第9話 王宮の回廊にて
鑑定書は、三十ページに及ぶ分厚いものだった。
テオドール公の応接間で、私はそれを一ページずつ読んだ。
結論は明快だった。
「ヴェルヒェン王国が発表した防御魔法陣と、リーゼル殿の設計記録に記された魔法陣の流路設計には、設計者固有の構造的特徴が一致。改変の痕跡はヴェルヒェン側の設計に集中しており、リーゼル殿の記録がより原型に近いと判断する」
手が震えた。
「……認められた」
「ああ」
テオドール公が紅茶を注いだ。いつもの、穏やかな手つきで。
「よくここまで耐えたね、リーゼル殿」
「テオドール公のおかげです。最初に居場所をくださったのは、あなたですから」
「居場所を活かしたのはあなた自身だよ。さて──これを受けて、ヴェルヒェン側には正式な回答を求めることになる」
「王太子がどう出るか……」
「予想はつくかね」
「逃げるでしょうね。責任を他に押しつけて」
「リーゼル殿、よくわかっているな」
「三年間、近くで見ていましたから。あの人は、窮地に立つほど笑顔が完璧になるんです」
テオドール公が少し寂しそうに笑った。
「才能ある若者が、才能を正しく使えなかった。それもまた、制度の歪みがもたらす悲劇かもしれんな」
予想は当たった。
ヴェルヒェン王国からの公式回答は──
「防御魔法陣の著者表記の誤りは、事務的な手続きの不備によるもの。責任者として、魔法技師カイル・ヴォルフを処分する」
カイルに全ての責任を押しつけた。
「……やっぱり」
笑顔のまま責任を他者に転嫁する。オルヴァルトの、いつものやり方だ。
しかし、今回は状況が違う。
鑑定結果は中立国を通じて各国の学会に共有されている。「事務的な不備」で押し通すには、疑惑が大きすぎた。
ヴェルヒェン国内でも声が上がり始めていた。学会誌の信頼性は担保されているのか。王太子の研究成果は本物なのか。
マルグリットから手紙が届いた。
(「ヴェルヒェンの学者たちが独自に検証を始めた。流れは変わりつつある」)
ヴェインが工房に来た。定時の鐘は、まだ鳴っていない。
「どうしたの? 珍しいわね、定時前に」
「ヴェルヒェンから使者が来ている」
「……王太子から?」
「いや。セレーネ嬢からだ」
予想外だった。
使者が持ってきたのは、セレーネからの親書。
(「王太子殿下は、カイルの処分で事態を収束させるつもりです。しかし私は、このまま真実が歪められることに耐えられません。直接お会いしてお話ししたいことがあります」)
「……セレーネが?」
「罠の可能性は」
ヴェインが即座に言った。
「高いわ。でも──」
手紙をもう一度読む。
筆跡に乱れがあった。セレーネの社交文書はいつも完璧に整っている。この乱れは、感情が制御できていない証拠だ。
「焦っている。何かを恐れているのよ」
「根拠は」
「筆跡。セレーネの字は社交界一と言われるほど美しいの。でもこの手紙は、三箇所でインクが滲んでいる。手が震えていた証拠よ」
ヴェインが感心したように眉を上げた。
「……あんたの観察眼は相変わらずだな」
「会うわ」
「ひとりでは行かせない」
「わかってる。一緒に来て」
「言われなくても行く」
国境近くの中立地点で、セレーネと会った。彼女は一人で来ていた。
銀髪は乱れ、顔色が悪い。社交界の華と呼ばれた面影は薄かった。
「来てくださったのね」
「用件を聞くわ」
「……王太子殿下は、私を切り捨てるつもりよ」
「どういうこと?」
「カイルの処分だけでは収まらないと、殿下も気づいている。次に責任を押しつけられるのは私。『セレーネが嫉妬からリーゼルを追放するよう進言した』という筋書きを用意しているの」
「あなたが追放を進言したのは事実?」
「……事実よ」
セレーネの目が潤んだ。しかし、今回の涙は──計算ではなさそうだった。
「あなたが邪魔だったの。王太子の隣にいるべきは私だと思っていた。でも──」
「でも?」
「殿下は最初から、私のことも道具としか見ていなかった。あなたの研究を盗むための婚約であり、私はその後釜の飾り。それに気づいたのは、つい最近よ」
「いつ気づいたの」
「鑑定が決まった夜、殿下が側近に言ったの。『セレーネには退場してもらう。侯爵家の娘程度、替えはいくらでもいる』と」
声が震えていた。
「……それを聞いて、どう思った?」
「最初は信じたくなかった。でも、思い返せば殿下は最初から──誰に対しても同じだったわ。必要なときだけ笑顔を向けて、不要になれば切り捨てる」
「私もそうだった」
「ええ。あなたのときに気づくべきだった。でも私は、自分だけは違うと思い込んでいた」
セレーネが目を伏せた。
「愚かでしょう」
「……愚かではないわ。信じたい気持ちは、誰にでもある」
自分に言い聞かせるように、言った。
かつての私も、同じだったから。
「セレーネ。あなたが持っている情報を、鑑定委員会に証言する気はある?」
「証言……」
「あなたが知っている事実──王太子がどのように研究成果を横取りしたか、その過程を証言してくれれば、事務的な不備という嘘は完全に崩れる」
「でも、そうしたら私も共犯として──」
「追及される可能性はある。でも、自分から証言した人間と、逃げた人間では、世間の扱いが違うわ」
セレーネは長い沈黙の後、背筋を伸ばした。
「……わかった。証言する。もう、誰かの駒でいるのは嫌」
セレーネが立ち上がった。
去り際に、一度だけ振り返った。
「リーゼル」
「何?」
「あなたのこと、ずっと憎んでいたわ。でも──今は、少しだけ羨ましい」
「……何が」
「自分の足で立っているところが」
セレーネは背を向けて歩き出した。その背中は、震えてはいなかった。
帰り道、ヴェインが隣を歩いていた。歩幅を、私に合わせて。
「あの女を許すのか」
「許してはいないわ。でも、利用はする」
「……冷たいな」
「冷たくないわよ。彼女だって被害者の一面はあるもの。オルヴァルトに利用されていたことには変わりない」
「あんたは強くなったな」
「あなたのおかげよ」
「俺は何もしていない」
「上着をかけてくれたでしょう。パンを届けてくれたでしょう。手袋を置いてくれたでしょう」
ヴェインが黙った。耳の先が、わずかに赤い。
「それと、廊下で一晩中見張ってくれたでしょう」
「……あれは騎士の務めだ」
「騎士の務めで耳が赤くなるの?」
ヴェインが早足になった。
私も歩幅を広げた。
ルルが二人の間を飛び跳ねて、きらきらと光っていた。
──セレーネの証言が鑑定委員会に届けられた翌日、ヴェルヒェン王宮から緊急の招集状が届いた。




