押し付けると言う姿勢が気に食わないし、同情するほどの何かも無いからだ。
けれど――
“貴重な事例が無くなるのは困る、だろ?”
ダークの声が、籠目の考えを引き継ぐ。どうやら念話で全て垂れ流しにしていたようだ。
“そうだね。勿体ないし、ルルーシュのお説教は長いから”
籠目の苦笑気味な言葉にダークが笑った。楽しげな気持ちが彼女にも伝わる。
勿論、この会話は冗談である。――半分は。
自分が原因で誰かが死ぬ。そのことに対して籠目は勿論、良心の呵責を感じる。
だがそれは対象が籠目の領域を犯さない者だった時だけだ。それ以外の場合、対象を始末することに感情を揺さぶられることは一切ない。これは種族的特徴と言うより、今まで育ってきた環境によるものと言えた。
対して、ダークには良心と言うものが殆どない。
それを感じるのは対象がダークにとって重要な人物だった時のみである。それ以外の場合は何も感じない。これには悪魔と言う種族の特徴が大きく出ていた。
悪魔と呼ばれる種族は利己主義の塊である。世界の中心は自分であり、世界は自分の為に存在していると考えている。唯一それに当てはまらないのは自分より強い相手だけだ。これを考えると、ダークの僅かな良心は竜人の血によるもので間違いないだろう。
“籠目、今から一緒に旅をする仲間とやらが会いに来るが、見るか?”
ふと思い出したようにダークが言う。
籠目は少し悩んだ後、“適当に覗いている”と答えた。
興味があるのか無いのか籠目は解りづらいと、ダークは小さく苦笑する。
「勇者殿、皆様が参りました。お入れしてもよろしいでしょうか?」
扉の外側からノックと共に声が掛けられた。
声の主は、表向きは護衛として付けられた甲冑の男だ。
ダークは籠目との念話に集中するために閉じていた目を静かに開き、「入れろ」と言い放った。その声は重厚でいてベルベットの様に滑らかである。
しかし籠目と話す時にはある温かみが一切無かった。甲冑の男が彼女と話している時のダークの声色を知らないことは幸運だろう。もし知っていればその冷たさに驚愕し、恐怖を覚えたに違いないからだ。
「失礼する」
そう言って金髪碧眼で白人の男が部屋に入ってきた。その男に続くように、黒髪黒目の男女と赤毛に茶目の男も入室する。
“町には金髪も白人もいなかった”
ダークの頭に籠目の声が響いた。
だが、そこに伝えようと言う意思は感じられない。今、籠目はダークの五感通して同じものを見ているので、その副作用で籠目の考えが漏れ聞こえたらしかった。
“王族共は全員こんな感じの色合いだ”
ダークは特に気にすることも無くその問いに答える。
籠目も気にしていないようで“じゃあ、ダークに跨っていた女の人は王女? パターンだと神子か巫女だと思っていたんだけどな”などと呟いた。
その少し残念そうな言葉に思わずダークの口角が緩む。
無表情が僅かな微笑みに変わっただけだったが、部屋に来た男女が息を飲むのをダークは聞いた。
女に至ってはふら付き、隣にいた黒髪の男に支えられる。
しかしダークは気にすることなく、座る様に顎で示した。
その行動で金髪の男は正気を取り戻し、椅子に掛ける。
長方形の机の扉から遠い側にダーク、近い側に金髪の男が座り、残りはダークから見て右側に黒髪の男女、左側に赤毛の男が座った。
全員が座ったことを見計らったように、隣室からレディース・メイドが茶器一式を持って入室する。彼女もまた、ダークの容姿に頬を赤らめたが静かに仕事をこなした。彼女が入れた紅茶は昨夜籠目が飲んだものだ。
レディース・メイドが出て行くと、ダークはそれに口を付けた。珈琲に近い苦みを感じる。ダークは苦いものも平気だが、好きなわけでもない。
それ以上飲まないでいると、金髪の男が椅子から立ち上がり口を開いた。
「先ほどは陛下が失礼した。王族を代表して私、ランドルフ=カティ=ルビダントがここに謝罪する。申し訳無かった」
そう言うと金髪の男――ランドルフは机に両手を付き、深く頭を下げる。他の者も、それに合わせる様に深く頭を下げた。
この行動に籠目は内心首を捻る。
あちら側が訪ねて来る事やダークが上座に掛けている事を可笑しいとは思っていた。だが、それに関してはある程度予想がついたので籠目は何も言わなかったのだ。おそらく、あの後ダークが何かしらの行動を起こし、格の違いを教えたのだろう。
だがそれだけではこの謝罪の意味は解らない。
ランドルフたちの謝罪を冷たく一瞥し、ダークは「その謝罪に意味は無い」と言った。「貴様らみたいな雑魚にその程度の謝罪をされた所で何の意味ないんだよ」という意味をダークは言外に含めたのだが、彼らは別の解釈をしたようで安堵の表情を浮かべて頭を上げる。
しかしランドルフだけは厳しい表情を崩さず、もう一度「申し訳ない」と言った後席に着いた。
“王子は頭が良いんだね。……あのさ、ダークに一つ聞きたい事があるんだけど、いい?”
