第四話 無知による不幸を避けよ。無理なものもあるが
荒い作りの石畳を踏みしめながら、ランドルフは溜息を吐いた。心底疲れていることが解るそれは同情を引くには十分である。けれども残念なことに、同行者には彼を思いやる気など欠片もなかった。まぁ、例え慰められたとしても焼け石に水だろう。なぜならその同行者こそが彼を疲れさせている原因なのだから。
ランドルフは三日前に勇者―—ダークと共に城を後にしていた。ダークの望んだ通り、旅の仲間はランドルフだけである。王子と勇者の二人旅という事で注目を集めそうなものだが、実際はそんなことは全くなかった。理由は簡単だ。平民は魔王討伐の事実さえ知らないのである。
金髪を茶色く染めたランドルフは町の中にすっかり溶け込んでいた。瞳の色や肌の色は変える技術がないのでそのままだが、この三日間、問題になったことは一度としてない。これは彼にとって嬉しい誤算であったが、それ以上の疲れを彼に与えた。
大人が四人並んで歩けるほどの通りをランドルフとダークが歩く。すれ違う人は老若男女関係なく振り返り、女は熱っぽい溜息を吐いた。……時折男も。それが彼をますます辟易させる。救いは、それらの視線の元がダークという事だろうか。
ダークの妖艶な美貌の前に、ランドルフの容姿は完璧に引き立て役に成り下がっていた。
二人とも見るからに仕立ての良い服を粗布のマントを羽織ることで隠しているが、フードは被っていない。
遮られることのない視線でランドルフはダークを見た。太陽に晒された髪は光で薄ら紫色を内包していることが解る。漆黒ではなかったのだな、と思いながら彼は視線をダークの顔まで下げた。彫の深い顔は影が多くできて陰鬱に見えそうなものだが、実際は凛々しさを際立てているだけに終わっている。最高級の美術品に見惚れる様に凝視していると、美しく顔を彩る猩々緋の瞳だけが動き、彼を映した。
「ど、どうかしたか?」
急に目が合ったことに驚き、ランドルフは思わずどもる。ダークは無表情に彼を見た後、足を止めて左側にあった建物に入って行った。王子であるランドルフの目から見ても、それなりに綺麗で豪華な建物に見える。その建物の扉の上にある看板には、家とナイフとフォークの絵が描かれていた。識字率が低いこの世界では、看板は基本的に文字ではなく絵が描かれているのだ。この絵が示すのは宿屋である。ただし、この宿屋は貴族を相手にしている為に看板の絵の他に『エマティルカ』と言う文字も書かれていた。エマティルカ――『貴族の丘』と言う意味だ。
「あっ、ダーク殿待ってくれ!」
またか、と思いながらランドルフは慌ててダークを追った。
店の中は白い大理石と金刺繍の施された絨毯で彩られていた。エントランスの中央には円形の受付があり、居た身なりの良い店員と思われる二人の男が立っていた。二人は一般的な平民の格好であるダークを見て眉を顰めたが、視線が顔まで行くと目を大きく見開き、動きを止める。ダークはそんな二人に一瞥をくれることもなく、受付の左奥にあった階段を上り始めた。ランドルフもそれに続こうと足を進める。けれども、ダークが階上に行ったことで姿が見えなくなると受付の二人は意識を取り戻し、慌ててランドルフを止めた。
「お客様、お待ちください。この宿は貴人専用の物です。平民が泊まれるものではありません。お引き取りください」
二人はランドルフの前に立ち塞がる。
では何故ダーク殿は止めなかったのだ! と思いながらも、ランドルフは少々むっつりとした表情で最早言い馴れたと言っても過言ではない科白を吐いた。
「こちらにブラッド=イブラゼル=ファントムハイヴという女性が居るだろう。私達は彼女の連れだ。通せ」
ランドルフはそう言うと、マントを脱いで見せた。そこに現れたのは白いシャツに焦げ茶色のズボン、黒い革のブーツと言う地味な装いだ。けれども作りは丁寧で、材質も良い。だが何よりも目を引くのは、白金の部分鎧と所々にある貴金属だ。魔術のかけられたそれは簡単に手に入る物ではない。貴人専用の宿の店員だけあって、二人の対応は早かった。
