私の数千万円の資産で浮気相手を養っていたヒモ夫。結婚10周年の記念日に、すべての罪を暴いて刑務所へ送り込んでやった話
プロローグ
バレンタインの日、夫の田辺怜司は「会社で急な会議が入った。遅くなる」と言った。
けれど夜八時半、スマホに入れていたスマートドアベルのアプリから、異常検知の通知が届いた。
画面を開いた瞬間、東京・北区にある古い分譲マンションの玄関で、怜司がひとりの女を壁に押しつけてキスしているのが映った。女は両脚を彼の腰に絡め、ほとんどぶら下がるようにして抱きついていた。
「怜司、ここって奥さんのお母さんが遺した部屋でしょ。もし急に来たらどうするの?」
しばらくして、怜司はようやく女から顔を離した。その声には、隠す気もない侮りが滲んでいた。
「心配いらない。凛は今ごろ店で手いっぱいだ。それに、仮に見られたところで何だっていうんだ。あいつには実家もないし、子どももいない。俺以外に、誰があんな女を相手にする?」
私は画面を拡大した。
女の顔がはっきり見えた。
先週、うちの池袋店に入ったばかりの新人、三浦翠だった。
画面の中で、怜司は当然のような顔をして笑っていた。私はそれを見つめながら、静かに笑った。
この世に男が足りないわけじゃない。
足りないのは、信じるに値する人間だけだ。
田辺怜司との十年の結婚生活は、どうやらここで終わりらしい。
1.バレンタインのスマートドアベル
私はスマートドアベルの通知履歴を開いた。
すると、その部屋の防犯システムは、一週間前にも異常検知の通知を送っていた。その日、私は新宿店で一日中会議に追われ、スマホを見る余裕がなかった。
履歴を再生すると、怜司が毛玉だらけの安いパーカーを着た翠を連れて部屋に入っていく映像が残っていた。そこは母が亡くなる前に私へ遺してくれた部屋で、起業して一番苦しかった時期にも、最後の逃げ道として絶対に手放さなかった場所だった。
玄関灯の下で、怜司は翠を見つめていた。その目は、痛いほど優しかった。
「翠、まさか凛の店でまた会えるなんて思わなかった。昔は俺が悪かった。俺を東京の大学へ行かせるために、ずいぶん無理をさせたよな。今の俺には少しは力がある。これからは、ちゃんと埋め合わせをする」
翠は目を赤くして、彼の胸に寄りかかった。
「私、離婚したの。今は本当に行くところがなくて……。でも、また怜司に会えた。神様って、まだ私を見捨ててなかったんだね」
その言葉が終わるより早く、二人はリビングで絡み合った。
胃の奥がひっくり返りそうになった。
私はアプリを閉じた。
しばらくして、池袋店を任せている佐伯店長から電話が入った。
「夏目社長、先日お褒めいただいた三浦翠ですが、今回の新人研修の代表にしようと思っています。新人向けの交通費・研修補助の申請書類を、本社へ持って行かせました。そろそろ到着するはずです」
電話を切った直後、オフィスのドアが開いた。
2.新人補助に増えた桁
入ってきたのは、三浦翠本人だった。
面接のときとはまるで雰囲気が違っていた。身につけているグレーの制服は店の支給品のはずなのに、腰まわりだけをこっそり詰めている。口紅の色も、前に見たときよりずっと鮮やかだった。
彼女は分厚い申請書類を私のデスクに置いた。
態度は一見、丁寧だった。けれど、その目は何度も私のバッグや腕時計を盗み見る。隠しきれない嫉妬は、顔に貼りつけた笑顔よりもよほど目立っていた。
私は胸の奥の冷えを押し殺し、書類を開いた。
今回、三店舗で採用した新人は四十九名。会社規定では、一年目の新人に対して、交通費と研修費の補助として一人あたり年間十二万円まで申請できることになっていた。
ほかの新人は全員、十二万円。
けれど三浦翠のページだけ、金額が百二十万円になっていた。
