第三話 Ⅵ
「ではランドルフは獣人と繋がりがあり、それは好意的なものの可能性があると籠目様はお考えなのですか?」
クラッドは籠目の笑みに目元を僅かに赤らめながら言う。籠目は既に関心を本に向けていたのでその事に気付くことはなかった。気付いたとしても何か思うことはなかっただろうが。
「さあ、どうだろう。今はセルロワの報告を待つしかないね」
本を読みながら籠目は答えた。クラッドがランドルフを呼び捨てにしたことへの注意はない。彼は元々、本人が目の前にいない限り籠目と籠目が尊重する人物以外は呼び捨てで呼ぶのだ。クラッドは籠目の答えに小さく「そうですね」と返した後、手元の明かりに意識を集中させた。
部屋のどこかにある時計の秒針が小鳥の様な鳴き声を立てている。それが三十回を切る前に籠目は本を読み終わった。本の内容は獣人と人間の格差についてである。籠目からすればよくある本だ。けれども籠目は「中々面白いね」と言う感想を漏らした。
本を閉じて視線を上げると、籠目の瞳には興味深そうな表情のクラッドが映る。彼も曲がりなりにも観測者領の住人なのだ。
「本の内容は良くある獣人と人間の格差問題だよ」
籠目が本をクラッドに手渡しながら言う。クラッドは本を受け取り、籠目に比べれば遅いが、それでも鳴き声六十回を切る前に本を読み終わった。
「確かに面白いですね」
クラッドは本の表紙を眺めながら言う。更に「特に論理的に獣人が人間より優れていることを証明した上で、人間に従うべきだという考え方が独特です」と、独り言のように付け足した。
籠目はそれに笑みを浮かべた後、窓際に移動して外を見る。クラッドも本を元の位置に片づけ、籠目に続いた。窓の外には庭園が広がっている。籠目の目には白と黄色の色彩が、クラッドの目には白百合の様な花と黄色い木工薔薇の様な花が映った。柔らかく甘い香りが籠目の鼻腔を刺激する。
「どこの世界でも変わらないものは意外と多くあるんだね」
籠目は視線を庭園に合わせたまま、先ほどのクラッドの独り言よりも小さな声で言った。経験上、籠目が返答を求めていないと判断したクラッドは何も言わない。ただ、彼女の後姿から僅かに除く頬を見つめた。
***
時間は戻り、籠目がダークに拗ねているかを聞いている時、セルロワは城下町にある家の屋根上に居た。
「おや、この国では金髪は目立ちすぎるのだね」
セルロワは屋根上から街を見下ろしながら言う。彼の姿は『闇の毛皮』という魔術によって隠されており、例え見上げられても誰にも気づかれることはない。彼は古書店に入る前に必要最低限の情報収取をし、すでにそれを終えていた。
二、三十分で収取した情報は大まかに分けて四つ。一つ目は観測者が保持しているこの世界の情報が古すぎるということ。二つ目は金髪や銀髪は王族のみということ。三つ目は獣人が奴隷ではないが格下とされていること。四つ目は古書店の店主は獣人たちの間では学者と視られていることである。
「学者、か。確かに私向きの仕事だね、これは」
セルロワの常識では学者は変わり者が多い。学者の視点が一般の者とは多少違うことが原因だろうと、セルロワは考えている。
そしてセルロワは、他人の視点に同調することを得手としていた。もはや十八番と言える。
籠目も同じ様なことが出来るが、彼女の場合は懐柔でセルロワの場合は擬態という違いがある。
籠目は対象の信頼を得つつも、主導権は常に自らが握っている。対してセルロワは、対象に主導権を持たせた上で巧みに自らの望み通りに動かすのだった。
たが、一番の差異は行動予想の制度だろう。籠目の場合、対象の性格を客観的に把握した上で行動予想をする。対象が相当の変人でもない限り、正解率は八割を超えた。けれども、対象が相当の変人に当てはまってしまった場合、正解率は五割以下になってしまうのだ。
しかし、セルロワの場合は対象がどんな者でも九割という圧倒的な正解率を叩き出していた。
「しかも彼は猫なのか。獅子との相性は悪くはないね」
セルロワは自らの髪と目を栗色に変えると、再び古書店の前に舞い降りた。『闇の毛皮』は色を変えた時点で解除してある。
「そ、空から人が!?」
そして買い出しに出ていた古書店の住人に計画通り見つけて貰うことに成功したのだった。
