第3話 小さな工房と最初の依頼
書状の差出人は、マルグリット。
王立魔法院の元院長であり、私の研究者としての師にあたる人だ。
中身は簡素だった。
(「あなたの論文が、今月の王立学会誌に王太子の単独著者名で掲載された。知らせておく」)
それだけ。慰めも、謝罪も、助言もない。
事実だけが、乾いた筆致で記されていた。
手が震えた。怒りではない。悔しさだ。
わかっていたはずだった。私の名前が消されたことも、王太子が成果を横取りしたことも。
けれど、「掲載された」という事実の重みは、想像以上に胸を圧した。
ルルが手帳の上から飛び降り、私の手の甲に額を擦りつけた。
白銀の毛並みが、仄かに光っている。慰めているのだ。
「……大丈夫よ、ルル」
声に出すと、少しだけ本当になった。
手帳を開く。三年分の設計図、演算の過程、失敗の記録、修正の痕跡。
すべて私の筆跡で書かれている。
(今は、目の前の仕事をする)
◇
翌日から、工房での日々が始まった。
ブランシュタット公国の鉱山は、公国の経済の要だ。
しかし、坑道の崩落事故が年に数件起きており、防護結界の整備が急務だとテオドール公は言っていた。
最初の依頼は、東の鉱山の坑道入口への防護結界の設置。
規模としては大きくないが、地質と魔力の流れを読み間違えれば結界は三日と持たない。
まずは現地調査だ。
鉱山に向かう馬車の御者席に、なぜかヴェインがいた。
「護衛だ」
私が何か言う前に、彼はそう言った。
「護衛って、鉱山までの道にそんな危険が?」
「山猪が出る。たまに魔獣も」
「魔獣は最近も?」
「この半年は出ていない。だが油断はしない」
ルルが私の肩の上で、ふん、と鼻を鳴らした。
精霊獣である彼女にとって、山猪は脅威でもなんでもないらしい。
鉱山に着くと、坑夫たちが作業の手を止めてこちらを見た。
視線に歓迎の色はない。当然だ。よそ者の女が突然現れて、結界を張ると言われても信用できるはずがない。
年配の坑夫が腕を組んで、私を値踏みするように見た。
「あんたが新しい術師か。随分若いな」
「リーゼルです。よろしくお願いします」
「前の術師は半年で逃げたよ。この鉱山は魔力が安定しなくてな、結界がすぐ薄くなる」
「安定しない原因は把握していますか?」
「知らん。術師が三人来て三人とも匙を投げた、としか言えんな」
有益な情報だ。三人が失敗しているということは、通常の手法では対処できない何かがある。
私は手帳を開き、坑道の入口に手をかざした。
魔力の流れを読む。地脈の方向、岩盤の密度、湿度、温度。
すべてが結界設計の変数になる。
「……この岩盤、鉄分が多い」
「ああ。ここは鉄鉱山だからな」
隣にいたヴェインが答えた。
「通常の防護結界だと、鉄が魔力を散らしてしまう。結界が薄くなる原因は、おそらくこれね」
「それが崩落事故の原因か」
「直接の原因ではないけれど、間接的には。結界の定着率が下がると、振動の吸収が甘くなる。積み重なれば崩落のリスクが上がるわ」
年配の坑夫が怪訝そうに眉を寄せた。
「他の術師は、そんなこと言わなかったぞ」
「鉄と魔力の干渉は、あまり研究が進んでいない分野ですから。でも、対処法はあります」
「あるのか?」
「理論上は。鉄そのものを結界の触媒にすればいい。散逸する魔力を逆手に取る設計です」
坑夫たちが顔を見合わせた。
半信半疑、というより、七割疑わしいという顔だ。
当然だろう。言葉だけでは何も証明できない。
「少し時間をください。設計を変える必要があります」
ヴェインは頷いた。急かしもしない。疑いもしない。
「必要なものがあれば言え」
「鉱山の地質図と、過去の事故記録があると助かる」
「手配する」
三日間、私は工房に籠った。
鉄分による魔力散逸を逆手に取り、鉄そのものを結界の触媒にする設計を組んだ。
これは私がヴェルヒェンで研究していた複合魔法陣の応用だ。
壁に設計図を貼り、演算用紙を床に広げ、ルルが邪魔をしに来るのをかわしながら作業を進めた。
四日目の夕方、坑道に試験設置を行った。
魔法陣が地面に浮かび上がる。蒼白い光が坑道の壁を這い、天井まで覆う。
坑夫たちが集まってきた。
「……光ってる。前の術師のときは、こんなに光らなかったぞ」
「魔力の定着率が上がった証拠です。光量は定着率にほぼ比例するの」
年配の坑夫が恐る恐る結界に触れた。
「あったかいな。前のは冷たかった」
「鉄の触媒特性を利用しているので、結界に温度が生じます。冬場の坑道作業にも──」
「嬢ちゃん。これ、ずっと持つのか?」
「定期的な保守は必要ですが、理論上は従来の三倍は保持します」
坑夫たちの表情が変わった。警戒が、興味に変わっている。
「……やるじゃねえか」
年配の坑夫が、ぶっきらぼうに言った。
褒め言葉だと気づくのに、少し時間がかかった。
小さな成功。ほんの最初の一歩。
定時の鐘が鳴った。
ヴェインが工房の扉を開けて、無言で外を指さした。
「まだ微調整が──」
「明日でいい。飯を食え」
「もう少しだけ──」
「リーゼル」
名前を呼ばれて、手が止まった。
この人に名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「……わかった」
仕方なく手帳を閉じて立ち上がると、工房の入口に紙袋が置いてあった。
中身はパンとチーズと、小さな林檎。
「誰が用意したの?」
「テオドール公の命令だ。技師が倒れたら困ると」
「テオドール公の命令、ね」
「……何が言いたい」
「パンの切り方が丁寧すぎるわ。テオドール公が切ったにしては几帳面ね」
ヴェインが黙った。
ルルが紙袋に鼻を突っ込み、林檎をくわえて得意げに尾を振った。
帰り道、夕焼けが鉱山の稜線を染めていた。
ヴェインは隣を歩いていたが、何も言わなかった。
沈黙が、不思議と心地よい。
「ヴェインさん」
「ヴェインでいい」
「……ヴェイン。この国では、いつもこんなに静かなの?」
「静かなのは嫌いか」
「いいえ。嫌いじゃない。……少し、慣れないだけ」
ヴェルヒェンの宮廷は常にざわついていた。派閥争い、噂話、お追従。
誰もが何かを演じ、何かを隠していた。
ここには、それがない。
ヴェインは小さく頷いただけだった。
宿舎に着いて鍵を開けると、ルルが真っ先に窓辺のクッションに飛び乗った。
三つの尾を扇のように広げ、くるりと丸まる。
もう自分の居場所を決めたらしい。
(……私も、見つけられるだろうか)
手帳を机に置く。マルグリットからの書状を、手帳の最後のページに挟んだ。
証拠は、まだ足りない。
けれど、ここでなら積み上げられる気がした。
──翌朝、工房の扉に一枚の張り紙があった。
「鉱山の魔法技師募集」に応じたのは、私だけではなかったらしい。




