第三話 Ⅳ
「同じ匂いだった」
サンドイッチを一齧りした後、籠目は言った。トマトと胡瓜、マヨネーズの香りが鼻に届く。
「それはあの古書店の?」
クラッドはワインボトルを手に持ったまま聞いた。
「うん、間違いないよ。クラッドは?」
どう思う、と暗に聞いてくる籠目にクラッドは申し訳なさそうな表情を浮かべる。籠目はその表情で全てを察した様で小さく苦笑した。臭いに関してだけは籠目にしか分からないことがよくあるのだ。
「どういたしましょう?」
クラッドは謝罪する代わりにそう言った。籠目はダークを一瞥した後、クラッドを手招きする。クラッドは籠目の側まで来ると腰を軽く折り顔を近づけた。籠目はクラッドの耳元に唇を寄せると囁くように指示を出す。それを聞いたクラッドは綺麗なお辞儀をした後、移転で姿を消した。
“気にする必要はない”
籠目の視線に当然気付いていたダークはそう言った。籠目はその言葉に数回瞬きをする。
“そうなの?”
籠目が心底不思議そうに聞くとダークは「ははっ」と笑った。籠目はその笑いが本物だと分かるとますます不思議そうな表情をする。
“あいつは従者だ”
ダークはサンドイッチを食べながら言った。籠目は意味が解らず首を傾げる。言葉の意味もそうだが、何より竜人の雄のボーダーラインが把握できなかった。
籠目の知識からすると、先ほどダークが籠目をクラッドに受け渡した事はあり得ない。
だが、ダークは許可した。
“従者なら共用してもいいってこと?”
「違う」
籠目が違うと分かっていつつもそう言うと、予想通りダークは否定した。表情は笑った時と変わっていないが感情は明らかに苛立っている。感情が反映されなかったとしても籠目は気付いただろう。目が笑っていなかったし、肉声で答えたことが何よりの証拠だ。誰だって怒ったり苛立ったりすれば感情を声に出す。それが強い感情ならば尚更だろう。
“なら何で?”
籠目も苛立ちながら聞く。自分の感情でないと分かっていてもこれはどうしようもない。
“あいつは従者であって男ではないと言うことだ”
その言葉に籠目は思わず空を仰いだ。目が痛いほどの青空が視界を埋め尽くす。苛立ちは消え、呆れが心に広がった。どういう基準なのよ、と言いたいのを籠目は我慢する。ダークは全て分かっている様で小さく笑った。
だが、何かを言うことはない。籠目も説明を求めなかった。
***
「セルロワ、仕事です」
クラッドはいつも通りの笑みを浮かべて言った。赤い絨毯と壁が見えない程埋め尽くされた本棚達が音を吸収する。けれどもクラッドの声は十分広い部屋を通った。
「それは陛下からの勅令かい?」
その部屋で本に埋没していた男が首だけで振り返る。男――セルロワ=バラッドは太陽の様に輝く豪奢な金髪を音立てて掻き毟った。エメラルドの瞳が金色のカールした睫毛に覆われながらも存在感を主張している。
だが何よりも目立つのはその顔だろう。たれ目気味の色っぽい顔は誰の目でも奪う。美しい顔を持つクラッドさえ、セルロワの前では印象が薄くなった。
「ええ、そうです。ですから早く用意をしてください」
クラッドはそれだけ言うと部屋を後にした。クラッドの背に「五分で行くよ」と言うセルロワの声がぶつかる。振り返ることもクラッドはしなかった。
部屋に一つだけある扉には当然ながらドアノブがついている。唯一普通と違うのは、そのノブに小指の先ほどの半透明な石が付いていることだ。クラッドはその石に触れながらノブを捻る。扉は音も立てずに開いた。
扉の向こう側はセルロワのいた部屋と全く変わらない構造だ。違いは本棚の中身が空だということだけだろう。クラッドは何をすることもなくセルロワを待った。
言葉通りぴったり五分後にセルロワは部屋に来た。
