第二話 Ⅱ
クラッド手製のカントリーブーツが路地裏の石畳を打ち、心地良い音が響いた。一瞬遅れて、直ぐ後ろからバルモラルが鳴る。
部屋に時計は無かったが、太陽の位置から時間帯は六時頃だろうと籠目は当りを付けた。
大通りのある方向からは雑多な音が聞こえるが、籠目達のいる裏通りは水を打ったように静かだ。彼女は靴音を響かせながら、ゆっくりと大通りに向かって歩き始めた。
少し埃っぽい空気の匂いが鼻を突く。それに混じって、ゴミ、下水、食べ物なども匂ったが、籠目は意識的にそれらの匂いを遠ざけた。鼻先をピクリと動かすだけで春の様な優しい風が吹き、沈丁花の香りに変わる。匂いも記憶すべき物なので、普段はこんな事をするとルルーシュに叱られてしまう。彼女もそのことを重々理解しているので、ひどい刺激臭でもない限り普段はやらないが、今は不機嫌なこともあり好きな香りに包まれていたかった。
数分ほど歩くと薄暗い裏通りに光が射し大通りへと出た。早朝だが通りには老若男女が溢れている。丁度市場の開かれている所に出たこともあり、店の者が大声を張り上げ商品を捌く声が籠目の耳を打った。
クラッドに足首まで隠れるシンプルな茶色のローブを渡され、籠目はそれを被って人の波に溶け込んだ。コンクエストヴェールンスと変わらない朝市の風景を見たことで、彼女の機嫌は良くなった。
籠目は店で売っている物を見ながら人の流れに乗って進んでいく。時折見たことのない物を見つけると、クラッドに指示を出し買わせた。
その金は盗んだものや城から拝借したものではない。籠目の私財である。
観測者の仕事は数多にある世界の文化を記憶することだが、籠目が今行っている仕事は少し違う。
前観測者が書物として残した記録を記憶し直す事と、進んでしまった歴史を更新する事がここ最近の籠目の仕事だった。勿論、新たな世界を見つけ記憶することもするが、その仕事は未だに部下達が記録をまとめている段階なので彼女の元には届かない。
そして、この世界は前者に分類された。が、だからと言って籠目がこの世界についての知識を持っている訳ではない。前観測者がこの世界について記録したのは、五百年は前の事であったからだ。現在とは全く異なるそれは使い物になるわけがなかった。
その為、籠目は珈琲味の紅茶を嗅いだ際「調べていない」と思ったのである。
ではどの様に籠目がこの世界の通貨を手に入れたかというと、それは実に容易いことだ。魔術が存在する世界ならば『魔石』を売れば済むし、ない世界ならば魔石を宝石と言って売ればいいのである。魔石は名前の通り、魔力で出来た石である。何時、誰に売るのかと言う問題も『魅了』を使ってしまえば済む話だ。魅了とは、相手に魔力を流し込み支配する術である。好意を持たせる事で対象を従わせるので実に便利な術と言えた。
店主やすれ違う人々がクラッドの美貌に目を奪われる。けれども籠目もクラッドも気にしていない。
買った物はクラッドが持っている鞄に仕舞った。この鞄の中は真っ暗な異空間になっていて、幾らでも入る上に時間を停止しているので腐ることもない。籠目が数年前に創造した物だ。鞄本体はクラッドの力作だが。
籠目は買い物をするついでに歩いている人達や店主の身体的特徴、服装を確認した。
髪や目が黒い、黄色人種が多い。時折茶髪や赤毛、碧眼や茶目がいるが白人はいなかった。顔の彫は深く、籠目よりクラッドに近い作りだ。
服装は女性が貫頭衣の腰辺りを紐で絞ったワンピースもどき。男性はそれにズボンを足した物が多い。
昨夜見た女性は夜着だったが、これよりは凝った物を着ていたと籠目は記憶している。庶民との格差が大きいのかもしれないと彼女は思った。
