第一話 人が通ったことのない道を選ぶ。その方が面白いから
もう少しで正午という時間帯。観測者の領域にある食堂は今日も利用者で溢れかえっていた。その騒々しさは一日の内で最もと言っても過言ではない程だ。老若男女、城勤めでない者までも此処でしか食べられない異世界の料理を食べるために詰めかける。これは民のいない観測者の数少ない確実な財源の一つと言えた。
食堂から三つ上の階。そこにこの領域の主である観測者の執務室はある。部屋には観測者、籠目とその従者、クラッド=ルシルフルがいた。
籠目はメルディスと言う種族の十七歳の少女である。本名はブラッド=イブラゼル=ファントムハイヴと言う。しかし双子の弟に付けられたこの渾名が気に入っており、仲間内にはこちらを使うように頼んでいた。彼女の顔はこの世界ではかなり地味な方に分類される。セミロングの癖がある黒い髪と透けるほど白い肌、鮮やかな猩々緋の瞳。普通ならこれだけで十分目を引く容姿と言えるだろう。けれども、これらの色彩が魔族の中で最も眉目秀麗である魔王と同じだった為に余計に地味さを際立たせるだけだった。
とは言うものの、コンクエストヴェールンスでは容姿の評価など大した意味は持たない。この世界で最も高い地位にある三人の王――聖王、竜王、魔王と肩を並べる観測者ならば尚更だ。例え三人の王が一人残らず類稀なる容姿の持ち主だとしてもそれは変わらない。その地位に見合うだけの能力が有れば文句を言うような愚か者が居ようはずはなかった。
籠目の固有能力は極めてシンプルなものである。『五感で感知したものを全て記憶し、記憶したことは絶対忘れない』これが彼女の能力の全てであり、彼女を観測者と至らしめたものだ。一見面白みがない様に思えるこの能力は、実は無限とも言える可能性を秘めている。シンプルであるが故の多様性がこの能力にはあるのだった。
そんな籠目に対して、従者であるクラッドはあらゆる意味で普通と言う評価を受ける人物だ。シュバリエと言う種族の特徴である金色の髪を腰の半ばまで伸ばし一本に纏めている。透明感のある琥珀色の瞳も格好良いと言うよりは美人と言える容姿は老若男女問わず振り返ってしまうような美しさもこの種族の特徴の一つだ。だが残念なことに、コンクエストヴェールンスではその限りではない。この程度の容姿はザラであり平凡と言う評価を受けてしまうのである。地味と評される籠目の容姿の方が目立ってしまうほどだ。また、あらゆる意味で普通と言った様に彼には固有能力などと言ったものは一切ない。並大抵のことは全て完璧に熟すが、これもまたコンクエストヴェールンスでは普通の事だ。何とか彼特有のものを上げるならがば、それは籠目と最上級主従契約を結んでいるということぐらいだろう。
執務室の中には籠目が本のページを捲るパラパラというだけが泳いでいる。彼女が両手を広げても両端に指が届かない程大きな机には一メートル以上ある本の塔が左右に各五、六棟建っていた。これらの本は宰相のルルーシュ=オチック=オブライエンが用意したもので、この読書こそ観測者である籠目の本業である。
クラッドはそんな籠目を静かに見守っていた。彼の琥珀色の瞳は穏やかな幸福感で満たされている。無防備と紙一重である深い集中を自らの前でしてくれることは、無意識の信頼の現れのようで彼を十二分に喜ばせた。
太陽が傾き、城の西側にある観測者領に強い日の光が当たり始めた頃。籠目は机に積まれていた本を全て読み終わった。昼少し前から仕事を始めたので今日の業務は未だ四時間程しかしていない。けれども休憩なしに本を読み続けた籠目は僅かな眠気に欠伸を漏らした。涙のためか疲れのためか、目を擦りながら籠目は執務室のソファーに横になる。クラッドが素早く何処からか取り出したタオルケットを彼女にかけた。
食堂の様に収入確保のための事業を除けば、籠目の仕事は読書に尽きる。そして、読書の為に必要な本を用意するのは宰相であるルルーシュの仕事だ。つまり彼が来るまでの間、彼女は休憩を取ることが出来るのであった。
普通、仕事を終えればその報告をするべきなのだが、優秀な宰相であるルルーシュは休憩時間も加味して籠目に本を渡しているのでその必要はない。よって、彼女は彼が執務室に現れるまでの間休憩をすることが出来るのだった。
しかし、その休憩は長くは続かない。籠目が浅い眠りに入り始めた時、ある吉報と共に執務室の扉が開かれたのだ。
普段とは違い、手ぶらでルルーシュは執務室を訪れた。外で見せている冷徹な仮面を外し、面白そうな表情を浮かべて告げる。
「籠目様、魔王様の袖が引かれたそうですよ」と。
肩辺りまである癖のない藍色の髪を揺らし、紺色の目を細めながらルルーシュはソファーに横たわる籠目に近づく。
そんなルルーシュに籠目は瞼を閉ざしたままで、全く興味はなさそうだ。けれども返答を求めている様な空気を感じ、一応返事をした。
