第2話 国境の向こうの白銀
国境を越えた先に広がっていたのは、思い描いていた亡命先の風景とはまるで違った。
石畳の街道は手入れが行き届き、道端には野花が揺れている。
ヴェルヒェン王国の陰鬱な王都とは、空気の透明度からして別物だった。
ルルが私の肩の上で、ぴん、と耳を立てた。
三つの尾がふわりと広がる。ご機嫌らしい。
(……少なくともルルの鼻は、この土地を危険とは判断していないようだ)
ブランシュタット公国。
ヴェルヒェン王国の西に位置する小国で、鉱山と薬草の交易で成り立っている。
魔法技術については後進国とされていた。
けれど裏を返せば、技術者への需要はあるということだ。
街道の途中、荷馬車を引く商人とすれ違った。
「おや、嬢さん。ブランシュタットへ行くのかい?」
「ええ。この道で合っていますか?」
「合ってるとも。だが珍しいね、ヴェルヒェンから来る旅人は。あっちの連中はうちの国なんか見向きもしないもんだが」
「私は見向きもされなかった側なので」
商人は目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「気に入った! まっすぐ行けば関所がある。門番に事情を話せば通してくれるさ。この国は、来る者は拒まない」
来る者は拒まない。
その言葉が、妙に胸に沁みた。
ルルが商人の荷馬車の荷台を物欲しそうに見つめている。干し肉の匂いがするのだろう。
「ルル。人の荷物を狙わないの」
不満げに尾を振ったが、おとなしく肩に戻った。
半日ほど歩いたところで、関所が見えた。
石造りの簡素な門。ヴェルヒェンの大仰な国境施設とは大違いだ。
関所の騎士に身元を告げると、彼は怪訝な顔をした。
無理もない。宮廷勤めだった人間が、荷物ひとつで国境を越えてくるのだから。
「少々お待ちを。上に確認いたします」
そう言い残して奥に消えた騎士が、戻ってきたとき。
その後ろに、もうひとり。
黒髪に、深い青の瞳。
長身だが、威圧感は不思議と薄い。左手首に古い火傷の痕が覗いていた。
「辺境騎士団長のヴェインだ。事情を聞かせてもらえるか」
声は低いが、穏やかだった。尋問というよりは、純粋な問いかけに近い響き。
「リーゼルと申します。魔法技師です。ヴェルヒェンでの職を失い、こちらで仕事を探したいと思い参りました」
嘘は言っていない。
けれど、すべてを語ったわけでもない。
ヴェインは私の顔をじっと見つめ、それからルルに目を移した。
ルルは彼の視線を受けて、小首をかしげた。
尾は逆立っていない。つまり、この男を脅威とは感じていないということだ。
「精霊獣と契約しているのか。珍しいな」
「ええ。幼い頃から」
「……ここでは見かけない。ヴェルヒェンの術式か」
「古い民間の契約術です。王宮のものではありません」
ヴェインは少し考え込むように眉を寄せ、それから短く言った。
「わかった。テオドール公に取り次ごう」
あっさりと。拍子抜けするほどあっさりと、門は開いた。
(……なぜ、こんなに簡単に)
警戒は解かない。理由がわからないのだから。
しかし、行く当てがないのも事実だ。
ヴェインの背中を追って歩く。
彼の歩幅は大きかったが、ふと気づいたように速度を落とした。
私に合わせたのだ。何も言わず。
(……変わった人だ)
◇
公国の城館は、王宮というよりは大きな屋敷だった。
石造りだが、壁には蔦が這い、庭には薬草が植えられている。
どこか生活の匂いがする建物だった。
応接間に通されると、白髪の老紳士が紅茶を淹れていた。
「ようこそ、ブランシュタットへ。テオドールだ」
杖をつく手は皺だらけだったが、背筋は真っすぐだった。
温和な目元が、静かに私を観察している。
「長旅だったろう。まずは座りなさい。紅茶を淹れたばかりでね」
「ありがとうございます」
椅子に腰を下ろすと、ルルが膝の上に飛び乗った。
テオドール公はそれを見て、目を細めた。
「おや、美しい精霊獣だ。三尾とは珍しい。名前は?」
「ルルと呼んでいます」
「ルル。うちの庭の薬草畑を荒らさないでくれると助かるが」
ルルが小首をかしげた。
約束する気はなさそうだ。
テオドール公は軽く笑い、それから声の調子を少し変えた。
「さて、リーゼル殿。魔法技師とのことだが、具体的には何ができるかな」
値踏みの時間だ。
私は胸ポケットから手帳を取り出した。
「魔法陣の設計が専門です。特に防御結界と治癒補助の複合陣を得意としています」
テオドール公の眉がわずかに動いた。
「ほう。ヴェルヒェンの防御結界刷新計画──あれに携わっていたかね」
心臓が一拍だけ強く打った。
「ご存じなのですか」
「小国の老人でも、耳は遠くないよ。あの計画は画期的だと評判だった。王太子殿下の指揮のもとで行われたと聞いているが」
(……王太子の、指揮)
喉の奥が苦い。
けれど、ここで感情を見せるわけにはいかない。
「はい。末端の研究員として携わりました」
嘘だ。設計の根幹は私がやった。
だが今、それを主張しても証明する術がない。
テオドール公は紅茶のカップをゆっくり置いた。
「うちの公国には魔法陣の専門家がいなくてね。鉱山の坑道防護が長年の課題だ。もし興味があれば、まずは小さな仕事から始めてみないか」
「……よろしいのですか」
「腕は仕事で見せてもらえばいい。住居と工房は用意しよう。ただし──」
テオドール公が微笑んだ。
「この国では、定時に帰るのが慣わしだ。働きすぎる技師は、うちの騎士団長が怒るのでね」
ちらりとヴェインを見る。
彼は窓際に立ったまま、小さく肩をすくめた。
「怒りはしない。ただ飯を届けるだけだ」
「それを世間では心配と言うのだよ、ヴェイン」
「……どうだか」
二人のやりとりには、長年の信頼が滲んでいた。
義理の親子か、それに近い関係なのだろう。
(……定時退社が、国の慣わし、か)
少しだけ、息を吐いた。
肩の力が抜けるのがわかった。
ルルが私の手帳の上にちょこんと座った。尻尾がぱたぱた揺れている。
ここで、やり直す。
ゼロから。
いや。手帳がある限り、ゼロではない。
ヴェインが宿舎まで案内してくれた。
「何か足りないものがあれば言え。日用品は城館の倉庫にある」
「十分よ。ありがとう」
「……礼は仕事で返せ」
短い言葉だが、そこに悪意はなかった。
むしろ、信頼の前払いのように聞こえた。
三年分の記録。
私の研究の、本当の著者が誰であるかを証明する唯一の手がかり。
(いつか必ず、取り返す)
工房の鍵を受け取ったとき、指先はもう冷たくなかった。
──けれどその夜、ヴェルヒェン王国から一通の書状が届いた。
差出人の名前を見て、私は息を呑んだ。