籠目はローブのフードで顔を隠しながら、自分の従者の優秀さを改めて実感した。彼女の紅い目や白い肌、顔立ちはこの国ではどう考えても目立つ。ローブがなければ今頃クラッド以上に目立っていただろう。
また、クラッド自身が顔を晒していることも、人の意識を僅かでも籠目に向けさせない役割を果たしていた。彼は眉目秀麗で――コンクエストヴェールンスの住人は別として――普通の人達ならば思わず振り返ってしまう容姿だ。寒くもないのに全身をローブで覆った一見怪しい者がいても、気にされない程の威力はある。
籠目が寝ている間に作ったのであろう。歩いている男性達と同じような格好をして、金髪金目を両方とも黒く変えていた。肌は白いままだが、顔に目が行くのでそれほど目立っていない。浮いてはいたが、悪い意味で浮いてはいなかった。
朝見た時に何故変装をしているのだろうかと思ったものの、何も言わずにいたがやはり意味があった様だ。
籠目がクラッドの用意周到さに小さく笑い声を上げると、この喧騒の中でもそれを聞きつけた彼がそっと彼女の左側に来た。身長百七十センチの彼女と百八十七センチの彼では、彼女がフードを被っているとお互いの顔は見えない。彼女が少し顔を上に上げると、彼が覗き込むように顔を下げた。金髪金目の時の華やかさは無いが、そこには黒髪黒目の凛然とした青年がいる。彼女がじっと見つめると、彼は僅かに目元を赤くしながら「どうかなさいましたか?」と小声で聞いた。彼女は微笑を浮かべながら「黒も似合うね」と言い、彼の髪をさらりと撫でる。彼は赤面して口を押さえた。
仕事上、籠目に触れることは何とも思わないクラッドだが、意味もなく彼女から触れられる事にはあまり耐性が無いのである。
籠目は決して鈍い訳ではない。寧ろかなり聡い方と言える。
しかし、籠目は自分が誰かの恋愛対象になる可能性など皆無であると考えていた。
その要因の一つとして、周囲に美男美女が多すぎる事が上げられる。
籠目は性格の良い美人と性格の良い平凡が居たら、美人を取るのは当然の事と考えていた。生き物はどんなものでも美しいものに惹かれる。美しいものの方が肉体的にも精神的にも健康に見えるからだ。これは長い進化の過程で証明されていることである。
観測者である籠目はそのことを誰よりも理解していた。
よって、身体的にも精神的にも平凡な自分が、誰かに恋愛的意味で好意を持たれることはないと考えているのだ。特にコンクエストヴェールンスの者には。
だから籠目は自分からクラッドに触れるたびに彼が赤面しても照れているだけだと考え、そちらの方面に考えが向かうことは無かった。
また、クラッドが極度の潔癖症で、なぜか触れても嫌悪感を覚えない籠目としか接触しない事もその考えに拍車を掛けた。あまり人と触れる機会がないから照れやすいのだ、と。
赤くなったクラッドの顔を可愛いなと思い小さく笑った後、籠目は次の店に進んだ。クラッドも何か言いたそうな顔をしながらもそれに続く。
大通りをひたすら進み、朝市を抜けて人通りが少なくなった所で籠目は足を止めた。籠目の優秀な鼻が多種多様な匂いに混じったある匂いを捉えたのだ。もしかしたら籠目が一番嗅ぎ慣れたものかもしれない。
それは、紙の匂いである。匂いに誘われるように籠目の足は大通りから裏通りに向かう。その裏通りは初めに移転した通りとは違い、職人街と言った風情だ。大通りの様な華やかさは無いが、静かな活気を感じる。家具屋、人形店、食器店、新聞社。小さいながらも品ぞろえの良い店を横目で覗きながら、籠目は目的の匂いを辿って行った。
そして、文具店と印刷所の間にこぢんまりとした古書店があった。古書独特の古い紙の匂いがする。籠目は、明りがついていない店に躊躇なく入った。