私は書類を閉じた。
「いったん外で待っていて」
翠が部屋を出ると、私はすぐ佐伯店長に電話をかけた。
「三浦翠の補助額が百二十万円になっている。どういうこと?」
「社長、その子、田辺さんの昔の知り合いらしくて……。生活が大変だと聞いています。田辺さんから、少し配慮してやってほしいと連絡がありました」
「わかったわ」
私はその申請書を見下ろしたまま、それ以上は言わなかった。
スマホで書類を撮影し、アシスタントの早川に電子承認フローのバックアップを取らせた。それから、承認欄に自分の名前を書いた。
再び翠が入ってきたとき、彼女の唇の色が変わっていた。
私の視線に気づくと、翠はわざとゆっくり口紅をしまった。ケースに刻まれたブランドロゴが照明を受けて光る。バレンタイン限定色の高価な口紅だった。
入社して半月にも満たない新人が、もうそんなものを使っている。
私は署名済みの書類を彼女へ押し出した。
翠は深く頭を下げ、何度も礼を言ってからドアへ向かった。
扉が閉まる瞬間、低く吐き捨てる声が聞こえた。
「色気のない女」
暗くなったパソコンの画面に、私の短い髪が映っていた。
二十代のころからフットケアサロンと雀荘を経営してきた私は、東京の雑多な商圏で、大家、客、業者と渡り合ってきた。長い髪はとにかく邪魔で、早い段階でばっさり切った。
まさかそれが、夫に軽んじられる理由になるとは思わなかった。
スマホが震えた。
怜司からのメッセージだった。
『凛、今夜は急な会議が入った。帰りは遅くなる』
私はトーク画面を数秒見つめ、返事を打ちかけて、消した。
結局、何も送らなかった。
3.母が遺した部屋
夜、スマートドアベルがまた異常を知らせた。
画面を開くと、会社で残業しているはずの男が、母の遺した部屋のリビングに座っていた。彼は私のエルメスのスカーフを手に取り、翠の髪を優しく結んでいる。
私は自分の短い髪に触れた。
胸の奥に冷たいものが広がった。
怜司は、私にそんなことを一度もしてくれなかった。
「翠の髪、いい匂いがするな。やっぱり女は長い髪が似合う」
翠は私のシルクのナイトウェアを着て、怜司の腕の中に収まっていた。
「怜司、今日、奥さんのオフィスで書類にサインしてもらったの。本当に百二十万円で通ったよ。一円も減らされなかった」
怜司の手が止まった。
「気づかれなかったのか?」
「何も聞かれなかった」
二人は声を潜めて笑い合った。
私は冷えきった目で画面を見つめ、録画を止めなかった。
彼らに、私をその場で壊す価値などない。
彼らにふさわしい役目は、証拠になることだけだ。
やがて、翠は湯を張ったフットバス用の桶を持ってきた。
彼女は怜司の前に膝をつき、慣れた手つきで足を洗い始めた。声は柔らかく甘く、怜司はソファにもたれて、私が一度も見たことのない満ち足りた顔をしていた。
「翠はやっぱり、男の世話がうまいな」
「昔、怜司に教えられたから」
込み上げる吐き気を押さえながら、私は画面録画を続けた。
しばらくして、翠が小さな声で切り出した。
「怜司、弟の借金、まだ二千万円残ってるの」
「翠の弟なら、俺の弟みたいなものだ。何とかする」
怜司は彼女の髪を撫でると、立ち上がって書斎へ入った。
しばらくして、彼は一つの書類袋を持って戻ってきた。
私は息を止めた。
あの中には、この部屋の登記関係の写しと、普段自宅に保管している印鑑証明に関する書類が入っている。
「翠、これがあの部屋の資料だ。築年数は古いけど、場所がいい。不動産担保ローンに出せば、二千万円くらいは借りられるはずだ」
翠の目が一瞬で輝いた。
「本当にいいの? 奥さんに気づかれない?」
