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婚約破棄されたので定時退社します ~追放された宮廷魔法師は隣国で溺愛されて最強になりました~  作者: 渚月(なづき)


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第8話 沈黙を破る声

手帳がない。


一瞬、頭が真っ白になった。


三年分の記録。私の研究者としての存在証明。あれがなければ──


「リーゼル」


ヴェインの声で我に返った。彼は部屋の惨状を見て、すぐに廊下を確認した。


「犯人の気配は消えている。窓の鍵が外から操作された形跡がある。相当手慣れた人間だ」


「……間に合わなかった」


「落ち着け。写しはある」


その一言で、思考が戻った。


「ヴェイン。手帳の写しは──」


「騎士団の金庫にある。俺が預かったまま、一度も出していない」


息を吐いた。


「……あの日、写しを預けておいて本当によかった」


「俺もそう思う」


手帳の原本を盗まれたのは痛い。

しかし、写しがある限り、記録は失われていない。


そして──盗まれたという事実そのものが、新しい証拠になる。


「相手は焦っている。鑑定を恐れているということだ」


「ええ。原本がなければ鑑定できないと考えたのでしょう。でも、写しがあることを向こうは知らない」


ヴェインが腕を組んだ。


「次の手は」


「まず、テオドール公に連絡を。写しを明日の審査会場に届けてもらいたい。それから──」


私は一つ、賭けに出ることにした。


「マルグリット先生に、手紙を書くわ」


「元院長に? あの人は追放のとき沈黙していたんだろう」


「ええ。でも──マルグリット先生は学問に忠実な人よ。政治に屈したことを、ずっと悔いているはず」


「根拠は」


「あの書状。学会誌に私の論文が王太子名で掲載されたことを知らせてきたでしょう。あれは警告であり、同時に──」


「謝罪でもあった、と」


「……そう。声に出せない謝罪」


ヴェインは黙って、便箋と羽根ペンを差し出した。

いつの間に用意していたのだろう。


手紙を書いた。

感情的な訴えは避けた。事実だけを、簡潔に。


「展覧会での実演結果。鑑定の提案。手帳の盗難。そして──先生にしか語れない真実があること」


封をして、ヴェインに渡した。


「夜明け前に出せば、明日の午後には届く」


「頼むわ」


「任せろ」


ヴェインは部屋を出る前に振り返った。


「今夜は俺が廊下で見張る。安心して寝ろ」


「廊下は冷えるわよ」


「騎士だ。慣れている」


「……ありがとう」


「だから礼はいらないと言っている」


「言うだけならただでしょう」


ヴェインは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「……あんた、強くなったな」


「あなたのおかげよ」


「買いかぶりすぎだ」


扉が閉まった。

廊下に、彼の気配を感じながら、私は手帳のなくなった枕元に手を置いた。


ルルが枕の上に丸まった。温かい。


(大丈夫。まだ戦える)





翌日。展覧会三日目。表彰と講評の日。


大広間は昨日よりもさらに人が増えていた。手帳盗難の噂が広まったのだ。


オルヴァルト王太子は平然と席についていた。微笑みは完璧。隣にはセレーネが寄り添い、時折ハンカチで目元を押さえている。


「まあ、リーゼルさんの手帳が盗まれたですって。おかわいそうに。犯人はどなたなのかしら」


(……あの涙は計算だ)


審査員団の長が壇上に立った。


「昨日の実演に関する鑑定について、提案者であるリーゼル殿に確認したい。研究記録の原本が盗難にあったと聞いたが、鑑定を進めることは可能か」


私は立ち上がった。


「はい。原本は盗まれましたが、正確な写しがございます」


会場がざわついた。


「写しは半年前にブランシュタット公国の騎士団金庫に預けたもので、第三者による改竄の余地はありません。金庫の鍵はテオドール公と騎士団長のヴェインのみが管理しています」


オルヴァルトの微笑みが、初めてはっきりと揺らいだ。


「写し……だと?」


「はい。研究者であれば、記録の複製を保管するのは当然のことです」


カイルの顔色が変わった。


「写しだと……いつの間に……」


カイルの呟きは小さかったが、私の耳には届いた。

隣にいたヴェインも聞いていたのだろう。わずかに目を細めた。


(カイル。あなたの報告は、もう届いているのでしょうね。でも──遅かったわ)


そのとき。

大広間の扉が開いた。


黒いローブ。銀縁の眼鏡。表情の読めない顔。


マルグリット。


会場が静まり返った。


マルグリットは壇上に向かい、審査員団に一礼した。


「中立の立場として、一つ証言をさせていただきたい」


審査員団の長が頷いた。


マルグリットが語り始めた。感情を排した、事実だけの証言。


「三年前、ヴェルヒェン王立魔法院において、防御魔法陣の刷新計画が発足しました。その計画の中核設計を担当したのは、当時主任研究員であったリーゼルです」


「計画の進行中、王太子殿下から共同研究の名目で設計資料の提出を求められました。リーゼルはこれに応じました」


「その後、論文が王立学会誌に掲載された際、リーゼルの名前は著者欄から削除されていました。この事実を、私は当時の院長として確認しています」


会場が、水を打ったように静まった。


「なぜ、当時それを告発しなかったのですか」


審査員のひとりが問うた。


マルグリットは一瞬だけ目を伏せた。


「……保身です。王太子に逆らえば、魔法院そのものが政治的な報復を受ける。結果として、私は沈黙を選びました」


その声には、初めて感情が滲んでいた。


「しかし、真実を真実として残さなければ、学問は死にます。遅すぎる証言かもしれませんが──事実は事実です」


マルグリットが私を見た。銀縁の眼鏡の奥の目は、穏やかだった。


(……先生)


喉が熱くなった。けれど、泣くわけにはいかない。


会場の隅で、他国の技師たちがざわめいていた。


「元院長自らが証言に来るとは……」


「これは事務的な不備では済まないぞ」


オルヴァルトが立ち上がった。


「元院長殿の証言は承りました。しかし、一個人の主観に過ぎない。客観的な鑑定を待つべきではないか」


「おっしゃる通りです、殿下。ですので、鑑定を進めてください」


「……いいだろう」


鑑定は中立国の魔法院に委ねられることが、正式に決定した。結果が出るまでは一ヶ月。


会場を後にするとき、マルグリットが私の前に立った。


「遅くなって、すまなかった」


「……いいえ。来てくださっただけで」


「手紙を読んで、目が覚めた。もう学問を裏切りたくないのだ」


マルグリットが微かに──本当に微かに、口元を緩めた。


ヴェインが廊下で待っていた。


「終わったか」


「まだ。鑑定待ち」


「ああ。だが──あんたはもう、一人じゃない。それだけは確かだ」


ルルが私とヴェインの間を飛び越えて、彼の肩に着地した。三つの尾を広げて、得意げに鳴いた。


──一ヶ月後。鑑定結果を携えた使者が、ブランシュタットに到着した。


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