「……君は陛下がいないと本当に何もしてくれないんだね」
セルロワは部屋の隅にある机の上を見ながらそう言う。机の上には塵一つ無い。
「籠目様のご命令以外に私がお茶を入れる理由はありません」
視線と言葉で何が言いたいか分かったクラッドは微笑みながらそう言った。セルロワは苦笑を浮かべて「それもそうだね」と言う。
足音もなくセルロワはクラッドの隣まで移動した。クラッドはセルロワが隣に来たのを確認すると一言もなく移転する。瞬きをする間もなかったがセルロワは驚かない。あの部屋は移転専用のもので、それ以外で入ることはほぼ確実になかったからだ。
基本的に城ではどの領域でも移転の使用が禁止されている。理由は移転が僅かだが世界に影響を与える魔術だからだ。城はただでさえ複雑な魔術を併合して使用している。内容は様々だがどれもが重要なものだ。それらが移転の影響で機能に問題を来せば多少は困る。よって使用制限の意味も込めて移転の使用場所は一つの領域に付き三つまでと決められていた。
セルロワは目の前に現れた建物を見た後、指示を仰ぐようにクラッドに視線を向ける。
「ここの店主の信頼を得てください。早急にお願いします」
クラッドは横目でセルロワを見ながらそう言った。セルロワは首を傾げながら「ふむ」と言う。
「質問は?」
「陛下は何を知りたいんだい?」
笑顔を浮かべながら淡々と話すクラッドはまるで表情とセリフがあっていない。けれどもセルロワはそのことを全く気にせず悠然と聞いた。
「ここの店主と第四王子の繋がりです」
クラッドは簡潔に述べる。簡潔すぎて意味が解らない。
しかしセルロワにはこれで十分だった様で「なるほどね」と言うとそれ以上の質問をしなかった。
「では任せましたよ」
クラッドはそう言うと今度は一人で移転をした。
「おかえり」
クラッドが移転を完了すると、目の前には椅子に座ったまま後ろを振り返る籠目が居た。笑顔を浮かべてクラッドを見る。
「ただ今戻りました」
クラッドは先ほどまでセルロワに向けていたのと全く違う笑みを浮かべてそれに答えた。声もどこか嬉しそうだ。優雅だが早い足取りで籠目の横まで移動する。
「ご飯おいしかったよ。御馳走様」
クラッドが机の上に視線を向けたのを見て、籠目はそう言った。
「ありがとうございます」
クラッドは照れたような笑みを浮かべた後、頭を下げ食器を片づける。
「ただ今紅茶をご用意いたしますね」
そう言うと、クラッドは空になった二人分の食器を手に中に引っ込んで行った。
“俺にはどうして欲しい?”
クラッドを視線で見送る籠目に向かってダークが突然そう言った。口調は普段通りだが、ダークの声色も感情も僅かにだが拗ねている様だ。
“拗ねてるの?”
解りきったことを籠目は敢えて聞く。
“拗ねてない”
ダークは眉間に皺を寄せるとそう言って唇を尖らせた。籠目は驚いてその表情をまじまじと見る。
決してダークのその表情が珍しいわけではない。いや、珍しいと言えば珍しいが籠目は何度か見たことのある表情だ。籠目が驚いたのは明らかに拗ねているのにそれを否定したダークの言葉に対してである。
“そうなの?”
だが籠目はそれを否定することはせず優しく問い返した。その表情は全てを抱擁するかの様に甘い。籠目はダークが自分に対して甘いと思っているが、自分も大概だということに気付いていなかった。
ダークはその表情を数秒眺めた後、“拗ねたら悪いか”と言う。
“悪くなんてないよ。でもなんで拗ねたのか知りたいな”
その言葉に今度はダークが籠目の顔をまじまじと見た。
“……珍しいな。籠目が俺の感情に興味を持つなんて”
籠目は苦笑を浮かべつつ、視線で答えを促す。
ダークは一つ溜息をついた後、話し出した。