「あいつ名義の物件はほかにも十数件ある。これ一つなくなったところで気づかない。俺たちはもう十年も夫婦なんだ。凛の金は、俺の金でもあるだろ」
その顔を見た瞬間、私の中で最後に残っていたものが完全に冷めた。
この部屋は、母が私に遺してくれたものだ。
そこに手を伸ばした以上、代償は払ってもらう。
私は監視映像、録音、メッセージ履歴、承認書類をすべてクラウドへ保存し、顧問弁護士の事務所宛てにも送った。
4.いわゆる新事業
翌朝、本社へ着くと、怜司はすでに私のオフィスで待っていた。
隙のないスーツ姿で、手には資料の束を持っている。私を見るなり、彼は笑顔で近づいてきた。
「凛、会議は終わったのか?」
私は足を止めず、そのままデスクの向こう側へ回って座った。
怜司の笑顔が一瞬固まった。けれどすぐに、何事もなかったように身を乗り出してくる。
「これ、最近見つけた新しい事業なんだ。養生ミルクティー。今の若い女性はこういうものに弱い。絶対に伸びる。少し出資してくれないか」
彼は資料を私の前へ差し出した。
数ページめくっただけで、中身が空っぽだとわかった。あるのは耳触りのいいコンセプトだけ。市場調査も、収支計画も、許認可や衛生面の資料もない。
そして事業責任者の欄には、三浦翠の名前があった。
私は資料をデスクに戻した。
「怜司、今度はどんな空箱なの?」
彼の顔色が変わった。
「凛、これは夫の仕事だ。少しくらい応援してくれてもいいだろ」
泳ぐ目を見て、私はすでに答えを得ていた。
「今回はいくら必要なの?」
怜司の目がすぐに輝いた。
「多くない。三千万円でいい」
私はうなずいた。
彼は、私が気を変えるのを恐れるように、すぐ出資意向書を差し出してきた。
「怜司、明日は私たちの結婚十周年の記念日よ。このお金は、記念パーティーでの公開寄付という形にしましょう」
怜司は何度も頷いた。
「ああ、いいよ。全部、凛の好きにすればいい」
私はペンを取り、意向書に署名した。
怜司はオフィスの中で何度も署名を確認してから、書類を手に急いで出ていった。
ドアが閉まると同時に、私は早川へ内線をかけた。
「弁護士と会計士に連絡して。明日の資料は予定どおり準備してちょうだい。それから、田辺怜司が過去五年間に関わった投資案件の資金の流れを全部まとめて」
「承知しました、社長」
しばらくして、スマホにまた通知が届いた。
画面を開くと、翠があの部屋の寝室に座り、私のジュエリーを一つずつ自分の体に当てていた。傍らには、怜司が持ち出したばかりの出資意向書が置かれている。
「こんなにたくさん持ってても意味ないじゃない。私がつけたほうが似合うのに」
私は画面を見つめ、静かに笑った。
明日の舞台はもう整っている。
その金を手にする機会など、彼女には来ない。
5.十周年記念の晩餐会
翌日の夜、結婚十周年の記念パーティーは六本木のホテルの宴会場で開かれた。
表向きは私と怜司の記念日。だが実際には、私の会社が毎年行っている公益寄付事業の発表会も兼ねていた。
私が会場へ入ると、メイクは控えめで、ドレスのラインも無駄のないものにした。長年取引のある社長がグラスを掲げ、冗談めかして声をかけてくる。
「夏目社長、最近また店舗を増やされたそうですね。事業も順調で、今夜は結婚十周年。まさに二重のお祝いですね」
私は微笑み、返事をしようとした。
そのとき、入口付近がざわめいた。
怜司が来た。
高価なスーツに身を包み、髪を艶やかに整えている。そして彼の後ろには、純白のドレスを着た翠がいた。動きはぎこちなく、目だけが落ち着きなく揺れている。
会場が数秒、静まり返った。
怜司は周囲の視線などまるで読めない様子で、翠を連れてまっすぐ私の前へ来た。
「凛、紹介するよ。こちらが養生ミルクティー事業の責任者、三浦翠さんだ」