「大変申し訳ありませんでした!」
二人は声をそろえて謝罪すると、腰を九十度に折り曲げ、頭を深く下げる。ランドルフは「気にしなくていい。それよりも部屋の場所を教えてくれ」と言った。
「ファントムハイヴ様は三階の南側の部屋をご利用なさっています」
店員の一人がランドルフの荷物―—平民仕様なのでパッと見は只の麻袋―—を持ち、彼を案内した。
部屋の前に着くと、ランドルフは店員から荷物を受け取り、迷わず部屋に入った。
籠目が宿泊している部屋は、トイレにお風呂、台所まで付いている広々としたものだ。リビングの他に寝室が三つ付いている。これは一応、彼女がランドルフに配慮した為だ。
リビングには食事の為の木製の机と椅子、三人掛けのソファーのセットがある。その一つに、籠目とダークは座っていた。
正確には、ダークがソファーに座りその膝の上に籠目を横抱きにしている、が正しい。
人前で男女がくっ付いていることは、この国では非常識なことだ。その為、ランドルフは当初ダークと籠目が共に居る光景に唖然とした。
けれども今となっては慣れたものだ。唖然どころか、どこか穏やかな気持ちで眺めているほどである。それには二人が全く性を感じさせないことも関係していた。大型肉食獣と懐かれた娘の図だな、とランドルフは内心思うようになっていた。彼は未だ、籠目の実力を正しく理解していないのだ。
ランドルフは二人を殆ど気にせず向かいのソファーに腰かけた。
クラッドが音も無くランドルフに紅茶を差し出す。それはコンクエストヴェールンスの物だ。
だが、彼は文句を言うこともなく口を付けた。母国の物とは全く違う味で、舌に馴染むとはとても言えない。けれども彼は毒を気にせず飲めるだけで、美味しいと思った。
ここ数年、ランドルフを含め王子達は王によって毒殺の危機にさらされ続けていた。不幸中の幸いは、毒がそこまで強いものではなかった事と暗殺にまでは及ばなかった事だろう。
しかし命の危険を感じないとしても、殺意を向けられれば決して心休まることは無い。
そんな背景があったことも有り、ほとんど無視に近い状況であっても自らに悪意が向いていないだけで、ランドルフは心穏やかだった。
勿論、魔王討伐と言う使命を負っている事は重々承知している。けれども手を出せない敵と向かって行ける敵ならば、後者の方がずっと精神的に楽なのだ。
自宅である城にいた頃よりリラックスしているランドルフを籠目は視界の隅で見ていた。何故隅なのかと言うと、ダークが彼女の左頬に手を当て、自らの首元に顔を寄せさせているからだ。反対の手はがっちりと彼女の腰を拘束している。
この三日の間に、籠目はダークが素肌で触れ合う事をとても好むことを知った。手をつないだり、キスをしたり、頬を触れ合わせたり。まるで恋人同士の様な行動だが、二人からすれば以前と変わりないものだ。ただ、接触している時間が長引いただけである。
二人がこの様な状態になった際、クラッドは従者らしく――時と場所を考えて問題がなければ――気配を消す。残念なことに、どんなに彼が努力しようとも二人が彼の存在を感じない事は不可能だが、使用人の礼儀としてそうしているのだ。
それに比べ、ランドルフは気を使う気もなければ、気配を消せるだけの技量もない。彼の立場は一応勇者よりも上なのだから当然だ。
けれども籠目もダークも気にしない。籠目は観測者と言う立場から人がそばに居ることになれているし、ダークはランドルフを者ではなく物だと思っているのだ。
少々特殊ともいえる暖かな空間で、籠目は半分眠りに足を突っ込みながら思考を二日前に巡らせた。
二日前、籠目は昼頃にルルーシュの元を訪ねた。
一度規定の場所に飛んだ後、籠目は再び『移転』でルルーシュの元に飛ぶ。当然、クラッドは背後に控えていた。
ルルーシュは共同作業場の一角で部下の一人と会話をしている最中だった。
共同作業室は直径二百メートルもの円柱の部屋だ。分け目のない大理石で出来た壁には、等間隔に木製の扉が設置されている。その扉から、蟻の巣の様に空間が広がっているのだ。魔術によって作られたこの空間は、城の容量を遥かに超える部屋を内包している。各世界の文化を保存している部屋に、部下一人一人の作業場が混在しているのだ。