古書店はとても古い建物のようだ。元は白かったのだろう石壁は黄ばんでいるし、床の木は長年踏まれた為に滑らかで濃い色のものに変化している。しかし、店主の世話は行きとどいているらしく、塵ひとつ落ちてはいない。店は外からは二階建てになっているように見えたが、中に入ると吹き抜けになっている事が解った。一階の床から二階の天井まで繋がった巨大な本棚が、人一人が通れるだけの隙間を残して整列している。
籠目は手近にあった一冊の本を棚から取り出した。
店内は明りが付いていない為に薄暗い。裏通りという立地と背の高い本棚の為に太陽の光が届かないのだろう。気温が低く、日の当らない裏通りは古書の保存にはうってつけだ。
しかし、メルディスは極度の鳥目なので薄暗いだけでも文字などは読めなくなってしまう。クラッドは籠目が本に手を掛けると同時に拳程の小さな光の球体を出現させた。
『光の領域』と言う名のこの術は、本来爆発させる事で光と共に敵を消滅させる上級魔術だ。だがクラッドは攻撃よりも明りとして使う事のほうが多かった。唯の光る球体を出せれば一番良いのだが如何せん、料理から家具の製作まで出来る彼は初級魔術だけは駄目なのであった。
上級魔術ならば難なくこなすのだが、魔力制御が苦手な為に初級魔術だけは使えないのである。正確には魔力の質が良すぎる所為で適量の魔力を取り出しても、術の質が上がってしまい初級魔術が“初級”の枠に収まってくれないのだ。
勿論クラッドも当初は魔力制御の練習をしていた。
クラッドはシュバリエという種族なのだが、この種族は魔力を殆ど持っていない。その為魔術を使うとなると契約者から貰っている魔力を使用することになる。つまり、自分自身の為と言うよりも籠目の魔力を無駄遣いしない為に努力をしていたのだ。
だが籠目に「クラッドに毎日供給し続けても減らないぐらい魔力があるのだから問題ないよ」と言われたことから、その努力をやめたのである。その代りに上級魔術に初級魔術の効果を付加させた術を開発し、問題を解決させたのだ。
事実、籠目の魔力は質も量も申し分ない。寧ろ需要を供給が上回っているので無駄に使うぐらいが丁度良いのだ。余った魔力は魔石製造機であるイヤリングによって魔石に変換し保存しているが、それも倉庫で埃を被っているほどある。
蛍光灯の様に明るい光の下に浮かんだ本の題名には『ルビダント王国の食文化』とあった。
籠目は特に何を思うこともなく無心にページを捲る。読むことに慣れている彼女は、厚さ五センチはある本も三十秒も掛からずに読み終ってしまう。傍から見ると、本を流し見ているだけの様だが彼女にはそれで十分なのだ。
しかし、これで本の中身を理解しているわけではない。籠目はこのようにして本の中身を暗記し、眠りながらその中身を消化しているのである。
その本をしまうと籠目は次の本に手を伸ばした。本を目の前にしている時、彼女の周りは空虚で形作られている様に静かで――無防備だ。
籠目が暫く無心で本を読んでいると、そう広くもない店の奥にある扉が音を立てた。
その音に逸早くクラッドが反応する。今は黒く染まった切れ長の目を走らせただけだが、彼にとってはそれだけで十分な警戒態勢だ。
対して、籠目は全くの無関心を示した。本を読んではしまい、出しては読み、と言う作業を止める気配がない。おそらく、音が鳴ったことに気づいていないのだろう。
クラッドは一度籠目を見た後、光の領域をその場に固定させ、一瞬で扉の脇まで移動した。ノッカーなどは無かったので古い木製の扉を直接ノックする。
すると扉の向こう側から何かが落ちる音がした。どうやら積んであった本が雪崩を起したらしく「ああ!」や「本が!」と言う二つの声が聞こえる。
暫くすると、木が軋む時に出る独特の音を立てながら扉は開かれた。