「ああ、驚かせて済まないね。僕は猫科だからあれぐらい容易いんだよ」
驚きすぎて転んでしまった住人を助け起こしながらセルロワは言った。住人から汗と垢、脂の臭いは微笑で受け流す。
「あ、ありがとうございます—―ふえぇ!?」
セルロワに腕を引かれて立ち上がった住人は、顔を上げて思わず素っ頓狂な声を上げた。その原因はセルロワの美貌だ。視線を逸らすことが出来ず、食い入る様に見つめてしまう。
「どうかしたのかい?」
何に声を上げたのか解ってはいるが、セルロワは敢えて不思議そうな表情を浮かべて言った。
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうかい? それにしても凄い荷物の量だね。運ぶのを手伝うよ」
セルロワはそう言うと、答えも聞かずに二つある紙袋を腕に抱えた。一つには赤ワイン入りの瓶が二本と半円に切られた黄色いチーズ、おそらくベーコンの包まれている紙包み。もう一つにはトマトに似た野菜とキャベツ、バケットが三本入っていた。
「そんな、悪いです! こう見えても物を運ぶのは得意ですから大丈夫です!」
困っているのか照れているのか――勿論セルロワの美貌に、だ――住人は顔を真っ赤にして腕を横に振った。ブンブンという音が聞こえてきそうな程の大げさな動きに、セルロワは思わず笑みを浮かべる。その表情に住人は更に赤面し、動きを止めた。熱でもある様な赤さだ。
セルロワは、向こうに慣れてしまうと加減が難しいねと思いながら住人を置いて古書店に入った。嗅ぎ慣れた古書特有の香りに浅く息を吐く。そして観測者領と同じ様な静寂に、自らのテリトリーに居る様な安心感を覚えた。
「ああ、すみません!」
その静寂を割って住人が足音を鳴らしながらセルロワの隣に来る。「持ちますから」と言って、住人はビクつきながらも強引に荷物を引き取った。
抵抗せずに荷物を返すと、住人は「良ければお茶でも」とセルロワを奥に促す。視線がセルロワの顔を時折撫でた。
「そうかい? なら御馳走になろうかな」
嬉しそうに案内をする住人の後をセルロワはゆっくりと付いて行った。
「あっ! そういえば名前もまだでしたね。僕の名前はキルトと言います」
首だけで振り返り、住人改めキルトは言う。
「僕はセルロワだよ。よろしく、キルト君」
セルロワもそれに笑顔で返す。室内が薄暗い為か、キルトは赤面しなかった。
「先生、ただ今戻りました」
古書店の奥にある扉の前にはすぐに着いた。扉から古い木の臭いがする。キルトはノックもせずに扉を開けた。セルロワも彼に続いて扉を潜る。
「ん、おかえりぃ」
本で埋もれた部屋の中に、埋没する様に二人目の住人がいた。その住人は扉に背を向けたまま間延びした返事をする。
そしてゆっくりとこちらを振り向いた。そうは言っても部屋に足の踏み場がないほど本の山が築かれており、セルロワからは相手の顔どころか腕の一本でさえ見ることは出来ない。唯一見えるのは青灰色の髪の毛だけだ。
「おやぁ? お客さんかなぁ?」
住人はどうやらセルロワの存在に気付いたようで、本の山を崩さないようにゆっくりと立ち上がった。「うお?」や「おっとっと」などの声を上げながらもゆっくりと方向転換も行う。ここではじめてセルロワは相手の顔を見ることが出来た。
セレスト。住人の瞳の色を見てセルロワはそう思った。意味は『神のいる至高の天空』。それほどまでに住人の瞳の色は青く透き通り、美しかったのだ。
顔ははっきり言って普通だとセルロワは思った。鼻は高くもなく低くもない。唇も厚いわけでも薄いわけでもない。敢えて特徴を上げるならば、眉が下がり気味と言えるぐらいだ。けれども、その容姿が住人の瞳の色を更に際立たせ、不完全な美しさを作り出しているとセルロワは思った。
セルロワは思わず、その瞳を凝視する。不躾とも言えるだろう。だが住人は文句を言うことなどなかった。いや、言えなかった。彼もまたセルロワの類稀なる容姿に視線を奪われていたからだ。
「あの、お二人ともどうしましたか?」
正確には違うが、見つめ合ったまま動かなくなってしまった二人にキルトは不思議そうに声を掛けた。