第三話 Ⅴ
「籠目、俺は籠目のことが好きだ。愛してる」
ダークは敢えて声を出してそう言った。
念話を水文の様だと表現するのなら、肉声は熱波だ。
籠目はその熱い吐息の様な声に瞬きをした。普通の少女ならば失神しても良いほどの色気だが、籠目には大した効果をもたらさない。それは単に、この世界に居る魔族達のお蔭だ。上級ばかりがそろっているこの世界では、魔族達は美男美女が普通である。特に籠目の宰相であるルルーシュは淫魔族の上級だ。常に色気を振りまいている様な種族のそばに幼い頃から居続ければ、抗生が出来るのは当然だろう。
「……ありがとう。私も愛してるよ」
とは言え、誰彼関係なしに振りまかれる色気と自分だけに向けられるそれは別だ。失神どころか狼狽えることも籠目はしなかったが、それでも頬に朱を走らせ一瞬黙る程度にはその色気に中てられた。
ダークはそんな籠目に微笑を浮かべる。その微笑には先ほどの様な色気はない。感じられるのは親愛の情だけだ。
“知っている。それが恋愛感情とは違うのも、知っている”
私も知っていたよ。籠目はそう思いながらも口にはせず、ただダークの目を見つめ続きを待つ。
“だから、キスもセックスも求めない”
“そう”
籠目は内心構わないのに、と思った。尻軽だとは思わないが、ダークなら良いと思えるぐらい愛情がある。
だが誠意を示そうという相手にわざわざそれを言う気にはならなかった。
“でも、一つだけさせて欲しいことがある”
ダークはそう言うと、机の上に両手を乗せた。掌を上にし、籠目の手を招く。籠目は躊躇うことなく手を重ねた。ダークは親指で籠目の手の甲を数回撫でると、包み込むように手を握る。籠目の手は決して小さくはないが、ダークに比べれば遥かに華奢だ。柔らかく小さな手にダークは目を細めた後、籠目の目を見つめた。
“俺にお願いをして欲しい。クラッドにするみたいに遠慮なしに、何でも頼んで欲しいんだ”
その頼みに籠目は眉を下げた。クラッドは籠目の従者であり、命令を下す相手である。対等な話が出来る関係ではあるが、その根本にあるのは絶対的な主従関係だ。
考える必要もない。ダークをクラッドと同じように扱うのは籠目にとって不可能なことだ。
だがダークの頼みは出来るだけ聞きたい。真摯な気持ちだと分かるからこそ、その願いを肯定したいとも思う。けれども――
“無理か?”
“うん。クラッドとダークは立場が違いすぎるよ”
困った顔をしながらも籠目ははっきりと言った。無理なものは無理なのだから仕方が無い。
けれどもダークは悲しむことも怒ることもせず、籠目の手を握りながら何かを考える様に視線を動かした。
そして十秒もしない内に視線を戻すと、微笑を浮かべて提案した。
“なら言い方を変えよう。甘えて欲しい、と言うのは無理な願いか?”
その言葉に籠目は大きく目を見開いた。
“甘える?”