私はシャンパンのグラスを軽く揺らした。
「知っているわ。彼女は今、うちの池袋店で働く新人の施術スタッフでしょう」
周囲の誰かが、思わず小さく笑った。
翠の顔色が変わった。すぐに目を赤くして、怜司を見上げる。
「怜司、私の仕事が夏目社長ほど立派じゃないことくらい、わかってる。でも私だって、自分の手でちゃんと働いているの」
怜司はすぐに顔をしかめた。
「凛、そういう言い方はないだろ。翠は自分の労働で稼いでるんだ。見下す必要はない」
二人の息の合った芝居を見ているうちに、私の笑みは薄れていった。
「私は、真面目に働く人を軽んじたことはないわ。彼女がそうかどうかは、今夜みなさんにもわかる」
私はグラスを掲げ、中の酒を飲み干した。
宴も半ばを過ぎたころ、司会者が壇上へ上がった。
「それでは、今夜の主役である夏目社長にご登壇いただきます」
私はドレスを整え、ゆっくりとステージへ上がった。
客席では、翠の目が不自然なほど輝いていた。まるで次に名前を呼ばれるのが自分だと信じているようだった。
怜司はその隣でグラスを持ち、得意げに微笑んでいる。
私はマイクを受け取った。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。今夜は、私と田辺怜司の結婚十周年の記念日であると同時に、いくつかの公益寄付事業を正式に発表する場でもあります」
会場に拍手が広がった。
「独居高齢者の生活支援事業に、五百万円。地方医療支援事業に、一千万円」
金額を読み上げるたび、拍手は少しずつ大きくなった。
私は少し間を置き、客席へ視線を向けた。
怜司はグラスを手に、期待に満ちた顔をしている。翠は彼の袖を強く握り、視線を私に貼りつけていた。
「次に、私は夫に特別な感謝を伝えたいと思います。彼がいなければ、私はこの三千万円の寄付を決断できませんでした」
三千万円という金額が出た瞬間、会場に低いどよめきが走った。
翠は興奮して怜司の耳元に何かを囁いた。怜司はますます得意げに笑い、彼女の腰へ手を回した。
私はその光景を見つめたまま、はっきりとした声で続けた。
「この三千万円は、子どもの生活支援基金へ寄付いたします」
怜司の笑顔が凍りついた。
翠の顔も、一瞬で血の気を失った。
私はもう二人を見なかった。
司会者がステージへ戻り、あらかじめ用意していた寄付書類を差し出した。私はその場で署名し、再びマイクを手に取った。
「夫は、行き場のない子どもたちのことをいつも気にかけていました。ですから今夜、私は彼のために、もう一つ特別な結婚十周年の贈り物を用意しました」
6.金色のフットバス桶
客席がざわめいた。
早川が、赤い布をかけたトレーを持ってステージへ上がってきた。布の下は不自然に膨らんでおり、何かが隠されているのがわかる。
怜司の青ざめた顔に、またかすかな期待が浮かんだ。
おそらく、これこそが自分への本当のサプライズだと思ったのだろう。
私は彼を見た。
「怜司、こちらへ来て」
彼はスーツを整え、早足で壇上へ上がってきた。途中で知り合いの客に軽く会釈する余裕すら見せていた。
私は手を伸ばし、赤い布を外した。
怜司が中を覗き込む。
次の瞬間、その顔が完全に固まった。
トレーの上にあったのは、金塊でも、株式譲渡の書類でも、彼が期待したものでもなかった。
安っぽい金色のスプレーで塗られたプラスチック製のフットバス桶。
その中には濁った足湯の湯が入っていた。水面にはいくつもの密封袋が浮いている。袋の中身は、不正な新人補助申請の写し、異常な送金記録、偽造委任状の下書き、不動産担保ローンの相談記録、そして怜司と翠のメッセージのスクリーンショットだった。
会場は水を打ったように静まり返った。
私は早川に目で合図した。