「……そう。珍しいね。ダークが異世界に行くなんて」
ダークは魔王のファーストネームである。フルネームは、ダーク=リデル=アルセンフォードといった。
クラッドも籠目同様、話には興味がない様子である。しかし彼とダークの仲が悪い事は城では周知の事実なので、内心喜んでいるのだろうとルルーシュは思った。
そんな二人をルルーシュは馬鹿にするように鼻で笑う。
「ただ魔王様が異世界に行っただけで、私が話題に上げるわけがないでしょう」
少々鼻につく物言いだが、長い付き合いである二人には慣れたものだ。
「何、ダークが怒るような条件で召喚されたの?」
籠目は薄らと目を開け、面倒くさそうな声で聞いた。
もしそうなら一大事、とまではいかないが少々困るからだ。世界が一つ無くなることは、文化一つ消えるのと同義である。調査済みで無いのなら急いで部下を派遣しなければならない。
「分かりません」
籠目の問いにルルーシュはそう返した。そして、「何しろ前例がありませんからね」と、実に面白そうに言う。
その言葉に籠目はしっかりと目を見開き「前例がない? どういうこと」と聞く。ゆっくりとだが上半身も起こし、話を聞く気満々だ。
世界と言うものは膨大な数があり、文化も同じ数だけある。そこに暮らす種族も多種多様で、平行世界を覗けば一つとして同じものはない。けれども、それは細部にまで目を向けた場合の話だ。大雑把に世界を見れば、幾つかのパターンに分類することが出来てしまう程度には世界は似ている。
それが異世界トリップと言う分類になると更に顕著だ。勇者、魔王、結婚、契約、身代り、間違ってなど、召喚理由は大抵決まっているのだ。
その為、ルルーシュの「前例がない」という言葉は籠目の興味を引くには十分すぎた。
だが、これを告げたのがルルーシュ以外の者だったのならば、籠目は目を向けることもしなかっただろう。他人が聞けば珍しい話も観測者からすれば、どこかで聞いた話で済まされてしまうことが殆どなのだから当然だ。誰だって異世界の事柄までは知らない。それはこの世界の住人――ただし一部は除く――でも同じことだ。
だが、観測者の宰相であるルルーシュだけは違う。なぜなら、籠目が読む本は先に彼の目を通っているからだ。純粋に知識の蓄積量――正確度は別として――を比べれば彼は僅かだが籠目より上と言えた。
籠目が興味を持ったことに気付いたのだろう。ルルーシュは得意げに告げる。
「勇者として呼ばれたそうですよ」
その言葉に部屋は五秒ほど沈黙に支配された。
籠目はソファーを挟んで左後ろにいるクラッドを首だけで振り返る。彼は視線だけで籠目が何を言いたいのか分かったようで、首を縦に振って答えた。
「魔王ではなく?」
籠目は答えを予想しながら聞いた。そして予想通りの答えをルルーシュは返す。
「籠目様。魔族の者が魔王として呼ばれるのはよくあることでしょう」
呆れた様なルルーシュの言葉を聞き、やっぱり聞き間違えではないのかと籠目は溜息を吐いた。
籠目がこの話を聞いた時一番に思ったことは馬鹿じゃないの? である。これは彼女だけでなく、クラッドも思ったことだ。いや、コンクエストヴェールンスの住人ならば誰でも思うことだろう。この言葉は召喚という簡単な術を失敗した術者に向けられている。この世界から見れば、召喚や異世界トリップは『移転』――行った場所や会った人物を目標に空間を移動する術――と同じように使われる初歩的な魔術なのだ。息をするのと同じぐらい簡単な事という認識である。
だが、籠目が術者を馬鹿にしたのは一瞬で、すぐに感謝の念を浮かべた。こんな失敗は自ら望んでも簡単に出来ることではない。稀なる失敗は稀なる成功と同等の価値があるな、と彼女は思った。
籠目はタオルケットを退かしながら立ち上がり、ルルーシュを見る。貴重な例を前にして、籠目の探究心は僅かにだが興奮した。無意識に魔力が流れ出す。メルディスの特徴の為に、魔力からは金木犀の香りがした。
籠目は十七歳という若さにしては、落ち着きすぎるほど落ち着いている。七歳の頃から観測者と言う地位に就いていたので当然と言えば当然だろう。そしてこの十年という年数は彼女がこの世界に籠っていた年数に直結した。観測者だから、この国から出ではいけないという訳ではない。彼女の前任であり、初代観測者が古参の部下達と共にいなくなってしまった事が大きな要因である。
観測者は三人の王と同等の権力を持っているにも関わらず王ではない。その理由は管理する者がいないという単純明快なものだ。これはつまり、観測者の元で働く者がいないのと同意であった。
城で働くものは大抵、王が管理している者達からなる。それは派閥があるなどの理由ではなく、種族によって考え方が根本から異なるためだ。一人二人ならば友人になるなりして理解を深めていけば良いが、千人以上の者が集まる城でそれは難しい。勿論、時間を掛ければ可能だが、意識の根本を理解して信頼できるようになるまでには時間がかかり過ぎる。それならば下手に異種族を集めて働かせるより、近しい種族同士で働かせた方がずっと楽なのだ。