“どうした?”
ランドルフが魔王討伐について話し出したが、ダークは目を閉じて籠目の言葉に集中する。別に視界を遮った所で聞こえる声に違いは無いのだが、念話中に余計な情報を入れたくないと言う考え故の行動だ。
“王子たちの対応がどうも気になって。ダーク、何かした? それともされた?”
言葉は心配している様だが、その声色は確実に楽しんでいる。
ダークもその感情の波に流されるように気分が良くなると、軽い口調で答えた。
“あの王が討伐に成功すれば王女と結婚させてやると言ったから、そんな女に興味は無いと言っただけだ。そうしたら王女が私を抱いたのは遊びなのかと言いだして騒ぎになった”
ダークの言葉に籠目は笑う。
“謝罪しようと思った原因は別として、理由は解ったよ。正に王道だね。王の言葉も王女の言葉も。ああ、だから『王道』って言うのかな。その後は?”
“部屋の中を魔力で満たして鎮圧した”
籠目が“えげつないな”と苦笑気味に言ったが、非難している訳ではないと解っていたのでダークは何も言わなかった。
魔力を満たすと言う行為は、格の違いをもっとも解りやすく示す事ができる。なぜなら魔力は水の様に高い所から低い所に流れる性質があるからだ。
つまり、部屋が魔力で満たされ、それが己の体に入ってくると言うことはその魔力の持ち主の方が上位であると言うことなのである。
また、魔力の容量と言うものには個人差があり、それを超える魔力が供給されると卒倒してしまう。
王達が人間だと言うことをダークは一目見て解っていた。
人間とダークでは魔力の質が違いすぎ、彼の魔力を少しでも体に取り込めば卒倒するのは火を見るより明らかだ。
それにも関わらず部屋の中を魔力で満たすという行為を籠目はえげつないと表現したのである。
謝罪の起因もこれによる怯えだろうと籠目は思った。
「勇者殿? 聞いておられるか?」
ランドルフがずっと目を閉じたままのダークをいぶかしみ声を掛ける。
しかしダークはそれを無視して“どうしたい?”と籠目に聞いた。
籠目はその問いに“魔王が判断しないと意味が無いよ。もう寝るね。おやすみ”と言い、興味は失せたとばかりにダークの中から消えた。
ダークは“おやすみ”と返すと静かに瞼を上げる。
金髪碧眼の王子はまさに絵本に出てくる王子様と言った風貌だ。黄色人種ばかりのこの世界では神々しいと表現するに値するだろう。
だがそれもダークには遠く及ばない。彼の妖艶な風貌と悪魔特有の『魔』の雰囲気が相乗し合い、老若男女関係無く頬を赤らめてしまう艶がある。
それにはランドルフも例外ではなく、ダークが少し見ただけで目元に朱を走らせた。
「勇者殿?」
それでもランドルフは毅然とした声でダークに問いかける。同じ魔族でも上級で無ければダークに見つめられるだけで垂れかかって来ると言うのに。
「ランドルフ」
ダークが低い声で名前を呼ぶと、緊張はしているが冷静に「何でしょう」とランドルフは答えた。ここで初めて、彼はランドルフに興味を持った。
「討伐に付いてくるのはお前だけで良い。他は必要無い」
此奴なら籠目も興味を持つかもしれないな、と言う興味であったが興味は興味だろう。
クラッドが主人愛と恋愛を足して割った様な好意。
ダークが友愛と保護者的愛の中間みたいな好意。
この話では、そんな感じが伝われば良いです(*^-^*)