全員が見守る中、早川はそのフットバス桶を持ち上げ、怜司の頭上から濁った湯を浴びせた。
水は彼の髪、顔、スーツを伝って流れ落ちた。
私はスポットライトの下でマイクを握り、彼を見下ろした。
「怜司。結婚十周年の贈り物、気に入った?」
客席から息を呑む音が漏れた。
怜司はようやく我に返り、私を睨みつけた。
「夏目凛! お前、正気か!」
私は彼の惨めな姿を見た。
「少し頭を冷やしてもらっただけよ」
彼の顔の筋肉がひきつった。次の瞬間、私へ飛びかかろうとしたが、すぐに警備員が前へ出て彼を押さえた。
翠が悲鳴を上げてステージへ駆け上がった。
彼女は怜司のそばにしゃがみ込み、ふやけた紙を慌てて拾い集めた。
「ひどすぎます! 自分の夫に、どうしてこんな恥をかかせられるんですか!」
怜司は荒い息を吐きながら、客席へ訴えるように顔を向けた。
「みなさん、聞いてください。昔、俺があちこち営業に走り回って、凛のために投資を集めてやったから、今の夏目凛があるんです。結婚して十年、彼女は忙しいからと子どもも作らなかった。それでも俺は、一度も文句を言わなかった。心を尽くして支えてきたのに、今日はこうして人前で俺を辱めるんです」
私は静かに彼の芝居を見ていた。
十年前の交通事故で、彼が私を助けようと飛び出してくれたのは事実だった。
当時、私の事業はようやく軌道に乗り始めていた。彼は足首を痛め、半年ほど自宅で休養した。外で誰かが彼を「ヒモみたいだ」と笑ったと聞いたとき、私はその相手との取引を即座に切った。
あの案件を取るために、私は長い時間をかけてきた。
それでもあのころの私は、ただ彼を守りたかった。
田辺怜司を、本当に愛していたのだ。
ただ、彼がいつからこんな人間になったのか、もう思い出せない。
夜遅くまで女性社員の相談に付き合いながら、胃痛で動けなくなった私を見向きもしなかったころからだろうか。
帰宅が遅くなり、襟元に知らない香水の匂いをつけてくるようになったころからだろうか。
それとも、私の金を当然のように使いながら、私のことを強すぎる、つまらない、女らしくないと見下すようになったころからだろうか。
ずぶ濡れで立つ男を見ていると、ただ滑稽だった。
愛した結果がこれだなんて、あまりにもつまらない。
7.公開された証拠
怜司の会社の上司が、場の空気に耐えきれなくなったように前へ出てきた。
「夏目社長、何か誤解があるのではありませんか。田辺は会社でも、それなりに真面目にやっていました」
私はその人へ顔を向けた。
「真面目? 彼がここ数年関わった投資案件のうち、十件中八件は私が損失を埋めています。出資したお金は一度もまともに戻ってこなかった。それなのに、社内ではすべて彼の実績になっていました」
私は一度言葉を切り、翠へ視線を移した。
「十年前、彼に助けられた借りがある。だから私はずっと、彼に体面を残してきました。でも、いい暮らしに飽きた人間は、ついには母が遺してくれた部屋にまで手を伸ばした」
私は手元のリモコンを押した。
ステージ後方の大スクリーンが明るくなった。
メッセージ履歴、送金記録、不正な補助申請書類、怜司と翠が私の部屋を不動産担保ローンに使おうと相談している音声と映像が、次々に映し出される。
宴会場は最初、完全に沈黙した。
次の瞬間、ざわめきが爆発した。
何人かがスマホを取り出し、ステージへ向けて撮影を始めた。
怜司は大スクリーンを見上げ、顔から少しずつ血の気を失っていった。
翠は足から力が抜けたように、その場へ崩れ落ちた。白いドレスの裾に、汚れた水が染み込んでいく。
私はマイクを持ったまま、二人へ歩み寄った。
