第4話 嘘の上に咲いた花
張り紙の正体は、求人ではなかった。
「ヴェルヒェン王国より派遣の魔法技師、カイル・ヴォルフ。明日到着予定」
ヴェルヒェンから。それだけで、胃の底が重くなった。
テオドール公が紅茶の席に私を呼んだのは、その日の昼だった。
「驚かせたかね。だが、これは以前から進めていた交渉でね。ヴェルヒェン側が技師を送ると言い出したのだ」
「……なぜ、今になって」
「さてね。小国への善意かもしれんし、別の思惑かもしれん」
テオドール公はカップに角砂糖を落とした。ぽちゃん、と小さな音。
「リーゼル殿。あなたがヴェルヒェンを出た本当の理由を、私はまだ聞いていない」
心臓が跳ねた。
「尋ねないのかと思っていました」
「待っていただけだ。人は追い詰められると嘘をつく。だが居場所を得た人間は、自分から話す」
「……見透かしていらっしゃるのですね」
「年の功というやつだ。さあ、お茶がぬるくなる前にどうぞ」
私は手帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
話した。
三年間の研究のこと。設計した防御魔法陣の理論。
ある日、論文の著者名から自分の名前が消えていたこと。そして、婚約破棄。
テオドール公は黙って聞いていた。途中で紅茶がぬるくなっても、彼は口をつけなかった。
「……手帳を見せてもらえるかね」
「どうぞ」
テオドール公はゆっくりとページをめくった。数式と設計図の羅列。常人が見ても意味のわからない記号の群れだ。
だが──
「筆跡の癖が一貫している。日付の記入が途切れていない。三年分の試行錯誤が段階的に記録されている」
「……内容はおわかりに?」
「いや、魔法の理論はわからん。だが、文書の真贋を見る目だけは長年鍛えてきた。これが後から捏造されたものではないことくらいは読み取れるよ」
テオドール公が手帳を閉じた。
「これだけでは証拠としては弱い。だが、状況証拠としては十分に重い」
「はい。わかっています」
「焦るなとは言わん。だが、急がないほうがいいとも思う。あなたの実力は、この国の鉱山が証明してくれるだろう」
テオドール公が微笑んだ。
「嘘は、真実の蓄積の前には長く持たん。歴史が証明しておるよ」
その言葉を、手帳に書き留めたい衝動に駆られた。
「テオドール公。もう一つ伺ってもいいですか」
「なんだね」
「なぜ私を信じるのですか。会って間もない、素性も定かでない人間を」
テオドール公は紅茶をかき混ぜる手を止めた。
「信じているのではない。見ているのだよ。あの鉱山の結界を設計した人間が、嘘の上に研究を組み立てるとは思えない。真摯な研究者は、仕事に嘘をつけないものだ」
「……」
「それに、ヴェインがお前のことを気にかけている。あの子は人を見る目だけは確かでね」
窓際のヴェインが、わずかに肩を揺らした。聞こえていたらしい。
翌日、カイルと名乗る魔法技師が到着した。
三十代前半の男で、愛想がよく、社交的。坑夫たちにも気さくに話しかけ、すぐに打ち解けていた。
「いやあ、素晴らしい公国ですね。空気が澄んでいる」
「長旅でしたでしょう。工房は隣にもう一つ空きがありますから」
「ありがとうございます、リーゼルさん。同業者がいると心強いですよ」
一見すると、脅威には見えない。
しかし、ルルの反応が違った。
カイルが工房に足を踏み入れた瞬間、ルルの尾が三本とも逆立った。
低い唸り声。
私が知る限り、ルルがこの反応を見せるのは──
(魔力の偽装を感知したとき、だけ)
カイルは表面上、私に友好的だった。
「リーゼルさんの結界、見ましたよ。鉄を触媒にするなんて、王都でも聞いたことがない。どうやって思いついたんですか?」
「坑道の岩盤を観察しているうちに、自然と」
「自然と、ですか。謙虚ですねえ。ヴェルヒェンではこういう研究はされていなかったんですか?」
「……どうでしょう。私は末端にいましたから、全体の研究方針までは」
「そうですか。でも、これほどの理論を組める方が末端とは。もったいない話ですね」
探っている。私のヴェルヒェンでの立場を、確認しようとしている。
にこやかに。穏やかに。
しかし、その奥にある目の動きを、私は見逃さなかった。
彼の視線は、私の手帳に向いていた。何度も。さりげなく。しかし確実に。
(……観察した。仮説を立てる)
仮説一。カイルはヴェルヒェンからの純粋な技術交流要員。
仮説二。私の動向を監視するために送り込まれた。
仮説三。目的は私の手帳──研究成果の原本の回収。
ルルの反応を考えれば、仮説一は消える。
検証が必要だ。
その夜、私は手帳を工房の机の上に置いたまま、工房を離れた。
ただし──手帳の下に、一枚の紙を挟んでおいた。
薄い感圧紙。触れた者の魔力痕が残る仕掛けだ。
翌朝、出勤前に確認する。
感圧紙には──跡があった。
私のものでも、ヴェインのものでもない、第三者の魔力痕。
(仮説三が有力。検証完了)
手帳は、もう工房には置けない。
この日から、手帳は肌身離さず持ち歩くことにした。
ルルを手帳の守護につけ、就寝時も枕元に。
カイルには何も言わない。気づいていないふりをする。
翌日も翌々日も、彼は変わらず笑顔で工房を訪ねてきた。
「リーゼルさん、最近はどんな設計を?」
「鉱山の保守点検用の、地味なものよ」
「地味なものこそ実用的で、価値がありますよね」
笑顔。常に笑顔。けれど、目だけは私の手帳の位置を追っている。
帰り道、ヴェインが声をかけてきた。
「あの男、気をつけろ」
「……何か気づいたの?」
「根拠はない。ただ、ルルがああいう反応をする相手は信用しないことにしている」
「ルルの勘を信用するのね」
「精霊獣の感知能力は、人間の直感より遥かに正確だ。俺は前にそれで助けられたことがある」
「前に?」
「……昔の話だ」
それ以上は言わなかった。左手首の火傷痕を、無意識に撫でていた。
ルルは騎士団長の肩に乗り、ご機嫌に喉を鳴らしていた。いつの間にか懐いている。
「ヴェイン。お願いがあるの」
「なんだ」
「手帳の写しを作りたい。万が一に備えて。……保管を頼めないかしら」
「理由は聞かなくていいか」
「聞いてもいいけど、長くなるわよ」
「なら後でいい。引き受ける」
手帳の写しを作る作業は、三日かかった。三年分の記録を、一字一句違えずに書き写す。
手が痛くなったが、やめるわけにはいかない。
写しをヴェインに渡した夜、彼は無言でそれを受け取り、騎士団の金庫に収めた。
「鍵は俺と、テオドール公の二人しか持っていない。他の誰にも開けさせない」
「……ありがとう」
「礼はいらない。必要なことだ」
月明かりの下、彼の横顔は思ったよりも優しかった。
ルルが窓の外を見つめて、小さく鳴いた。
風が変わった気がした。嵐の予兆か、それとも──
──翌週、ヴェルヒェン王国から二通目の書状が届いた。
今度の差出人は、王太子オルヴァルトその人だった。