籠目は数回、“甘える”と脳内で反芻する。正直言うと、籠目には甘えるという行為がどのようなものか具体的には分からなかった。
しかしダークに“これも無理か?”と悲しそうな顔で聞かれては否定出来ず、“無理じゃないよ”と答えていた。一瞬無責任なことを言ったかな、と思ったがダークの安心と喜びが混ざった笑顔を見て、本当にすれば問題ないよねと後悔を捨てた。
「籠目様、紅茶のご用意が出来ました」
話が纏まったところでタイミングよくクラッドが戻ってくる。
「……何かございましたか?」
空気の変化に非常に敏いクラッドが目ざとく二人の変化に気付いた。紅茶を入れながら籠目に聞く。勿論、ダークを睨み付けることも忘れない。
「ちょっとお願いされただけだよ」
笑いながら答えた籠目は、ダークの手を話して紅茶を口にする。
クラッドは籠目の表情をじっと観察し、それが作り笑いではないことを確認するとそれ以上何かを言うことはなかった。
『籠目様に無茶なことを言ったりしていないでしょうね』
『俺がそんなことするわけないだろう。お前は黙って見てろ』
『貴方は無神経ですからね。気付かないうちに籠目様を困らせている可能性は十分にあります』
『籠目は無理なことは無理と言う。お前に心配される筋合いはない』
『それはどうでしょうね。籠目様は大変優しいですから多少の無茶は――』
何も言わないのは籠目に対してだけで、彼女に聞こえない竜特有の音波で言い合いをしていた。念話でも可能だが、二人にとって音波での会話は空気を吸うのと同じくらい自然な行為なのだ。二人は何かある度にこうして言い合いをしていた。
口元は動いていないので傍目には話していることなど分からない。表情も無表情と微笑なのでバレることは決して無かった。
勿論、籠目にも会話の内容は分からない。
けれどもダークの感情の変化から二人が何かを話していることは分かる。二人がこうなる度に籠目は実は仲がいいよね、と考えていたが当人たちが知る由もなかった。
「そういえば、手配は終わったの?」
放っておけば永遠と話し続けることを籠目は知っているので、気付いていない振りをしてクラッドに話しかけた。
「はい。言われた通りにいたしました」
「そう、ありがとう」
クラッドは即座に籠目に返答する。籠目はそれに微笑で返した。クラッドが嬉しそうに笑い、ダークが鼻で笑う。気付いたクラッドが満面の笑みを返すと、二人は無言の会話を再開した。
もう聞くことは無かったので籠目も止めることはせず、結局二人の音波の会話は数十分続いた。
コンコン、という軽快な音を扉が鳴らす。三人は黙り、籠目が目くばせするとクラッドが音も立てずに扉に近づいた。
「どちら様ですか?」
クラッドの声が静かな部屋に響く。
「ランドルフだ。勇者殿はいるか?」
籠目は椅子から立ち上がるとダークの頬にキスをした。
“調べたいことがあるから行くね”
“夜にはちゃんと戻って来いよ”
ダークの言葉に頷くことはぜず、籠目は笑みを返した。
扉の方を見るとクラッドが籠目を伺っている。籠目は一つ頷き、クラッドと一緒に移転した。ダークの視線は籠目からそれない。移転の一瞬前にクラッドが発した「お入りください」と言う言葉が部屋の空気を揺らした。
二人が移転したのはランドルフの私室前である。ダークが城中を歩き回ってくれたおかげで、籠目はランドルフの私室の場所を把握していた。移転は一度見たことのある場所ならば行くことが出来る。
籠目は躊躇いもなくノブを捻った。鍵がかかっていたが籠目が少し力を入れると問題なく開く。部屋の中は整理整頓されていたが、洗練されているとは言えなかった。
「ここにもあるね」
籠目が部屋を眺めながら言う。何がとは言わなかったがクラッドは分かった。
広い部屋の左奥にある扉の前まで籠目は迷いなく行く。そして再び扉を開けた。またもや鍵がかかっていたが、やはり籠目には関係がない。扉は静かに空いた。
部屋には幾つもの本棚があり、その全てが本で埋め尽くされている。その一つの前で籠目は立ち止った。
「あった」
籠目は僅かに口角を上げて言う。窓が一つ、それ以外の明かりが無い部屋でクラッドは光の領域を出した。籠目が取った本の表紙を明るく照らす。そこには『世界の副題』と書かれていた。作者はチャート=フラウニーとなっている。
「どう?」
籠目は本をクラッドに見せた。クラッドはすぐに頷く。
「間違いありません」
その答えに籠目は「また新しい問題」と言う。出版日が書かれている最後のページを開いた。
「この本はここ最近に出版されたものみたいね。しかも手書き。他の本は活版印刷だったのに」
籠目は本の背表紙で掌を数回叩いた。
「作者があの店の店主であると?」
クラッドが籠目の手の中の本に視線を流しながら言う。
その言葉に籠目は満足げな笑みを浮かべた。