だが観測者はそうはいかない。この世界の住人達は全て、三人の王の誰かの管理下に居る。近しい種族の者達を大勢雇い入れようとすれば、三人の王の誰かの管理対象が大幅に削られてしまう。王達のバランスを保つためにも、それぞれの種族から少しずつ人材を集めるしかないのだった。
三人の王に頼み、人材を派遣してもらう方法も一応ある。けれども、王にならぶ権力者の深層部に入る者達がそれでは色々な意味で不味い。三人の王の管理下から外れ、観測者の管轄下に収まって貰わなければならないのだ。
更に、もう一つ大きな問題が観測者にはある。それは収入だ。三人の王は一応税金と言う収入源を持っている。他にも喧嘩――本気の喧嘩は戦争並なので指定地区外では禁止――の罰金などもある。だが観測者にはそれが一切ない。つまり、人材を確保しようにも給料がないのだ。
情報売買という最も簡単で最も儲かる手はあったが、情報の使用結果にまで責任を持つと考える籠目には時間がかかり過ぎる悪手だった。
しかも観測者の仕事は決して三人の王よりも楽なものではない。インドアな仕事だと思われがちだが、根本はかなりアウトドアなのだ。異世界を回り、その世界の文化をひとつ残らず本に纏め、記憶する。一度完璧に調べた世界も定期的に訪れて更新しなければならない。急ぎで行わなければならない案件こそ滅多にないが、仕事の量とそれに必要な時間を比べれば、三人の王の合計を軽く上回るだろう。観測者は三人の王の誰よりも人材を必要としながらも、最もそれが難しいのである。
三人の王に借金をして高給を餌に人材を確保すると言う手も考えたが、これはすぐに却下した。この世界に暮らす者達の望みは平穏で平凡な生活を送ることであって、金持ちになることではない。そんな願望を持つ者は異世界に出て行ってしまっている。それ以前に、この手では管理下の変更は難しいので却下なのだが。
悩んだ結果、籠目は若者に目を付けた。若者は誰しも、平穏よりも波乱を求めるものだ。彼女は知識欲や研究心に熱い若者を集め、自身の知識を披露し、更なる知識の向上と躍進に尽力しようと勧誘したのである。
この作戦は見事に成功した。当然ながら、半年、一年と時間が経つ内に現実を知り、様々な理由で九割近くが止めて行ってしまった。だが籠目は十二分に満足している。三人の王に比べれば、いないと言うにも等しい人数だが観測者の仕事の辛さを考えればこれは仕方がないことなのだ。
二代目観測者の部下の総数はこの十年で幾らか増減したものの、現在は百八人だ。内一人は従者、内二人は観測者の側室である。
しかし、こんな少人数でも全員コンクエストヴェールンスの住人。優秀な人材しか居なかった為、たった十年で観測者の仕事は問題無く回るようになったのである。
最近始めた、資金源確保計画第一弾の食堂も成功を収めており、今の所大きな心配はない。
今らなら自分がいなくとも何とかなる、その考えが籠目に子供らしい興奮を与えていた。
また、万が一ダークが暴れた場合、籠目と王達以外には止める以前に生き残ることも出来ないという事実もあった。
けれども何より籠目に期待を与えているのは、この事をルルーシュが自分に話したということだ。
ルルーシュは籠目が観測者の組織を立て直す際に、一番に目を付けた人材であり、彼女自身が渇望した人材でもある。当時未成年のため、法律により魔王城で暮らしていた彼を彼女は必死に口説き落としたのだ。
その為、二人は仕事以外でも親しい間柄なのである。親友と言っても過言ではないだろう。だからこそ、ルルーシュの性格を籠目は十分に理解していたし、彼が何と言うかも予想がついていた。
「魔王様が行かれたのはC―2890の世界です。今の所、籠目様に記憶して頂かなければならない事はありません。ですが、報告も兼ねて三日に一度はご連絡ください」
ルルーシュは最後に「今日の業務はこれで終わりです」と言い、机の上にある本の方に手を伸ばした。そのまま手を横に滑らせると、空間が歪み、一瞬の内に本は消える。最後に小さく頭を下げ、彼は部屋を後にした。
籠目はルルーシュの背に「ありがとう」と穏やかな笑みを浮かべて言った。
通路に出たルルーシュが、仕事ではなく休暇ですねと思い、小さく笑ったことに気付いた者は本人も含めて誰もいないだろう。
籠目は扉が閉まるまでルルーシュを見送った後、クラッドを見た。二人の付き合いはルルーシュとのそれより数年長い。以心伝心はお手のものだ。また、クラッドは籠目の従者である。例え文句があっても私的なことならば口に出さない。
籠目は何も言うことなく、クラッドを連れて『移転』した。
その結果、二人はダークが女性に押し倒されている最中のベッドルームに落ちたのだった。