「残念だったわね。少し前に、あの部屋のスマートドアベルと室内カメラを新しくしたの。しばらく空き家にしていたから、防犯のためだった。まさか本当に、泥棒が二人も映るとは思わなかったけれど」
怜司の上司の顔は、見るからに険しくなった。
「田辺。君は明日から会社に来なくていい」
そう言い残すと、彼はすぐに背を向けた。半歩も余計にとどまらなかった。
その言葉を聞いた怜司は、完全に取り乱した。
「夏目凛! お前が俺を壊したんだ!」
警備員が彼を床へ押さえつける。
私は彼を見下ろした。
「壊したのは私じゃない。あなたが欲を出しすぎただけ」
怜司は抵抗をやめ、全身から力が抜けたように見えた。
だが数秒後、突然顔を上げて笑い出した。
「俺は離婚しない。夫婦でいる限り、お前の財産には俺にも権利がある。十年も一緒にいたんだ。簡単に俺を捨てられると思うなよ」
翠は救いを見つけたように、すぐ彼のそばへ這い寄った。
「怜司、怖がらないで。彼女があなたをいらないなら、私がいる」
客席から、押し殺した嘲笑が漏れた。
私はステージの上で、二人が言い終えるのを待った。
それから早川の手から書類の束を受け取った。
「まだわかっていないのね。あなたに交渉する資格はない。あなたが初めて会社資金に手をつけたときから、私は弁護士と会計士に依頼して証拠を固めてきた」
私は書類を一枚ずつ示した。
「メッセージ履歴、送金記録、新人補助の不正申請、不動産担保ローンの相談記録、偽造委任状の下書き。すべて証拠保全済みよ」
怜司の顔から血の気が消えた。
「弁護士は家庭裁判所へ離婚調停を申し立てる。調停が不成立なら、裁判離婚へ進む。不貞行為、財産の不正な移転、業務上横領、背任、委任状偽造の疑い。どれ一つ取っても、あなたには十分すぎる代償になる」
怜司は私の手元の書類を見つめた。
その目は狂気から恐怖へ変わっていく。
突然、彼は警備員の手を振りほどき、ステージの上で膝をついた。そして私の脚にしがみついた。
「凛、悪かった。本当に一時の気の迷いだったんだ。翠に誘われたんだ。あいつが何度も助けてくれって泣きついてきたから……。俺たち、十年も夫婦だっただろ。もう一度だけチャンスをくれ。これからは何でも凛の言うとおりにする」
私は彼を見下ろした。
胸に残っていたのは、嫌悪だけだった。
8.噛み合う犬たち
翠はその場で凍りついていた。
ついさっきまで、怜司が離婚を拒めば自分も何かを得られると信じていたのだろう。だがその怜司に、あっさりと切り捨てられた。
彼女は彼に飛びつき、腕を掴んだ。
「怜司、今のどういう意味? 私を愛してるって言ったじゃない」
怜司は彼女を振り払った。
「黙れ。お前が毎日しつこく泣きついてきたから、俺はこんなことになったんだろ。弟の借金を何とかしてくれって、まとわりついてきたのはお前だ。俺にとってはただの刺激だったんだよ。本気で結婚してもらえるとでも思っていたのか?」
翠はステージの上に座り込んだ。顔が真っ白になっていく。
「田辺怜司、最低……。中学のとき、東京へ連れていくって言ったのはあなたでしょう。私はあなたのために、あんなに苦労した。なのに大学に受かった途端、あなたは帰ってこなかった。家に無理やり嫁がされて、毎日殴られて……。やっと逃げてきたのに、今さらただの刺激だったなんて」
怜司は冷たく笑った。
「お前が馬鹿だっただけだ」
その一言で、翠の中に残っていた最後の理性が砕けた。
彼女は怜司に飛びかかり、顔を引っかいた。怜司も体面を気にする余裕をなくし、彼女を突き飛ばした。
つい先ほどまで寄り添っていた二人は、満員の客の前で互いを罵り、掴み合った。
フラッシュが何度も光った。
私はその醜い茶番を冷めた目で見ながら、スマホを取り出して警察へ電話をかけた。