籠目はルルーシュの背後に移転すると、遠慮なしに背中にタックルをした。女性と見紛うばかりに細身な彼だが、彼女のタックルぐらいではよろめくことは無い。抱きつく彼女の腕を振り払うことはせず、首だけで振り返った。
「おや、直接連絡に来たのですか。わざわざ来ていただかなくとも構いませんでしたのに」
ルルーシュの形の良い唇からは嫌味の様な言葉が飛び出した。部下が一緒に居るために眉間には深い皺が寄っている。傍から見れば嫌で仕方が無いと言う風情だ。けれども籠目は彼が照れているだけだと分かった。顔色は変わっていないが耳は真っ赤になっているし、腰に抱きついている腕の上を掌が右往左往している。
だが、その全てを怒りの為だと判断したらしい部下――道野木鈴子は苦笑を浮かべて「どうどう」と言った。
「宰相さん、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。陛下のお茶目な悪戯です。可愛いじゃないですか」
鈴子はそう言った後、籠目にしっかりとした礼をした。
「陛下、お帰りなさい。魔王さんと旅行中なんですよね。何か面白い事ありましたか? セルロワさんが何か持って帰って来たみたいですけど、まだ見せて貰ってないんです」
そう言いながらルルーシュの横に来て籠目を見上げる。身長が百五十センチほどしかない鈴子は、猫目の美少女だ。焦げ茶色のくせ毛がショートヘアーの為に所々跳ねている。籠目はかわいいなぁ、と思いながらルルーシュから腕を離し、彼女の頭を撫でた。
「特別面白い事は今の所ないかな。でもここ以外の街並みを見られるのは興味深いよ。セルロワの持って帰った本は中々珍しい考え方が載っているから、読んでも損はないかな」
鈴子は十二歳の子供らしい、楽しそうな表情を浮かべた。その表情に穏やかな空気が流れ出す。けれどもルルーシュはそんなことは気にせず、二人から一歩離れた後口を開いた。
「それで、何かありましたか?」
そう言うルルーシュの表情は不機嫌なままだが、瞳が一瞬不安に揺れたのが籠目とクラッドには分かった。
三日に一度報告をしろとルルーシュが言ったのは、生存確認の為の建前だ。だから連絡は念話で受け取れば良いと考えていた。勿論、籠目が死ぬ可能性など万に一つもあり得ない。種族的な事もそうだが、本人の実力だけでも国一つ滅ぼせるのだ。その上、護衛も十分に出来る従者とコンクエストヴェールンスで一番の破壊力を持つ魔王が一緒にいる。死ぬどころか掠り傷一つだって付けることは難しいだろう。
それでも幼い頃から籠目を見ているルルーシュは少々過保護になっており、心配からそう言ったのだった。事実、あり得ないと分かっているにも関わらず彼は彼女の全身を一瞥し、怪我などがないか確認している。
また、旅行を楽しんでいるはずの籠目が念話ではなく、態々直接自分に会いに来たことにもルルーシュは不安を覚えた。
そんなルルーシュを見て籠目は苦笑した後、悪戯を考え付いた子供の様な表情を浮かべる。
その顔に、ルルーシュは内心安堵の溜息を、鈴子は好奇心に目を輝かせた。
「皆、陛下が何か思いついたみたいです!!」
鈴子の子供らしい高い声が共同作業室に響く。その言葉は、ここにいる部下全員に宛てたものだ。
籠目達は気にしていなかったが、ここは共同作業室と言うだけあって部下の半数ほどが居る。彼女が礼儀的なことを好まない為に一々挨拶をすることはないが、初めから注目は集まっていた。その注目が鈴子の声によって、より集中的に彼女に集まる。
けれども籠目は委縮することもなく、部屋全体を一度見た。そして、ルルーシュを全員の代表にするように、彼に向かって宣言をした。
「資金源確保計画第二弾として、学校を作る」
特別荒げた訳でもないのに、その声は共同作業室に居る全員の耳に届いた。
なんか、予想とは違ってランドルフが和んでます(´▽`*)