第10話 私の名前で呼んでください
招集状の差出人は、ヴェルヒェン国王だった。
王太子ではなく、国王。事態が、王太子の手を離れたということだ。
テオドール公が同行を申し出てくれた。
「小国の老人でも、外交の場には立てる。一人で行かせるものか」
「ありがとうございます。でも、お体は──」
「この杖は飾りだよ。まだまだ歩ける」
「飾りにしては、しっかり体重をかけていらっしゃいますが」
「……ふむ。目が良くなったな、リーゼル殿」
テオドール公が笑った。
ヴェインは言葉少なだった。ただ、馬車の御者席にいつも通り座っていた。
ヴェルヒェン王宮。半年前に追い出された場所に、正面玄関から入る。
大広間ではなく、裁定の間に通された。長いテーブルの上座に国王。その隣に、表情の消えたオルヴァルトが座っていた。
セレーネはすでに証言を終えていた。鑑定結果と合わせ、王太子の関与は否定しようがないところまで来ていた。
国王が口を開いた。
「リーゼル殿。あなたの研究成果が不当に扱われたことについて、王家として遺憾の意を表する」
形式的な謝罪。しかし──
「つきましては、王家からの補償として、元の地位への復帰と、相応の賠償を提案したい。魔法省の主任研究員としての復帰に加え、研究予算の優先配分を約束しよう」
「また、著者名の訂正と公式謝罪文の発行は当然として、今後の研究環境は最大限保障する」
(復帰)
一瞬、心が揺れた。
ヴェルヒェンの王宮魔法省。設備は整い、資料は豊富で、研究者としてはこれ以上ない環境だ。
けれど。
「陛下。お申し出に感謝いたします。しかし──」
一呼吸。
「私は復帰を辞退いたします」
裁定の間が、しん、と静まった。
オルヴァルトが初めて、はっきりと動揺の色を見せた。
「……何を言っている、リーゼル。これほどの条件を──」
「殿下」
私は真っすぐに彼を見た。
「三年前、私はあなたを信じていました。共に研究を進め、この国の防衛に貢献できると」
「……」
「でも、あなたは私の信頼ごと、名前を奪った。婚約も、研究も、すべて道具だった」
「それは……事務的な不備であって──」
「殿下。まだその嘘を重ねますか」
オルヴァルトの微笑みが、完全に消えた。
裁定の間にいる全員が、息を呑んだ。
「私が求めるのは二つだけです。著者名の訂正と、公式な謝罪文の発行。地位も賠償も不要です」
国王が眉を上げた。
「理由を聞いてもよいかね」
「私にはすでに、居場所があります」
テオドール公が穏やかに進み出た。
「ブランシュタット公国は、リーゼル殿を正式な国家魔法技師として任命する予定です。小国ではありますが、彼女の研究を正当に評価する用意がある」
「さらに──」
テオドール公が一枚の書状を取り出した。
「中立国のドルフェン魔法院、北方のエルスター連合、そして東方のハイリゲ王国の三つの学術機関から、リーゼル殿の鉄触媒防護結界理論に関する共同研究の打診が届いています」
会場がどよめいた。
「彼女の技術は、もはや一国が囲い込めるものではありません。国際的な評価を受け始めている」
これは──知らなかった。
テオドール公を見ると、彼はにっこりと笑った。
「サプライズだよ、リーゼル殿。君の鉱山結界の実績報告書を、各国に送っておいたのだ」
「テオドール公……いつの間に……」
「老人にも、やれることはあるのだよ」
国王は長い沈黙の後、頷いた。
「……わかった。著者名の訂正と公式謝罪文については、一週間以内に対応しよう」
国王が書記官に目配せした。
「加えて、王太子オルヴァルトには王立魔法院の名誉顧問職を解く。今後、学術に関する王家の介入は、然るべき監査を経ることとする」
オルヴァルトの肩が、微かに震えた。
裁定が終わった。
オルヴァルトは最後まで、何かを言いたそうに口を開きかけ──しかし、何も言わずに去っていった。その背中は、完璧な微笑みを保とうとして、保てなかった人間のものだった。
誰にも気づかれないほど小さな、唇の震え。
私はそれを見た。けれど、何も言わなかった。
もう、この人に費やす時間はない。
◇
帰りの馬車の中で、ルルが私の膝の上でまるくなっていた。三つの尾がゆらゆらと揺れている。
テオドール公は向かいの席で目を閉じていた。穏やかな寝息が聞こえる。
馬車が止まった。ヴェインが外から声をかけた。
「少し止まる。馬を休ませる」
丘の上からは、ブランシュタットの街並みが見えた。夕日が石畳の街道を金色に染めている。
馬車を降りて、丘の上に立った。風が心地よかった。
ヴェインが隣に来た。
「帰るか」
「ええ」
「……断ったな。ヴェルヒェンへの復帰」
「後悔すると思う?」
「しない。あんたの居場所はもう、あそこじゃない」
「そうね。でも──」
「でも?」
「後悔しない理由が、研究環境だけじゃなくなっているのが、少し困るわ」
ヴェインが黙った。
「……どういう意味だ」
「わからないなら、いいわ」
「いや、わかっている。わかっているから困っている」
風が吹いた。ルルが私の肩で、きゅう、と小さく鳴いた。
ヴェインが不器用に──本当に不器用に、言った。
「俺は──あんたが選んだ場所に、いてもいいか」
声が震えた。少しだけ。
「……何を今さら。もうずっと、いたでしょう」
ヴェインが息を呑んだのがわかった。
「パンを届けて、上着をかけて、廊下で見張って。それを今さらやめるつもり?」
「……やめるつもりはない」
「じゃあ、答えは出てるでしょう」
それから彼は、いつものように上着を脱いで、私の肩にかけた。
「工房が、明日から少し広くなる。テオドール公が増築を許可した」
「……それ、今言うこと?」
「ああ」
笑ってしまった。この人は、こういう人だ。大事なことを言った直後に、日常の話に戻る。
それが、たまらなく好きだと思った。
丘を下りる。並んで歩く。歩幅は、もう合っている。
ブランシュタットの街が近づいてくる。工房の煙突から、薄い煙が上がっていた。
鉱山の方角からは、坑夫たちの歌声が微かに聞こえる。
ルルが私の肩から飛び降りて、ヴェインの肩に移り、また私の肩に戻った。忙しい子だ。
手帳の写しは、胸ポケットの中にある。
いつか──原本も取り戻すかもしれない。
あるいは、新しい手帳がこの先の記録で埋まるかもしれない。
どちらでもいい。
大切なのは、これから何を書くかだ。
鐘が鳴った。ブランシュタットの、定時の鐘。
今日も定時退社。明日も、きっと。
──私の物語は、ここから始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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