「六本木のホテル宴会場です。業務上横領、背任、不正な補助申請、偽造文書に関する証拠があります。関係者は現場にいます」
通話を終えてしばらくすると、数名の警察官が宴会場へ入ってきた。
会場は一気に静まり返った。
警察官が身分証を示した。
「お二人とも、事情を伺います。ご同行ください」
「俺は何もしてない! 妻の金を使っただけだ。どうして俺が捕まるんだ!」
怜司は真っ青な顔で後ずさった。
ズボンの裾のあたりに、じわじわと水の染みが広がっていく。
客たちは反射的に距離を取り、嫌悪の目を向けた。
翠も取り乱した。
「私はただ恋愛していただけです! 関係ありません!」
警察官が二人を制止した。
銀色の手錠が照明を受けて冷たく光り、その手首にしっかりとはめられた。
昨日まで私の資産を奪い、母の遺した部屋に住み込む夢を見ていた二人は、あっけなく連れていかれる側になった。
その背中を見送りながら、私はようやく胸のつかえが少しだけ下りるのを感じた。
十年の結婚生活に、私は十分すぎるほど尽くした。
私は早川へ振り返った。
「弁護士に連絡して。すぐに離婚調停を申し立てる。それから、移された資金はすべて回収する」
「承知しました」
早川が頷いた瞬間、客席から拍手が起こった。
9.最後の真実
一か月後、警察から連絡があった。
三浦翠に妊娠が判明したため、当面は身柄を拘束せず、在宅で捜査を続けるという。
私は余計なことを尋ねなかった。
ただ早川に、身辺警護を二名手配させた。
案の定、数日後のことだった。
一日の仕事を終え、会社の地下駐車場へ向かうと、柱の陰から翠が飛び出してきた。手には果物ナイフを握っており、目は真っ赤だった。
「全部あなたのせいよ! あなたが金を取り戻したから、弟は借金取りに足を折られたの!」
彼女は私に近づく前に、警護の二人に押さえ込まれた。
私は彼女に余計な視線を向けなかった。
警護に、手順どおり警察へ引き渡すよう伝えただけだった。
後日、翠が連れていかれたあと、借金取りが彼女の住む古い木造アパートへ押しかけ、もみ合いになったと聞いた。
その混乱の中で翠は転倒し、子どもは助からなかったらしい。
報告を聞いた私は、早川にその情報を弁護士へ回すよう命じた。
それ以外のことには、興味がなかった。
数日後、私は事件の被害者として、拘置所にいる怜司と面会した。
厚いガラス越しの彼は、ひどくやつれていた。髪は乱れ、目には以前のような芝居がかった後悔はない。ただ、憎しみだけが残っていた。
私は受話器を取り、静かに彼を見た。
「あなた、外ではいつも言っていたそうね。結婚して十年も子どもがいないのは、私が産みたがらなかったからだって」
彼は私を睨みつけた。
「違うわ。私が望まなかったんじゃない。あなたが生まれつき、子どもを持ちにくい体だったの」
怜司の体が固まった。
「あの交通事故のあと、あなたの検査結果を見た。最後の体面だけは残してあげようと思って、十年間、黙っていた」
彼の唇が震え始めた。
私は数秒だけ黙り、最後の言葉を贈った。
「もう一つ、あなたは今でもわかっていないでしょう。翠が本当に、あなたの子を四度も身ごもったと思っているの?」
怜司の目が見開かれた。
「今回の子だって、本当にあなたの子だと、どうして言い切れるの?」
彼はガラスに向かって飛びかかった。
「凛! 待て、行くな!」
すぐに刑務官が駆け寄り、怜司を面会室から引き離した。
私は受話器を置き、立ち上がった。
廊下の先から差し込む陽の光が、少し眩しいほど温かかった。
これから先の人生で、私はもう腐った人間に関わらない。
お金も、仕事も、自由も。
本当に私の手の中にあるものは、最初からそれだけだった。
これからは、誰かの隣ではなく、私自身の立つ場所で生きていく。




